第36話

文字数 1,396文字

 長尾政景はその頃、自室でひとり酒を飲んでいた。正室も侍女も小姓たちも全て遠ざけて。静まりかえった室内に、行灯の灯りだけが揺らめいている。それは政景の顔に陰影をつけ、歪んだ笑みを貼り付けているようにも見えた。

 じとじとと長雨が続く、梅雨の時期。珍しく雨が上がっていたこの日は、亡き主君である晴景の月命日であった。晴景が死去して、早十一年の歳月が流れていた。

「あのまま晴景さまが上杉家の当主であったなら、拙者は今ごろ家老になっていただろうに」

 不満げな口ぶりで、ぐいと酒を呷る。今宵の酒はいくら飲んでも酔えず、重ねていく杯だけが、いたずらに増えていく。佐之介をはじめとする軒猿が二人、天井裏に潜んでいる。政景は考えの古い武将で軒猿のような忍びを卑しい存在と決めつけ、屋敷の周囲にも特別、忍び返しなど施していなかった。それが今回は幸いしていた。いとも簡単に佐之介たちは政景の部屋までたどり着けたのだから。

「お屋形さまには実子がいない。もし、いまお屋形さまがお隠れになったとしたら、有力な後継者は」

 ごくごく小さな呟きであったが、耳張りの異名を持つ、聴覚に優れた清吉(せいきち)という下忍の耳は誤魔化せなかった。

「お屋形さまの姉であるお綾とわしの子、喜平次(後の上杉景勝)よの。順当に考えて」

 そこでまた酒を呷る。心地の良い酔いが全身に回っていく。それは胸の内に芽生えた欲望のせいか、酒に対してなのか。今までほとんど感じなかった酔いは急速に全身を駆け巡り、不遜なことを口走らせるに至った。

「喜平次が上杉家の当主となれば、わしが後見人として牛耳ることができる。お屋形さまの姉を娶ったわしが、お家を相続して何が悪い」

 酔っ払いの戯れ言と、他人が聞けば誰もが思うだろう。しかしたちの悪いことに、政景は本気だった。酒の勢いもあって普段は胸の奥底に秘めていた本音が、晴景の月命日ということも手伝って漏れ出してしまった。

 佐之介たちは、酔っているからこそこれが本音で政景が謀反を抱いていると確信した。ひとり、またひとりと天井裏から姿を消していき、耳張りの清吉から詳しく話を聞き取った佐之介は枇杷島城へ、他は春日山城にいる頭領の許へ走った。

「もし、もし駿河守さま」

 枕頭でそっと呼びかけると、気配を感じ取ったのか定満の目が開く。同時に布団に忍ばせていた短刀を掴むが、相手が佐之介と判ると安堵の息とともに手放した。

「なにか掴んだか?」
「はい。やはり謀反の疑いあり、でございます」

 そこで耳張りの清吉から聞いた内容を一気に話すと、定満の目が暗がりの中でも判るほどに、強い怒りの光を帯びた。

 「喜平次さまはまだ幼子。なるほどのう、確かにお血筋的にはお屋形さまの甥御で、申し分ない。だからというて、政景ごときが乗っ取ってよいというわけではない」

 布団の上で胡座をかいた定満は暫し沈思していたが、やがて柔和な顔つきに戻ると佐之介を見やった。

「あい判った。この件はわしが何とかいたそう。ご苦労であった、下がって良いぞ」
「ははっ」

 佐之介は下男小屋へ赴きながら、胸の内に広がる言い表しようのない不安を持て余していた。定満の目に宿った、あの暗い光が妙に彼の脳裏にこびりついて離れないのだ。

(駿河守さまは、なにか途方もないことを考えているのではないか? なにか良くないことが起こりそうな気がする)

 佐之介の胸を占める不安は、ますばかりだった。
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