第7話

文字数 1,557文字

 まだ夜も明けきらぬ東雲の頃。旅商人の格好に変じた佐之介は、常人と同じ足の運びでゆるりと街道を歩いていた。だが絶えず周囲の音に異変がないか、肌に触れる空気に異変はないかと五感を働かせている。ここは先ごろ繁蔵と行き交った中山道だ。不意に背後に人の気配を感じた。咄嗟に仕込み杖を引き抜こうとしたが、その前に声がかかった。

「佐之介よ」
「孫兵衛どのか」

 樵夫として暮らしている忍び小屋の管理人、孫兵衛が同じく行商人の格好で街道の片隅に腰をおろし草履の鼻緒を直していた。いつの間に姿を現したのか、不覚にも佐之介は全く気づかなかった。年老い、第一線を退いたとはいえ、長年の忍び働きによる技の冴えは、いささかも衰えておらぬようだ。自分がもし孫兵衛の年まで生き長らえたとして、このような芸当ができるだろうかと、己の未熟さを恥じた。

「関東へ行くのか」
「駿河守様の命令で、武田へ行くためにいったん関東へ」

 佐之介も同じく腰を下ろし、草履の鼻緒を直す。周囲に行き交う旅人はいるが、二人の会話は低く小さい声なので、端からは行商上のやりとりをしているようにしか見えない。孫兵衛は小さく頷くと、最近この辺りにも武田の忍びがうろつきだしたと警告してきた。

「わしも幾人か始末したが、充分に気をつけなされ」

 わしがしばらく背後を見ていようと言い残し、孫兵衛はその場で荷解きを始めた。薬売りの行商人を装っている孫兵衛は旅人に薬を売りながら、武田忍びがうろついていないか確認するようだ。

 別れの挨拶を交わし、佐之介は関東へと歩を進める。彼も気配を探るが、これといって不審な気配は感じない。もし何か異変があれば孫兵衛が何かしら知らせてくれる。

 無事に関東に入り忍び宿へ入ると、休む間もなく修験者の格好へと変じた。錫杖にも無反りの刀が仕込んである。杖の部分は通常の物よりも重く、殴打武器としても使える。錫杖の頭部に付けられた十二個の遊環(ゆかん)が、涼やかな音色をたてる。修験者なので、街道を外れた山中の獣道を歩いても、不思議がられない。

 気配を探りながら、ときおりカッコウの鳴き真似をして仲間に合図を送る。すると右後方から呼応するかのようにカッコウの鳴き声が聞こえた。野生のものかと思ったが、それにしてはどこか偽物くさい。殺気を消しながら錫杖を構えると、忍び笑いが伝わってくる。

「駿河守さまから文を預かっておる。そなたが菊池佐之介か。わしが忍び小屋の番人、六右衛門じゃ」

 カッコウの鳴き声と忍び笑いは、たしかに右後方から聞こえたのに、左前方の茂みから子供かと思うほど小作りな老人が、姿を現した。あっと内心で声を上げる。孫兵衛といいこの老人といい、第一線を退いたとは思えぬほどの老練な忍び技だ。己の技は誰にも負けないと自負していただけに、思い上がりも甚だしいと自省しきりだ。

「ふむ。駿河守様の文にあったように、かわゆげな若者よの」

 かわゆげ、という表現にまだまだ未熟者だという揶揄を感じて、佐之介は居心地が悪い。六右衛門は、既にこの辺りをひと通り見て回ったらしく、すぐさまこれに着替えよと着物をよこした。樵夫の若者に変じ錫杖を分解し、背に負う柴木の中に紛れさせる。遊環は懐の中に入れ、音を消した。

「こちらじゃ」

 辺りから、川水の音が聞こえてきた。獣道を行くと、不意にぽっかりと視界が開けた。川を背にした何の変哲もない樵夫小屋が、ひっそりと佇んでいた。うっそうと茂った低木や草で覆われており、余人の目には触れにくい。ここに小屋があると知っている者しか判らぬ場所だ。武田の本拠である躑躅ヶ崎居館にほど近いというのに、三ツ者たちに正体が露見しなかったのは六右衛門が樵夫になりきっていただけではない。忍び小屋が非常に巧妙に隠された場所に建っており、発見するのが難しいからだ。
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