第28話 一九七五年(ウィーン)

文字数 3,365文字

 日本に帰れはしたものの、終戦直前のその頃には、東京は度重なる空襲で焼け野原になっていた。
 だからその後はただ生きるのに必死で、あのドイツでの日々を振り返る暇も無かった。
 それでもベルリン工科大学に長いこと留学した経歴が生き、史生は都内の大学の講師に雇われ、機械工学とドイツ語を教えて暮らしをたてた。
 朝鮮戦争で日本の景気が回復する頃には結婚もし、やがて子供も生まれた。大学でも講師から助教授、そして教授へと抜擢された。
 見違えるように復興する日本で安定した暮らしを過ごすうち、ベルリン陥落間近のあの嵐のような数日の記憶も次第に遠いものになっていった。
 それでも、ある疑問が史生の頭から離れる事は無かった。
 ペーター・ドレシャーは、あの時本当に死んだのだろうか?

 戦争が終って三十年が経ち、史生も五十代半ばになった。その頃には史生の子供らも独り立ちして、贅沢さえせねば何不自由ない暮らしが出来るようになっていた。
 それで史生はウイーンのジーモン・ヴィーゼンタールを訪ね、ペーターの生死を確かめてみようと決意した。
 ジーモン・ヴィーゼンタールは、世界で最も高名なナチ戦犯の追及者だった。しかし彼の事務所は古いビルの中にあってひどく狭く、書類が乱雑に山と積まれていた。
 ヴィーゼンタールはその中で、書類に埋もれるように座っていた。しかし面会を求めた史生がペーター・ドレシャーの名を出すと、彼は周囲の書類に手を伸ばす事もなく即座に頷いた。
「知っています。ゲシュタポあがりのSS大尉で、フライシュタット強制収用所で幽霊と呼ばれていた男ですな。アドルフ・アイヒマンやルドルフ・ヘスのような大物ではありませんが、イスラエルはドレシャーを戦犯に指定して今も行方を追っています」
「しかし彼は一九四五年五月三日の朝、ベルリンを脱出する戦いの際に戦死したのではありませんか?」
 ウィーゼンタールは片方の眉を吊り上げた。
「何故です、日本人の貴方が、無名に近いナチの戦犯の事をどうして知りたいのです?」
 尋ねられて、史生はあの時の出来事を話した。
「ペーター・ドレシャーは私の古い友達です。あのベルリン防衛戦の間も、私は彼とずっと一緒に居ました。そして私は、彼が撃たれてハーフェル川に落ちるのも見たのです」
「それでも貴方は、ドレシャーはまだ死んでいないのではと疑っている。だからわざわざ、地球の反対側から私の所まで訪ねて来た。そうですな?」
「と言うより、私はただ彼が死んだと思いたくないのかも知れません」
「ドレシャーの死体は、戦後間もなく発見されました。西ドイツ政府も国際赤十字も、彼は戦死したと判断しています」
 そうか、やはり死んでいたのか。史生は落胆の吐息を漏らした。
 しかしヴィーゼンタールは書類の散らばる事務机の上にぐいと身を乗り出した。
「ところがですな、その死体が発見された場所が問題なのです」
「と言うと?」
「貴方のお話では、ドレシャーは誤って味方に撃たれて、ハーフェル川に転落したという事ですね?」
「その通りです」
「ところが彼の死体は、ディシンガー橋から十キロ以上も下流で発見されたのです」
「つまり彼はそこまで流されて行った……と?」
 ヴィーゼンタールは首を横に振った。
「ドレシャーの死体が発見されたのは川から歩いて数分はかかる草原で、しかも死体は額の真ん中を見事に撃ち抜かれていました」
 ヴィーゼンタールが何を言おうとしているのか、史生にはよくわからない。
「どういう事です?」
「これまでの情報をまとめると、ドレシャーSS大尉はベルリンのスパンダウで頭を撃たれてハーフェル川に転落した後、ずっと下流まで流されてから岸に這い上がり、さらに何百メートルも歩いてからばたりと倒れて死んだ事になる」
 ヴィーゼンタールは皮肉な笑みを浮かべた。
「いくらSS隊員がタフでも、これは絶対にあり得ない事です。あだ名の通り、彼が本物の幽霊でもない限りね」
「ヴィーゼンタールさん、貴方はどうお考えですか。ペーターは今もまだどこかで生きていると思いますか?」
「彼は逃げ延びたと思います、官房長官ボルマンやゲシュタポ長官ミュラーや死の医師メンゲレや、その他大勢のナチ戦犯達のようにね。発見された死体は、おそらく偽物でしょう。替え玉の死体を使って追及を逃れるのは、あの連中がよく使う手です」

 ヴィーゼンタールは更に、ペーターとかかわり合った他のナチの戦犯達のその後についても語って聞かせた。
 フライシュタット強制収用所のオステルマン所長とヴィルケSS軍曹らは戦後間もなく逮捕され、絞首刑に処せられた。
 パリのゲシュタポ支局長クノッヘンも逮捕されフランスで死刑判決を受けたが、それはやがて終身刑に切り替えられた。さらに一九六二年に理由も明かされないまま恩赦令が出されてドイツに帰り、晴れて自由の身となって家族と共に暮らしている。
 ヨーゼフ・ヴェーゲナーはフランスから更にスペインに逃れ、今では成功したドイツ人実業家として知られている。そしてこちらは殆ど知られていない事だが、元SSの秘密組織である《シュピンネ》の有力幹部という裏の顔も持っていた。
 さらにその親友のアントン・ブリュックラーの現在に至っては、史生はヴィーゼンタールの話を聞いて耳を疑った。
「ブリュックラーは今、ここオーストリアの国会議員なのです」
「何故です? 彼も立派な戦犯じゃないですか」
「彼はオーストリア人なのですが、故郷のリンツに逃げ帰って潜伏していたものの、やがて戦犯として逮捕されました。しかし裁判で無罪になってしまったのです」
 ブリュックラーは強制収用所では副所長だったが、職務の内容は彼の言うように裏方の事務屋だった。だから彼は囚人の虐殺と虐待に、直接には関与していなかった。
「ブリュックラーはよほど上手く立ち回ったのでしょう。彼の犯罪を立証できるだけの証拠は、とうとう発見できませんでした。しかも彼の裁判は、ここオーストリアで行われたものですから」
 呻くように言いながら、ヴィーゼンタールは唇を噛んだ。
 オーストリアはヒトラーのナチスドイツに併合されて戦争に駆り立てられたのであって、我が国もまたあの戦争の被害者である。
 オーストリア国民の中にはそう考える者が少なくなかった。そのため疑う余地もなく戦争の加害者であったドイツに比べ、戦争についての反省も戦犯に対する追及も自然に甘くなる。
 事実、オーストリアで開かれたナチスの戦犯を裁く裁判では、被告のSS隊員の家族や戦友らが大挙して法廷に押しかけて気勢を上げ、ユダヤ人の証人に罵声を浴びせる有り様だった。
 そのような空気の中で、囚人の殺害を命じた責任は所長のオステルマンに、そしてそれを実行した責任はヴィルケら現場の下士官兵達に押し付けて、ブリュックラーは無罪判決を勝ち取ってしまった。
「釈放されるとすぐに会社の経営を始めて有力な実業家になった彼は、戦後のオーストリアに蘇った新しいナチ党とも言うべき自由党に迎え入れられたというわけです。ブリュックラーやヴェーゲナーだけではありません、逮捕も処罰もされずにのうのうと生きているナチの殺人者は、驚くほど大勢いるのです」
「ではペーターはどうでしょうか。ヴェーゲナーやブリュックラーのように、逃げた先で上手くやっているのでしょうか?」
 尋ねられて、ヴィーゼンタールは首を傾げた。
「それはどうでしょうな。あの有名なアドルフ・アイヒマンでさえ、南米で捕まった時には荒家で暮らし、缶詰工場で働いて生計を立てていたのですから。SSの戦犯達の中でも下っ端だったドレシャーが良い目を見ているとは、とても思えません。おそらく南米のどこかで、戦犯に対する捜査の手を恐れて仕事や住まいを度々変え、常に怯えながらその日暮らしをしているでしょう」
 ヴィーゼンタールは更にこう付け加えた。
「ドレシャーにとっては、貴方が思っていたようにディシンガー橋で戦死していた方が幸せだったでしょうな。イスラエルと私達は、今後もずっと彼を追いかけ続けます。彼にとっても死ぬまで世界の果てを逃げ回り続けるより、出頭して公正な裁きを受ける方がまだ良いでしょう。それで厳しい判決が下されたとしても、少なくとも心の平安を得る事は出来るのですから」
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登場人物紹介

 ペーター・ドレシャー……ただ機械が好きなだけの、大人しく心優しい青年。興味があるのはナチスの政治的な主張ではなく、ナチスが作らせた戦車や装甲車。それで戦争が始まると、一兵卒として召集される前に戦車の整備をする技術将校を目指して士官学校に入学する。

 杉村史生……ペーターと同じく、機械が大好き。ベルリン工科大学に留学し、ペーターと親しくなる。第二次世界大戦が始まった為に帰国できなくなり、ベルリンで機械工学の勉強を続ける。そして大戦末期のロシア軍に包囲され陥落寸前のベルリンで、旧友ペーターと再会する。

 ヨーゼフ・ヴェーゲナー……ペーターの従兄でナチスの若きエリート。ナチス思想に心から染まっているわけではなく、第一に考えているのは己の出世。愛想は良いが心は冷たい。だが従弟のペーターのことは彼なりに大切に思っており、親衛隊に誘ったり、ペーターが窮地に陥ると救いの手を差し伸べたりする。しかしその為、ペーターはますます悪の道に堕ちて行くことになる。

 ケーテ・レンスキ……ポーランド国境に近いポメラニアに住む少女。略奪や暴行をしながら進撃するロシア軍の猛攻に追われ、撤退するミュンヘベルク師団と共にベルリンまで逃げる。その間、師団の看護婦の役目を務める。

 ユーリ・アレクサンドロヴィチ・スミルノフ……ロシア軍の大尉で正義感あふれる熱血漢。政治将校だが、ナチとドイツ軍は憎むが、ドイツの民間人は守ろうとする。

 ステパン・グレゴリオヴィチ・フョードロフ……ロシア軍の上級中尉。NKVD(後にKGBとなる国家保安人民委員部)の職員。

 花井孝三郎……表向きは駐独日本大使館の旅券課員だが、実は陸軍中野学校で教育された特務機関員。杉村史生に総統官邸に潜入しヒトラーの動向を探るよう命じる。

 ハンナ・ベルツ……ベルリンに住む少女。父親が反ナチ思想の持ち主で、「ナチスよりロシア軍の方がマシ」と教え込まれている。

 エルナ・ウルマン……ハンナの友達。父親がドイツ軍の将校である為、ロシア軍をとても恐れている。

 アントン・ブリュックラー……SS中尉で強制収容所の副所長。楽をして生きている要領の良い男。ドイツ軍の敗戦を見越し、収容したユダヤ人から略奪した金品を横領している。

 レーナ・フェスマン……強制収容所に収容されているユダヤ人の少女。頭の良い文学少女で、ふとしたことから知り合ったペーターと親しくなる。しかしそれは決して許されない恋だった。

 バウル・リッター……ベルリン郊外で退却しながら戦うドイツ第九軍の少年兵。故郷の東プロシアはロシア軍に占領され、絶望しながら西へと逃げている。

 マックス・シュペート……第九降下猟兵師団の伍長だが、本来は空軍の整備兵。兵力不足で東部戦線に駆り出された際に、ロシア兵の残虐さを目にした為、ロシア兵の捕虜になることを死ぬより恐れている。

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