第10話

文字数 1,068文字

 実葛(さねかずら)の花が咲き始めたのを見て、侍女の於須恵(おすえ)は、思わず笑みをこぼした。この躑躅ヶ崎居館に侍女として上がった頃は、よく樹液を取ったのに今では……と、おかしくなったのだ。

「これ於須恵よ、なにを笑うておるのだ」

 野太くも暖かみのこもった声がかかり、急いで笑みを引っ込めたが遅かった。右後方にいる声の主は、法体となっている。緋色の僧衣をまとってはいるが日がな一日、念仏を唱えているわけではない。むしろ戦乱の続く日の本の国をいかに己の手で統一し、皇室や幕府と共に民を安堵させるか。ただそれだけを考えていた。

「うん? それは美男葛(実葛の別称)か。ふははは、今の儂には不要なものじゃな」

 二年前に出家し、法名を信玄と改めた甲斐の虎こと武田信玄は、剃髪された頭を右手でつるりと撫で上げた。武芸で鍛え上げられたがっしりとした体躯は、四十を超えても衰えを見せていない。むしろ男盛りの肉体は、皮膚がはちきれんばかりだ。

「於須恵。すまぬが海津城の弾正忠(だんじょうのじょう)に、文を届けてくれぬか」
「かしこまりました」

 於須恵が返事をすると信玄は文机を引き寄せ、巻紙になにやら書き連ねていく。その間に於須恵は本丸内の渡り廊下を衣擦れの音も響かせずに進み、侍女部屋に入ると手早く歩き巫女の装束に着替えた。そのまま庭伝いに信玄の部屋まで行き、
「上様」
 と声をかけた。ちょうど文を書き終えたところらしく、信玄は密書を細く固く巻き締め厳重に蝋封を施しているところだった。

「では頼む」
「はい」

 武田に仕える三ツ者でも、手練れの女忍びは数が少ない。於須恵はその中でも特に見込まれ、信玄の侍女という名の身辺警護に当たっている。年齢はこの永禄四年で、十九歳になる。亡き両親、そして実妹を含む一族のほとんどが三ツ者という血筋だ。彼女は静かに信玄の前を辞すと他の三ツ者たちに見送られながら、川中島へと全速力で駆けていく。

 彼女は女ながらも脚力は強い。母方の叔父である新井庄助は常々、あれが男だったら心強い忍びになれたと、口惜しさを交えて同僚にこぼすほどだ。

 川中島は上杉との最前線基地となるが、そこへ至るまでの道程は武田領内だ。彼女は何の不安も抱かずに、忍びとしての脚力を存分に発揮し海津城に着いた。仲間が於須恵の姿を認めて警戒を少し緩める。

「弾正忠さまはいずこですか」
「先ほど遠乗りから帰られたところで、いまはお部屋にいらっしゃる」

 何度か使いに来ている彼女は、案内の者もつけずに奥へと進む。歩き巫女は武田の女忍びが最もよく使う変装だと知っているので、城内の兵士たちはみな於須恵のことを怪しまない。
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