第17話 一九四三年秋(ロシア戦線、ペーター)
文字数 6,736文字
上官や部下の兵達だけでなく、私自身が最もよくその事をわかっていた。
私が前線に出たのは、ドイツ軍が国運を賭けたクルスクでの大決戦に敗れた後のことで、我が軍はロシア軍に一方的に押しまくられていた。かつてのような電撃戦など、もはや夢物語だった。
私が飛び込んだのは、ドイツ軍の東部戦線に開いた大きな穴を埋める為に新たに編成された大隊で、そのままウクライナに送られ、ポルタワ地区の防衛に投入された。そして私達は、長く苦しい塹壕戦を続ける事になる。
その大隊の戦区の、私は一つの拠点を守る小隊を任されたのだが、私は初めてロシア軍の攻撃を受けた時から酷い醜態を晒してしまった。
鉄条網を張り巡らせ、多数の機関銃を据えた私達の陣地に、奴らは隊伍を組み、喚声をあげ遮二無二突進して来た。私達の機銃の前には身を隠せる遮蔽物など何も無いのだが、奴らはまるでお構いなしに、自殺も同然の無茶な突撃を敢行してきた。
私達の小さな拠点は、海の大波を被る一粒の小石も同然だった。このままではロシア兵どもの大波に飲み込まれ、皆殺しにされてしまう!
「撃て!」
私は目の前の機関銃手に怒鳴った。
即座に、シュナウファーSS軍曹が鋭い声で怒鳴り返す。
「駄目ですSS少尉、まだ早い!」
「いいから撃て!」
私は金切り声で叫んだ。その時の私は、恐慌状態に陥り我を忘れていた。
シュナウファーは私の頭越しに、小隊の兵士らに怒鳴った。
「撃つなよ、もっと引きつけろ!」
そして私の部下の兵達は、誰一人として撃たなかった。
陣地の前面のあちこちで地雷が炸裂し、大勢のロシア兵が宙に吹き飛ばされた。
それでもシュナウファーはまだ撃たせない。
突撃して来るロシア兵一人一人の顔がわかるくらいの距離になって、シュナウファーはようやく撃てと命じた。
機銃が唸り、手榴弾が炸裂し、ロシア兵は片端からばたばたと倒れた。それは戦闘と呼べるようなものではなく、一方的な虐殺に近かった。
しかしロシア兵はひるまない。倒されても倒されても、後に続く者が次々に我々の機関銃座の前に身を投げ出して来た。
軽い金属音と共に私の目の前の機関銃手のヘルメットに穴が開き、機関銃手はそのまま塹壕の下に崩れ落ちた。彼が既に死んでいる事は、確かめてみるまでもなくわかった。
私は夢中で機関銃に取りつき、向かって来るロシア兵に引き金を引き続けた。その私の目の前に、死体の山が築かれる。
しかし私は、良心の呵責など爪の先ほども感じなかった。私が強制収用所で殺してきたユダヤ人達と違い、ロシア兵どもは武器を持ち襲いかかって来ていた。
殺さなければ、私が殺されるのだ。
だが殺しても殺しても、ロシア兵は突撃を止めない。機関銃の弾を全て撃ち尽くし、早く弾を持って来いと叫ぶ間も無く、幾人ものロシア兵が銃を構えて私の機関銃座に飛び込んで来た。
私は背を向けて逃げ出した。
助けてくれ!
そう大声で叫びながら。
更に悪い事に、私は死んだ部下の体に躓き、その場に転んでしまった。
もう駄目だ!
そう覚悟した瞬間、私の頭上で短機関銃が火を吹き、迫って来たロシア兵がばたばたと倒れた。
シュナウファーSS軍曹が、私を跨ぐようにして仁王立ちになっていた。
「さあ立って、戦って!」
シュナウファーは噛みつくように怒鳴り、死んだロシア兵のシュパーギン短機関銃を拾い上げ、私の手に押し付けた。
私の小隊はその時も、その後も任された拠点を守り続けた。そしてそれはすべてシュナウファーSS軍曹の功績だった。
だから私の小隊は、陰ではシュナウファー小隊と呼ばれていた。小隊の中で私は手のかかるお客さんでしかなく、一機関銃手以上の役割は果たせなかった。
そもそも私は、技術将校なのだ。戦車や軍用車をいつでも動かせるよう整備しておくのが仕事だ。しかし私が飛び込んでしまったのは、またしても歩兵部隊だった。戦車や装甲車どころか、一台のオートバイすらない。
ここでもまた、私に出来る事は何も無かった。
歩兵は辛い。
重い足を引きずって西へ西へと歩きながら、私はつくづくとそう思った。
戦況がどうしようもなくなって、ようやく撤退命令が出されると、機械化部隊の連中は装甲兵員輸送車やトラックを連ねてさっさと後退して行った。
騎兵はもはや時代遅れの存在でしかなかったが、いざとなれば彼らは馬に乗って逃げる事が出来る。しかし私達歩兵部隊は、各々の二本の足を頼りにするしかなかった。
追って来るロシア軍も歩兵ならば、まだ生き延びられる可能性もあった。しかし戦車部隊に追いかけられたら、後はもはや神に祈るしか道は無い。
「諦めるな、最後の一兵まで戦え!」
司令部のお偉方は、私達に繰り返しそう命令してきた。しかし生身の歩兵に、ライフルで戦車とどう戦えと言うのだ?
降伏は考えられない。ロシアの連中は、武器を捨て両手を上げて出て行った者すら平気で殺すような奴らなのだ。前線に出て一月も経たないうちに、私はロシア兵に惨殺されたドイツ兵の捕虜の死体を幾度となく見る事になった。
T34中戦車を大量に投入したロシア軍の反攻は九月に始まり、十月に入ると私達は東部ウクライナを放棄してドニエプル川の西岸まで後退せざるを得ない状況に陥っていた。その場に踏み留まれば、後は包囲殲滅が待っているだけだ。
だが西を目指す私達の歩みは、ぞっとするほど遅かった。
一個小隊の定員は五十名だが、その時私の小隊で生き残っていたのは僅か一一人で、しかもそのうちの二人は歩く事の出来ない、担架で運ばなければならない負傷兵だった。それでも私達は、負傷した戦友を置き去りにする気にはなれなかった。
行軍中はもちろん、休憩をとり兵達を休ませる間も、私とシュナウファーSS軍曹は警戒を怠らなかった。追って来ているロシア軍が、いつ姿を現すかわからないからだ。
私達が最も恐れていたのは、ロシア軍に先回りされる事だった。ロシア軍は各所でドイツ軍の防衛線を破り、戦線の背後に深く侵入して我々の退路を断とうとしていた。
森の中の一本道を通り、草原へと出た瞬間、シュナウファーが伏せろと手で合図した。
「戦車です、SS少尉!」
兵達を森の木立の中に潜ませ、シュナウファーと並んで双眼鏡に目を当てる。
特徴のある傾斜装甲に大型転輪五個。間違いない、ロシア軍のT34だ。それも六両も散開して待ち受けている。
「畜生、森の中を迂回して行くしかないか」
シュナウファーが忌ま忌ましげに呟いたが、私はまだ双眼鏡に目を当て続けていた。
何かが変だった。逃げて来るドイツ兵を待ち構えているにしては、その位置も砲の向きや角度も、私にはどうにもおかしいように思えたのだ。
「行って、様子を見て来る」
私がそう言うと、シュナウファーは気が触れたのかとでも言いたげな表情を見せた。
「無茶だ、馬鹿な事はやめなさい!」
「任せろ、皆はここで待っていてくれ」
肘を掴んで引き留めようとするシュナウファーを振り切り、私は体を低くしてロシア軍の戦車に向かって走った。
確信は無かったが、私には直感があった。
あれは生きた戦車ではない。そう思えてならなかった。
思った通りだった。草原の中の一群のT34はスクラップだった。車体の側面や砲塔など、どの戦車にも大きな穴が穿たれていた。中には、一番分厚い正面装甲を貫かれているものもあった。
辺りにはT34のキャタピラの跡の他、その倍近い太さのキャタピラの跡も残っている。
間違いない、こんな派手な立ち回りができるのは、ドイツ軍のティーガー重戦車だけだ。
と言う事は、友軍の重戦車大隊がどこかまだ近くにいる筈だ。
私はT34の車輪とフェンダーを足掛かりにして車体の上に乗った。そしてシュナウファー達に大きく手を振り、こちらに来るよう合図した。さらに私は彼らが着くのを待たずに、開いたままのハッチからT34の砲塔の中に潜り込んだ。
その時の私は何もかも忘れていた。自分達の窮状も、敵に対する恐怖も意識から消え失せ、未知の戦車のメカニズムに対する興味と好奇心が私の頭の中を占めていた。
まず砲手席に座ってみる。照準器を覗き込みながら、手探りで砲の支持架の辺りに付いている幾つかのハンドルを回してみる。照準器に映る風景が、それに従って上下左右に動く。
よし、主砲はまだ生きている。
次は体をくねらせて運転席に滑り込んだ。アクセル、ブレーキ、クラッチ、運転席の両側に突き出した二本の操舵レバー。操縦に関する装置と仕組みも、ドイツの戦車とおおよそ同じだ。
さて、どうすればエンジンが動く?
計器盤を睨みながら考えていると、シュナウファーSS軍曹の不安げな声が外から聞こえてきた。
「ドレシャーSS少尉、大丈夫ですか? どこにいるんです?」
私が目の前のドライバーズ・ハッチを押し開けると、シュナウファーは目を丸くして短機関銃を構えた。
「脅かさないで下さいよ。イワンの野郎かと思って、危うく撃っちまうところでした。何してるんです、そんな所で」
「こいつに乗って帰ろうじゃないか。みんな手伝ってくれ」
私がそう言うと、シュナウファーの目はさらに丸く大きくなった。
この戦車を見た瞬間、私はその事を思いついていた。他の戦車はエンジンなど主要部分に砲弾を食らったり、あるいは砲塔を吹き飛ばされたりしていたが、こいつだけは違った。車体の右の転輪に直撃弾を受けてキャタピラも千切れていたが、砲塔も車内も無事だった。
おそらく最初の一発で走行不能に陥り、この戦車の乗員達は二発めを食らう前に大慌てで逃げ出したのだろう。だから車内には損傷もなく、戦車兵の死体も残されていなかった。
転輪を取り替え、予備のキャタピラを繋ぎ合わせれば、こいつはまた動く筈だ。私はそう直感していた。戦車に乗って自軍の戦線に帰れるなら、怖いもの無しだ。
「私は元々技術将校だ、私を信じろ」
私は皆の尻を叩いて修理を急がせた。ロシア軍の戦車やロシア兵は、まだこのあたりにうようよしている筈だ。
戦車に積まれている工具を使って駄目になった転輪とキャタピラを外し、他の戦車からまだ使えるものを外してきて取り替える。口で言うのは簡単だが、どちらも一つ一つがひどく重い。数人で力を合わせてかからねば、何も動かないし何も出来ないのだ。
しかも私の部下は機械の修理には不慣れな上に、連日の戦闘で疲れ切ってもいる。修理が専門の私にしてみれば、彼らの作業は苛々するほどのろくて手際も悪かった。
恐れていた通りになってしまった。転輪を取り替え、後はキャタピラを繋ぎ合わせれば良いという所までこぎ着けたた時、ロシア軍の戦車のエンジン音が聞こえてきた。
ドイツの戦車はガソリン・エンジンだが、ロシア戦車はディーゼル・エンジンだ。だからわかる者には、音だけでどちらの戦車かすぐに聞き分けられる。
双眼鏡で見てみると、草原の彼方にロシア軍のT34のシルエットが見えた。三両もしくは四両。一個戦車小隊といったところか。
私の肩をシュナウファーが揺さぶる。
「時間切れです、逃げましょう」
数の上で不利なだけでなく、こちらは動く事すら出来ない。
しかし私はこの戦車を諦める気にはなれなかった。
「無駄口を叩くな、黙ってこいつに乗り込め!」
修理中のT34の分厚い鋼鉄の装甲板を、私は手の平でぴしゃりと叩いた。
シュナウファーを前部銃手席につけ、砲手席には私が座る。装填手には、歩兵砲を扱った経験のあるロッシュSS上等兵を据えた。そして残りの者には、戦車の下や後ろに隠れるよう命じた。
やって来たロシアの戦車隊は油断し切っていた。それも無理はない、何しろここにあるのは味方の戦車なのだから。
気付かれぬよう、ゆっくり、ゆっくりと砲塔を回転させて行く。そして距離を測り、照準器の真ん中の赤い指標に先頭のT34の砲塔を重ね合わせ、発射ボタンを押す。
轟音と共に、硝煙の臭いが車内に充満した。
照準器の中で直進してきたT34がつんのめるように止まり、そのまま動かなくなる。
「やったぞ、当たった!」
シュナウファーの叫ぶ声が聞こえてきた。
私はペリスコープを回して次の目標を捜す。
奴らは早とちりした間抜けが味方を誤射したものと思ったらしい。戦車をその場で停止させ、砲塔から身を乗り出し、手旗を振りながら盛んに何か喚いた。おそらく、ロシア語でひどい悪態をついていたに違いない。
しかし次の弾の装填が完了していた私達にとって、そいつは絶好の的だった。
たちまち、そのT34の砲塔が吹き飛ぶ。
それで残る二両は腹を決めたらしく、私達の戦車を目指して突っ込んできた。
砲塔の旋回装置を大急ぎで回す。照準器の中でぐんぐん大きくなって来るT34に向け、距離五百で発射した。
外れた、砲弾はT34の少し後ろで炸裂した。
偏差だ、私はその計算を忘れていた。動いている敵は移動している分を計算に入れ、目標の少し前を撃たねば当たらないのだ。
シュナウファー軍曹の叫び声が車内に響いた。
「ヤバいぞ、こっちを狙ってる!」
それは私にもわかっていた。照準器の中のT34の砲塔が、こちらに回転しつつあった。
「焦るな、焦るなよ……」
私はそう呟きながら、照準器の目盛りを合わせ直す。
敵のT34の砲口から閃光が走り、かなり近い場所で爆発音が響いた。
奴は間違えていた。草原の只中で擱座している六両の戦車のうち、どれが撃ってきたのかわからず、私達のではない別のT34に無駄弾を撃ち込んだのだ。
さあ、今度は私の番だ。そして私は狙いを外さなかった。
しかしほぼ同時に戦車に物凄い衝撃が走り、車体が大きく揺れた。私は砲塔の壁面に頭を思い切りぶつけた。痛みに悪態をつく声が前からも横からも聞こえた。
しかし私を含めて、酷い怪我を負った者は無いようだ。敵弾はこのT34を貫通する事なく、傾斜した装甲板に弾き返されたようだ。敵戦車の設計の巧みさに、私は初めて心から感謝した。
私はお返しに、次の砲弾で敵の最後の一両も始末した。
「驚きました、小隊長。俺にはとてもこんな真似は出来ません」
シュナウファーのその言葉で、私は彼がようやく私を隊長として認めてくれたことを知った。
T34対T34の戦車戦の後、私達は中断していた修理を再開した。そしてキャタピラを繋ぎ合わせてエンジンを始動させると、私のT34は見事に動いた。
戦車の砲手席をロッシュに譲り、私は運転席に移った。戦車を運転できる者は私しかいないのだから、それも仕方ない。
小隊の兵は一人残らず戦車の上に乗せ、重傷者は担架のままラジエーターの上に寝かせる。そうしてドニエプル川西岸の自軍の集結地に帰還した私は、たちまち英雄に祭り上げられた。
何と軍の新聞、《シグナル》の記者まで私を取材にやって来た。
負け戦が続いていた時だけに、何か景気の良い派手なニュースが欲しかったのだろう。私の小隊の脱出行は、当の私でさえ赤面してしまうような英雄譚として紙面に取り上げられることになった。
武装親衛隊の若き勇士、敵戦車を奪って敵地を突破!
ドレシャーSS少尉は語った、「敵地に、傷ついた戦友はただの一人も残さない!」
そして私は初めての勲章、二級鉄十字章を授与されることになった。
しかし私にとって勲章より大切だったのは、自分は能無しの役立たずではないと証明出来た事だ。
ウクライナでの戦闘はその後も続いた。そして戦場に出る度、私は遺棄されている敵味方双方の車両を調べて回った。そして直せるものは現地で修理して自隊のものにした。
更に私は、対戦車戦闘に強かった。
どうすれば戦車を潰せるか。どこをどう破壊すれば、敵戦車を足止めできるか。それが私には、手に取るようにわかったからだ。
いつの間にか、私の小隊はドイツとロシア両軍の戦車と車両を装備した機械化部隊になっていた。
その私の特技は、苦しい戦いを続けていたロシア戦線の南方軍集団にも注目された。私は所属していた大隊から引き抜かれ、SS中尉に昇進して軍団直属の戦車猟兵中隊の指揮を任される事になった。
新たに編成されたそのSS戦車猟兵中隊は、シュナウファーSS軍曹ら私の小隊の生き残り達がその基幹となった。
当初、その中隊は第五〇一という部隊番号を割り振られたが、心理的な効果も考えて、やがてSS第六六六戦車猟兵中隊に変更された。
六六六。悪魔の獣を意味するとされ、その数字はロシア人に忌み嫌われていた。そして私達は、敗色の濃いロシア戦線で文字通り悪魔のように戦った。