第15話

文字数 1,040文字

 信玄が躑躅ヶ崎居館を出立したのは、永禄四年八月十六日のことである。川中島にある海津城の城主、高坂弾正忠昌信から杉政虎が十五日に妻女山に陣を張ったという報せを受けた上でのことだ。三ツ者たちはとうの昔に上杉軍の動きを探り取っており、海津城周辺の護りと周辺探索に奔走している。於須恵は信玄の身辺警護を兼ねて、本軍と共に影ながら随行している。

 沿道は出陣する総大将の軍勢を神妙な面持ちで見送る民衆で埋め尽くされており、雑踏は忍びが紛れやすいために警護の三ツ者たちも層倍の気を配って、周辺を守っている。女忍びは於須恵だけで、あとはみな男忍びだ。彼女は不本意ながらも、弥助と夫婦(めおと)を装い連尺商人の格好をしている。信玄が甲斐国を抜けたら、歩き巫女の格好に変じて後を付いていく算段になっている。勿論、他の男忍びたちも思い思いの格好に変じて海津城を目指す。

 何かがおかしいと三ツ者たちが思い始めたのは、領民たちの見送りがそろそろ途切れようかという頃だった。風下にいた於須恵は不意に、火薬の臭いに気付いた。他の三ツ者に報せる時間はない。彼らの殆どは風上にいて火薬の臭いに気付いていない。於須恵は素早く周囲を見回し、火薬を扱っているであろう賊の居場所を探す。於須恵の左斜め後方、四間(約四メートル)の処に白い煙が揺らめいているのが判った。煙を認めると同時に於須恵の身体は鞠のように跳ね上がり、数個の棒状手裏剣が藪の中へと吸い込まれていく。だが一瞬早く、煙玉が信玄を乗せた輿に向けて飛んでいく。

(上様!)

 於須恵をはじめ、ようやく事態に気付いた他の三ツ者たちが風上から動くが、もう遅い。爆発音が輿の周辺で響き渡り、周囲を護衛していた者たちも数人、地面に転がされた。輿から信玄の体躯が、ごろりと転げ落ちる。

「曲者じゃ!」

 本隊がざわめく中、三ツ者たちも散開する。於須恵は手裏剣を投げ打つと同時に駆け出し懐に忍ばせていた短刀を構え、狼のように茂みを駆け抜けていく男を追う。旅装をしているお陰で、忍び装束を纏っているときと変わらぬ速度が出せる。

(ここで逃せば三ツ者の名折れ。幸い相手は一人、私だけでも仕留めてみせる!)

 相手がこちらを振り向き様に手裏剣を打ってくるが、於須恵は横に飛んで躱す。懐を互いに探り取りだした武器は於須恵が投げ網、賊が鉤縄であった。共に飛び道具ではあるが、於須恵の方は相手を捕らえる気である。於須恵は走りながら投げる機会を窺う。相手は振り切れぬと観念したのか、思いきり鉤縄を投げてきた。
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