第35話

文字数 4,205文字

 武田信玄に精神的な大打撃を与えた第四次川中島合戦より、三年の月日が流れた永禄七(1554)年。雪国である越後国にも桜のつぼみがほころび始めた頃、佐之介は宇佐美定満の居城である、枇杷島城に帰り着いた。宇佐美定満は、またぞろ懲りもせず動き出した川中島を巡る攻防には参加を辞退していた。

「四次合戦にて山本勘助が死んだと聞き、情けないことに、武田と戦う気力が失せました。お屋形さま、この老いぼれめも、もう七十の坂を越えました。戦場が少々、億劫になってきましたわい」

 冗談交じりではあったが、定満の本音である。後進に道を譲り、いい加減に隠居したかったというのもある。永禄四年末に室町幕府第十四代将軍、足利義輝より一字を賜り名を輝虎と改めた上杉家当主は、苦笑混じりながらも願いを容れた。現在の定満は隠居の身ではあるが、それでも輝虎への忠義は微塵も揺らぐことはない。

 佐之介も三年の月日を相も変わらず定満の隠し忍びとして武田や北条、織田などを探り続けていた。此度も北条の動きを探り、重い病に罹ったと聞いた六右衛門の見舞いからの帰りであった。

「六右衛門の病は、如何であった」
「見立てでは肺腑を煩っていると。持ってあと半年ばかりと、本人が申しておりました」

 優れた忍びであった六右衛門は、己の寿命をあと半年と見極めた。しかも病は、労咳であるとも。己の身体は己がよく判ると、以前からは考えられぬほど弱々しい笑みを浮かべた六右衛門の顔を思い出しながら、佐之介は淡々と述べた。

「六右衛門も、病には勝てぬか。無理もない、儂も老いた。六右衛門も老いて当然じゃ」

 定満と六右衛門はもう四十年近くも、雇い主と隠し忍びとして辛苦を共にしてきた。それはただの主従ではなく、男同士の身分を超えた友情ともいえる信頼関係だった。現在の佐之介は、拠点を六右衛門の忍び小屋に置きつつ、武田と北条を探っていた。表向き六右衛門の甥となっているので、病に伏した伯父の傍に居らねば武田の人間たちが不信感を抱く。そう考えて、四次合戦後はずっと六右衛門の小屋に居るよう定満は命じたのだ。

「佐之介、久しぶりにそなたを呼び戻したには、理由(わけ)がある」
「はい」

 そう返事をすると佐之介は、定満と膝が触れあうほどに近づいた。定満の隠し忍びとなってからずっと、二人は内密な話をするときはこの距離であった。

「どうも近ごろ上田長尾家の当主、長尾政景の動向がきな臭いとの話があってな。奴の正室が、お屋形さまの姉君というご縁。それを良いことに」

 刹那、定満の老体から殺気が吹き上がった。いつぞやにも、これと似たような鬼気迫る気迫を六右衛門から感じたことがあった。まだ三十にも満たない若造の佐之介は、とうに七十を超えた二人の老人から感じる胆力の凄まじさに、改めて瞠目した。果たして自分が六右衛門の年齢まで忍びを続けられたとして、あれほどの老獪な手練れになれるか自信がなかった。定満にしても、そうだ。普段、自分と相対するときは好々爺然としているが、隠居したとはいえ今なお第一線で働ける気力を保ち続けている。

 思わず生唾を飲み込んだ佐之介に対し、定満は不意に口を信頼の置ける軒猿の耳に近づけた。

「政景がお屋形さまのお命を、狙っているとの噂がある。まことか否か、確かめてはくれまいか」

 告げられた内容に、心臓が凍る思いがした。実は軒猿の間でも、同様の噂が流れていたからだ。武田との戦がまたぞろ始まろうかという動きがあるのに、内乱まで勃発してはたまったものではないというのが、頭領の意見だった。いまは定満個人に雇われている形の佐之介だが、頭領の小坂勘太郎に政景の身辺を探るようにと内密に命じられていた。

「実は頭領からも」

 佐之介は定満に隠しごとができない。定満は勘太郎の読みの鋭さに感服しつつも、軒猿が疑いを持つほどに政景の叛意は滲みでているのかと、ため息を吐いた。

「そうか、勘太郎も感づいていたか」
「武田と、きな臭くなりつつある最中の噂です。あるいは密かに武田と通じているのではないかと、軒猿の中には疑う者もおりまして」
「内通か。そうなると厄介じゃな」

 政景に対する輝虎の信頼は、春日山城の留守居を任ずるほどに厚い。ゆえに政景が武田に内通していると仮定すると、輝虎は寝首をいつ掻かれてもおかしくない状況になっている。獅子身中の虫――考えたくはないが、状況が政景をそうだと見てしまう。拳を一瞬だけ固く握ると、定満は(まなじり)を決して声を出した。

「勘太郎にも正式に命じておく。軒猿と共に、政景の身辺を探れ」
「御意」

 陽はまだ充分に高いが、そろそろ大蔵経寺山で臥せっている、六右衛門の許へ戻らねば怪しまれてしまう。ここ三日ほど、越中国(富山県)へ、労咳によく効くと噂の薬を買い求めるという名目で、留守にしているのだ。それらしい薬は、甲斐国を出る前から自前で調合したものを懐に忍ばせてある。今日明日中に六右衛門の命が危ないというわけではないが、三年前に比べて身体が痩せ衰えていることは誰の目にも明らかだった。

「六右衛門を頼むぞ」

 定満の目には己の手足となって働き抜いてくれた老忍びへの、労いの色が濃く浮かんでいる。佐之介は頷くと、そのまま枇杷島城を抜け出し甲斐国へ戻った。途中でその辺にいる領民と同じ姿になり、自分を尾行している者は居ないか周囲の気配を充分に探りつつ忍び小屋へ戻ってきた。

「伯父御、佐之介だ。ただいま戻ったぞ」

 気配はないが、どこに三ツ者が聞き耳を立てているか判らない。伯父を案じる身内を演じつつ、静かに戸を開けた。

「佐之介、戻ったか」
「伯父御、また痩せたか?」

 佐之介が留守の間は、麓の村に住む寡婦に世話を頼んでいたがその姿が見えない。

「お菊どのは?」
「水を汲みに行っている。佐之介、無事で何よりじゃ」

 そんな偽りの身内を演じていると、桶いっぱいに川の清流を汲んできたお菊が戻ってきた。四十近い、肉置(ししおき)が豊かで快活なおなごは、佐之介を見て笑顔を見せた。

「おや佐之介さん、帰ったんだね。どうだい、無事に薬は手に入ったかい?」
「お菊さん、面倒をかけました。薬は無事に手に入りましたよ」

 懐から薬草をすり潰した粉薬が入った袋を取り出し、年相応の青年らしい笑みを浮かべた。

「おまえさんが留守の間、六右衛門さんはあまり食欲がなくてね。見てごらんよ、少し痩せちまっただろう? あたしのこの肉を、分けてあげたいよ」

 そう言ってからからと笑う。水がめいっぱいに清流を満たすと、お菊は開け放たれたま戸口戸口へ向かう。

「佐之介さんが戻ってきたから、あたしはこれで失礼しますよ。何かあったら、すぐに呼んでおくれ」
「何から何まで、ありがとうございます」

 お菊を麓の村まで送り届けて、佐之介は急いで六右衛門の待つ小屋へと戻った。

「佐之介どの、もうここに来るのはよせ。お主にまで労咳に罹っては、お役目に響く」
「駿河守さまから、六右衛門どのを頼むと仰せつかりました」
「宇佐美の殿が。なんとも勿体ないお言葉じゃ」

 六右衛門はそこで、涙を浮かべた。年のせいか病気のせいか、最近の六右衛門は涙もろくなった。出会った頃からは想像もできない姿に佐之介は、この老忍びの最期が近いことを悟った。

「お菊さんの口から俺が無事に越中から戻ったことが、村人に伝わりましょう。しばらくは誰も近づかないと思います」
「どこか、探りに行くのか?」

 六右衛門の声音には、忍びらしからぬ寂しさがありありと浮かんでいた。忍びとは元来、孤独も死も覚悟の上である。そうでなければ務まらない。

(病を得ると、ここまで気骨が変わってしまうのか?)

 病身の自分を置いて、どこかへ行ってしまうことを恨めしげに詰るその姿に、佐之介はやりきれなさを覚えた。かりそめの伯父と甥という関係なのに、六右衛門は錯覚を覚えているようだ。哀れみを覚えつつも、佐之介には遂行せねばならない使命がある。

「俺はこれから、越前守を探らねばならんのだ」
「越前守? 上田長尾家の?」

 六右衛門には理解できない内容だったのだろう。何ゆえ、身内を探るのかと。

「謀反の疑いがある」
「まさか。越前守さまの奥方はお屋形さまの姉君。謀反など――」

 そこまで言いかけて、六右衛門は、はたと気付いた。お屋形さまである輝虎が未だ独り身で、実子が居ないことに。

「気がつかれたようだな六右衛門どの。駿河守さまの御懸念も、まさしくそこなのだ」

「なんということか。越前守さまは左衛門尉(さえもんのじょう)さまの無念を、未だに忘れてはおらぬのか」

 左衛門尉こと長尾晴景は、輝虎の実兄で家督を争った。そのとき政景は晴景に味方し、輝虎(当時は景虎)と対立した。

「越前守さまは、お屋形さまが家督を継いだことに大層不満で、左衛門尉さまが隠居後に挙兵した。じゃが」

 ここで興奮したせいか呼吸が苦しくなり、六右衛門は荒い息を吐いた。佐之介を罹患させるわけにいかないので、入り口は開け放って換気を良くしてある。また内容が内容なので、会話はすべて読唇術によって行われている。六右衛門の呼気は極端に抑えられているため、枕頭に座していても、うつる確率は低い。ようやく落ち着いたのか、六右衛門は再び唇を動かし始めた。

「お屋形さまの猛攻に耐えきれず、越前守さまは降伏した。和睦の証として、綾姫さまを正室に迎えられたのに。……そうか、未だにお屋形さまが当主なのが不満か」

 晴景と輝虎が家督争いを繰り広げていたとき、佐之介はまだ九歳の子供で修行中の身だった。ゆえにその辺の経緯は、初耳だった。

「俺は信じられんのだ。越前守さまは、お屋形さまの信頼が厚いと思うていた」
「忍びでなくとも、人を騙し果せることが得意な者は、おるじゃろうて」

 輝虎の姉を正室に迎え、何食わぬ顔で仕えて謀反を企てる。忍びもよく人を欺くが、大名もまた化かし合いなのだと実感させられた。

「綾姫さまが、夫の謀反に一枚噛んでおられるか否か。それも探らねばならんぞ」

 若き日の彼女を知る六右衛門は、そこで疲れたように息を吐くと目を閉じた。やがて寝息をたてはじめたことを確認し、佐之介は音を立てずに忍び小屋を出た。輝虎の姉が謀反に加担していたら、と思うとやりきれなくなった。

 陽は落ち、忍びが活動するに相応しい頃合いになっている。幸い今宵は新月で、星明かりしか空にない。警戒を怠らぬまま、佐之介は越後国へ向けて走り出した。
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