第30話 一九四五年五月三日(ベルリン郊外、ペーター)
文字数 3,644文字
不意に激しい衝撃と痛みを頭に感じ、私は橋の下に真っ逆さまに転落した。
ああ、ようやくこれで終わりか。
その瞬間、私はそう思った。
だがそれは終わりではなく、また別の始まりでしかなかった。
私は死ななかった。
私を撃った弾は、頭蓋の横をかすって飛んで行った。その衝撃で私は一瞬気が遠くなりかけたものの、ただそれだけだった。
私は水中でロシア軍の戦車兵のコートを脱ぎ捨てた。
もがくようにようやく川面に出た私は、息が苦しくて制服の襟元を乱暴に引き開けた。その時、数日前にヒトラーから授けられたばかりの騎士十字勲章を結ぶがリボンが千切れ、勲章ごと川底に沈んでしまったが、別に惜しいとも思わなかった。
川面から少し顔を上げて辺りを見回した私は、周囲にドイツ兵の死体が幾つも浮かんでいるのに気付いた。
私の部下達、ディックマンらの死体だ。
その陰に隠れるようにしてそっと泳ぐうち、私は筏を見つけた。ほんの数時間前に、私と部下達とで作ったやつだ。
その上にもまた、私の部下達の屍が横たわっていた。
私は筏の上に這い上がり、もの言わぬ戦友の脇に横たわった。そしてそのまま手で筏をゆっくりと漕ぎ、ハーフェル川の下流へ向かった。川には死体が無数に浮かんでおり、戦死した兵士を装うのは何も難しくなかった。
川の水はまだかなり冷い。しかしロシアの冬の寒さを思えば何でもなかった。
ベルリン市街を充分に離れるまで筏の上で辛抱し、日が暮れかける頃オラニエンブルクの辺りでハーフェル川の西岸に這い上がった。周囲には森と草原が広がり、人家も無ければ人の姿も見当たらない。
西に向かって歩きだして間もなく、私は行く手にT34のシルエットを見つけた。見間違いようも無い、ロシア軍の戦車だ。しかしその横腹には大きな穴が穿たれ、完全に停止していた。
立ち止まり、暫く耳を澄ませていたが、辺りは静かで怒号も銃声もまるで聞こえなかった。
引き寄せられるように戦車に歩み寄った私は、そこでも数多くの死体を見た。そこに散らばっていたのはドイツ兵の死体だけでなく、直撃弾を受けて粉々になった荷車の陰には老人や女子供など民間人の死体もあった。
しかしカーキ色の軍服のロシア兵の死体はそれ以上にたくさん転がっていたし、T34中戦車もパンツァーファウストを二発も食らってまだ焦げた臭いを放っていた。
その時の状況が、私には手に取るようにわかった。避難民を守ってひたすら西へ逃げ延びてきた国防軍の戦友達が、待ち受けていたロシア軍とここで必死の戦いを繰り広げたのだ。
そして名も知らぬ戦友達はやり遂げたのだ。彼らは逃げも降伏もせず踏み止まって戦い、パンツァーファウストを抱えて敵戦車に肉薄攻撃をかけ、その命を代償にして西への脱出路を切り開いたのだ。
私のすぐ足元に若い兵士が倒れていた。発射済みのパンツァーファウストを放り出して草の上に横たわる彼の顔はまだ幼く、ただ空を眺めているかのように見えた。
その彼の額には、銃弾の穴が開いている。
私は彼の胸ポケットを探り、軍隊手帳を開いた。
パウル・リッター二等兵。まだ十七歳で、半年前に召集されたばかりだった。
その彼が死んで、私はまだ生きている。
何かが間違っている。そうは思うし胸も痛むが、しかし私にはどうも出来ない。
十字を切って短く祈りを捧げた後、私は彼の軍服を脱がせ、私の軍服と取り替えた。川底に沈めてしまい、彼の襟元にせめて騎士十字勲章を付けてやれなかった事を、私はその時初めて悔やんだ。騎士十字勲章は、私などより彼にこそふさわしかったのに。
私は国防軍兵士の制服を着て、水筒や雑嚢など装備品も身につけた。そして近くのロシア兵の死体から短機関銃を拾い上げ、西に向かって歩き始めた。
パウル・リッター、パウル・リッター……。
私は自分の新しい名前を繰り返し呟き、それに歩調を合わせるように歩き続けた。
エルベ河の向こうの米英軍支配地域まで、あと六十キロ余り。行く手には大勢のロシア兵が立ち塞がっているだろう。私はたった一人で、武器と言えば一丁の短機関銃だけだ。食べ物も、死んだ少年兵の雑嚢の中に入っていた一切れの黴臭い黒パンしかない。
エルベまで辿り着くのは、まず無理だろう。
仮に辿り着けたとして、そこで何が私を待っているというのだ。
故郷には二度と帰れず、親兄弟との再会も望めない。
強制収用所とレーナの記憶は胸に深く刻み込まれ、今も私を責め続ける。
目の前には中部ドイツの平原が広がり、血のように赤い夕焼けが空を染めていた。間もなく辺りは、夜の闇に包まれるだろう。
夜はまた明け、日はまた昇る。しかし私がこれから歩いて行かねばならぬ道は、夜よりなお昏い闇に永遠に覆われ続けているのだ。
それでも私は足を止めず、沈みゆく日を、消えゆく光を追いかけて、ただひたすら西へと向かって歩き続けた。
体は冷え切り足は重く、腹もひどく空いている。行くあてもなく、これからどう生きて行けば良いのかもわからない。
しかし確かにわかっている事が、ただ一つだけある。
私は、まだ生きている。
そして私は己の心臓が最後の鼓動を打つその瞬間まで、この闇よりなお昏き道をただ一人、さ迷いながら歩き続けるだろう。
〈了〉
《付記》
この作品の中には、しばしば「ナチ」あるいは「ナチス」という言葉が出てきますが、それは米英など連合軍側からの略称で、しかも軽蔑の意味も込められていました。戦時中、米英人が日本人を「ジャップ」と呼んでいたのと似たようなものです。従って、日本人が自分達のことをジャップとは言ったりしないように、史実としては当時のドイツ人達も自らをナチあるいはナチスと言ったりしないわけです。
ナチスの正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」で、縮めて呼ぶ場合には、当時のドイツ人達は「ナソス」と言っていたとのことです。しかし現在ではナチあるいはナチスの呼称が社会的にあまりにも深く浸透しており、唐突に「ナソス」等の歴史的に正しい呼称を使用することは徒に混乱を招くだけと考え、あえて「ナチ」および「ナチス」を使用しました。
また、当時のドイツ兵の軍歴手帳は中隊本部に保管されており、本人には渡されていませんでした。代わりに個人の認識番号や進級状況などを記された「給与支給帳」が配られ、身分を証明するものとして常時携帯を命じられていました。しかし小説の中で給与支給帳と書いたのでは、身分証明書の類いとは理解されにくいと思い、作品中ではあえて「軍隊手帳」と書き換えました。
作品の中に出てくる幾つかの小咄は、次の文献の中から選んだものに少し手を加えて使用しました。
平井吉夫編『スターリン・ジョーク』(河出書房新社、一九九〇年)
ラビ・M・トケイヤー、加瀬英明訳『ユダヤ・ジョーク集』(講談社、一九九四年)
作品の中で引用したH・R・ハガードの『ソロモン王の洞窟』の一節は、東京創元社の大久保康雄訳(一九七二年刊行)のものを使用しました。
あと、直接の引用はしていないものの、作品を書く上で参考にした主な文献は、以下の通りです。
コーネリアス・ライアン、木村忠雄訳『ヒトラー最後の戦闘』(早川書房、一九八三年)
アール・F・ジームキー、加登川幸太郎訳『ベルリンの戦い』(サンケイ新聞社、一九七二年)
邦正美『ベルリン戦争』(朝日新聞社、一九九三年)
R・アンドレーアス=フリードリヒ、飯吉光夫訳『舞台・ベルリン』(朝日新聞社、一九八八年)
20世紀の人物シリーズ編集委員会『KGB 調書 ヒトラー最期の真実』(光文社、二〇〇一年)
福島克之『ヒトラーのいちばん長かった日』(光人社、一九九七年)
ハリソン・E・ソールズベリー、大沢正訳『燃える東部戦線』(早川書房、一九八六年)
エルニ・カルツォヴィッチュ、増谷英樹・小沢弘明訳『橋 ユダヤ混血少年の東部戦線』(平凡社、一九九〇年)
クルト・マイヤー、松谷健二訳『擲弾兵』(フジ出版社、一九七六年)
ヴィル・フェイ、梅本弘訳『SS戦車隊』(大日本絵画、一九九三年)
パウル・カレル、松谷健二訳『焦土作戦』(学習研究社、一九九九年)
パウル・カレル、野上司訳『捕虜』(学習研究社、二〇〇一年)
ロジャー・マンベル、渡辺修訳『ゲシュタポ』(サンケイ新聞社、一九七一年)
ジャック・ドラリュ、片岡啓治訳『ゲシュタポ・狂気の歴史』(講談社、二〇〇〇年)
ルドルフ・ヘス、片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』(講談社、一九九九年)
キティー・ハート、吉村英朗訳『アウシュヴィッツの少女』(時事通信社、一九八三年)
ジーモン・ヴィーゼンタール、下村由一・山本達夫訳『ナチ犯罪人を追う』(時事通信社、一九九八年)
田村彰英監修『ライカ解体新書』(成美堂出版、一九九九年)