第4話

文字数 1,292文字

 大軍の中に城がまるで嘲笑うかのように、その雄大な姿を見せつけていた。十万人を超える上杉・長尾連合軍を前にしても微塵も揺るがぬ小田原城に、長期参戦の疲れからか連合軍内からは勝手に離脱する者も現れていた。

 諸将の足並みが揃わぬ中での攻めはいたずらに士気を下げるだけだと政虎は決意し、遂に小田原城を落とすことなく兵を引くことにした。しかし途中で寝返った上田朝直を捨て置くことはできず、武蔵松山城で撃破すると城代に上杉憲勝を残し、いよいよ本格的に関東を引き払おうとしていた。佐之介は、ちょうど春日山へ引き上げる上杉軍の中に、足軽として潜り込んだ。

 上杉軍はみな、疲れ切った顔をしていた。足軽などは土埃にまみれた垢くさい身体を、引きずるようにして歩く。馬上にある名の通った諸将たちでさえ、疲労の色が濃い。心の奥底では、ようやく故郷の越後に帰れるという思いが強い。ただそれだけが、嬉しかった。

 佐之介が上杉軍の、宇佐美駿河守定満の隊列に伝令兵を装って近付いたとき、頭領である小坂(こさか)勘太郎(かんたろう)が目敏く彼を見つけた。

「いかがした」
「繁蔵どのより、言伝を預かってきました」
 例によって読唇術での会話である。頷いた勘太郎が目顔で佐之介を呼び寄せると、興味深げに定満の目が若者の姿を追い求める。勘太郎に繁蔵からの伝言をすべて伝えると、今度は普通の声音でもう少し速く進軍するようにと、偽の命令を伝え去ろうとする。

「待て」

 定満が老齢とは思えない、若々しい声で佐之介を呼び止めた。いくら定満が軒猿を束ねる役目を担っているとはいえ、一介の軒猿を直に呼び止めるとは異例のことである。現に頭領の勘太郎が訝しげな顔で二人を等分に眺めていたが、やがて定満は勘太郎の耳に何事か囁くと、にっこりと笑った。

「しかし、あの者は」
「儂がかまわぬと、申しておるのじゃ」
「は、ははっ」

 なにやら得心がいかぬ顔の勘太郎だったが、佐之介を呼び寄せると、
「これからは、駿河守さまから直々に命令が下る。お前は駿河守さまのお指図に従え。よいな」
 突然のことで咄嗟に返事ができなかったが、軽く頭を下げることで了承の返事とした。

「越後に帰り着いたら、枇杷島城に忍んで参れ」

 なにやら楽しそうな表情の定満はそれだけを言うと、もう佐之介に興味を失ったかのように背を向けてしまった。勘太郎も用は済んだとばかりに冷たい忍びの目となり、他の軒猿たちに街道や付近の山中に武田や今川の間者がいないか調べるよう、命令を飛ばす。

(どういうことだ。俺はこれから、駿河守さま直属の軒猿になったということか?)

 勘太郎の台詞は、そうだと告げていたが、なにゆえ自分のような下っ端に過ぎない軒猿が、という思いが消えない。しかしいつまでも宇佐美の隊列にいては怪しまれる。彼は列から離れると伝令役の指物を山中に捨て、今度はさりげなく直江実綱の隊列へ足軽として紛れ込んだ。

 誰もが戦で疲れ切っている。隣を歩いていた歩いていた人間が誰であるかなど、気にもとめないほどに疲れ果てていた。ともすれば、負った怪我のために倒れそうになるのだ。佐之介はそうやって越後国まで、足軽として紛れて帰った。
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