第6話 一九四五年四月二六日(ベルリン)
文字数 2,973文字
史生がそのペーターの従兄に会ったのは、ほんの数回だけだった。だがウェーゲナーという男は、史生の記憶の中にも強烈な印象を残した。
「ほう、君が日本から来たサムライか。話は、ペーターからよく聞いている」
ペーターに初めて引き合わされた時、ヴェーゲナーは笑顔で史生の手を握った。
笑顔。それがヴェーゲナーの特徴だった。ヴェーゲナーは一九〇センチに近い長身だから、彼と会う大半の者は見下ろされる形になる。しかしそれでもさほど威圧感を与えないのは、ヴェーゲナーが絶えず笑みを浮かべているからだろう。それにただ愛想が良いだけでなく、彼は親切でもあった。
しかし史生は、ヴェーゲナーに底知れぬ何かを感じた。ヴェーゲナーの笑顔と親切には、メフィストのそれに似た怖さがある。
ヴェーゲナーなら誰かに銃を向け引き金を引くその瞬間にも、変わらぬ愛想の良い笑顔を浮かべたままでいるのではないか。
史生は密かにそう思っていた。
そうか、ヴェーゲナーはゲシュタポに入ったか。そう聞いても、史生は少しも意外に思わなかった。
そしてヴェーゲナーならゲシュタポでも早く昇進しただろうし、コネを駆使してでもペーターを仲間に誘いかねない。
ヴェーゲナーに本当の優しさがあるかどうかは、史生にはわからない。しかし彼がペーターを実の弟のように思っている事だけは、史生も感じていた。
スピードを上げて近付いて来るエンジンの音に、ペーターの話が遮られた。
前線を越え、通りの向こうからオートバイがフルスピードでやって来た。ハンドルに身を伏せ銃砲弾を避けつつバイクを走らせる運転手は、武装親衛隊の迷彩服を着ている。
味方だ。
前輪を軸に後輪で半円を描いてスライドさせ、メーアカッツSS上等兵はペーターのすぐ前にバイクを停めた。
「どうだ、空港には行けたか?」
「はい、隊長」
「薬は届けたな?」
「はい、ですがあちらの軍医はひどいお怒りで」
「何と言った?」
メーアカッツは躊躇い、そしておずおずとした笑みを浮かべて答えた。
「山賊ども、フロイライン・レンスキを返してよこせ、と」
「ふん、ならば腕ずくで取り返しに来れば良いさ」
ペーターが鼻で笑うと、居合わせた近くの兵士らもにやりと笑った。
その兵士らの一人に、ペーターはケーテを呼びに行かせた。
間もなくやって来たケーテは、ひどく疲れているように見えた。
「大尉さん、私に出来る事は皆やっておきました。でも薬はまだまだ足りませんし、怪我の重い人には軍医の手当が必要です」
「ご苦労様でした、フロイライン」
「私の師団と合流しませんか、大尉さん。そうすれば負傷兵も野戦病院に入れられますし、クーベ軍医に診てもらえます」
ケーテがおずおずと申し出ると、ペーターは眉間に皺を寄せて少し考えた。そして答える前に、まだバイクに跨がったままの伝令兵に目を向けた。
「メーアカッツ、あちらの状況は?」
「今のところは、まだ何とか空港を守ってます。ですがいつまで持つか、かなりヤバい感じですね」
「聞いての通りだ、フロイライン。我々はここで、ミュンヘベルク師団の退路を支える。貴女の師団も遠からず後退せざるを得なくなるだろうし、遅かれ早かれその時には合流する事になるさ」
同じ頃、五百メートルほど南のテルトウ運河に面したビルで、アンドレイ・ヴァシリエヴィチ・メレホフ少佐とユーリ・スミルノフ大尉は、師団本部の命令書を間に挟み互いの顔を見合って黙りこくっていた。
「また攻撃しろと言ってきた」
先に沈黙を破ったのはメレホフ少佐の方だった。少佐がこの大隊の指揮官で、スミルノフは政治担当の副大隊長だ。
「次の攻撃は一七〇〇時、だが今度は戦車を支援に回してくれるそうだ」
スミルノフは腕時計に目を落とした。今は既に午後三時を回っているから、あと二時間もない。
「クソったれのファシストどもめ。戦争はもう負けだとわかっているのに、戦うのをなぜ止めない」
言いながら、メレホフ少佐は運河の向こう側のビルの群れを睨み据えた。そこには、まだ数多くの狂信的なナチの兵士どもが立て籠もっている筈だ。中でもSSの奴らは死ぬまで戦い、他のドイツ兵が降伏するのも許さないと言われている。
少佐は攻撃命令が面白くないのだと、スミルノフは察した。実は彼も、気持ちは同じだった。
祖国の為だ、命を賭けて戦え!
少し前までのスミルノフなら、そう叱咤して躊躇う事なく兵らに攻撃を命じただろう。
だが今は違う。少佐が言うように、祖国ロシアの勝利はもはや疑いようもなかった。祖国が存亡の危機に瀕していた頃ならいざ知らず、今は焦る事など何も無い筈だ。
もしもスミルノフが総指令官なら、ベルリンは厳重に包囲して無理な攻撃は避け、食料と弾薬が尽きたドイツ軍が自滅するのを待っただろう。
しかしロシア軍の上層部は、早く攻撃しろと矢の催促だ。
上層部がベルリン攻略を急がせる理由は、スミルノフにもわかっていた。
五月一日はメーデー、労働者の団結と連帯を示威する祭典の日だ。だからその日に総統官邸と国会議事堂に赤旗を立てれば、世界にロシアと共産主義の勝利を見せつけることが出来る。
ナチスを打倒したのはロシアの赤軍なのだ、と。
馬鹿らしい。
口には出さず、心の中でスミルノフは罵った。
ただメーデーに花を添える為、お偉方はどれだけ多くの兵士の命を犠牲にしろと言うのだろうか。
近頃のロシア軍の兵士達が、合言葉のように囁き合っている言葉がある。
必要の無い犠牲は、もう沢山だ。
スミルノフも全く同感だった。
「同志少佐、攻撃の準備を急がなければ。ただできるだけ多くの兵士を、故郷に帰してやれるよう考えましょう」
メレホフ少佐の顔に安堵の色が浮かんだ。
ロシアの赤軍では、副隊長でも党のお偉方と繋がりのある政治将校の方が、隊長よりも強い発言権を握っている場合が多い。、
その政治将校も同意してくれるなら、犠牲を少なくするやり方はいろいろある。平たく言えば、無理押しはせず攻撃しているふりをするのだ。
根っからの職業軍人であるメレホフ少佐は、軍事的な知識も実戦経験も無いくせに党の権威を笠に着て作戦に嘴を入れてくる、政治将校という輩が大嫌いだった。もちろんその思いは心の中にしまっておき、口にも態度にも出しなどしないが。
だが、スミルノフ大尉だけは違う。こいつは良い奴だ。同じ部隊で長いこと行動を共にするうち、メレホフ少佐は心からそう思うようになった。
ただ少佐は、スミルノフの評判があまり良くない事も知っていた。本人は知るまいが、少佐の許にはスミルノフに対する苦情が何件も寄せられていた。
あのことは、やはり機会をみて一言忠告しておかねばならないか。メレホフ少佐は迷っていた。
日が暮れかけていた。空の明るさが薄れて行くのにつれて、燃えている建物の多さが目につくようになってきた。
史生とペーターはビルの入り口の階段に並んで腰を下ろし、いつの間にかケーテも史生に寄り添うように座っていた。
「だけどちょっと想像できないな、君がゲシュタポの捜査官だったとはね」
「違う、違う」
ペーターは火の粉でも払うように手を振った。
「誰かを逮捕したりとか、そんな事は一度もしなかったね。ゲシュタポでも、僕は便利屋みたいなものだったのさ」