第16話 一九四五年四月二八日(ベルリン)

文字数 4,564文字

 まだ夜も明けぬうちに、史生は強い地震を思わせる轟音と振動に叩き起こされた。爆発の白い閃光に目が眩みかけた直後、辺りは闇の中に沈み込み、史生は暫し視力を失った。
 燃え上がる建物の黄色い炎に、史生はようやく状況が確認できた。
 事務机や棚が引っくり返り、手紙類が散乱する郵便局の中を、ロシア軍から分捕ったシュパーギン短機関銃を抱えたペーターが大股で歩き回り、部下達に大声で指示を出した。
「退避、早く出ろ!」
 ベルリン市内のドイツ軍は建物内に籠もり、突撃銃とパンツァーファウストで頑強に抵抗した。それに手を焼いたロシア軍は、ドイツ軍を建物ごと粉砕する方策を選んだ。
 ロシア軍の重砲やロケット砲がまだ抵抗を続ける地区に次々に撃ち込まれ、建物は中のドイツ兵ごと燃え上がり崩れていった。
 ぐすぐすしてはいられない。ペーターとその部下、そして史生とケーテは砲撃の的となった郵便局を捨て、市街地の更に奥へと退いて行った。

 戦いは、ベルリン郊外でも続いていた。
 西を目指して逃げる第九軍の兵士と避難民の行列の真ん中で砲弾が炸裂して初めて、彼らは森の木立の間に潜むロシア軍の戦車に気付いた。
「くそ、友軍の戦車は何をしている!」
 兵士らは慌てて地べたに伏せ罵声を上げる。
 しかし行列の先頭を進むSS第五〇二重戦車大隊もまた、ロシア軍の無数の戦車と苦闘していた。その交戦中の敵に背を向けて救援に駆けつけるなど、とても出来る筈もない。
 あと暫く、自力で何とか持ち堪えてほしい。ティーガー重戦車大隊の指揮官は無線でそう伝えてきた。
「畜生、俺達に皆殺しにされろと言うのか!」
 第二三戦車擲弾兵師団の作戦参謀が悲痛な声を上げる。
 ロシア軍のT34は戦車砲と機銃を撃ち続けながら、森の隠れ場所から出て来た。砲塔に赤い星を描いた敵戦車の餌食となってトラックや荷車は次々に燃え上がり、兵士も女子供も区別なく撃ち倒されて行く。
 蹂躙に次ぐ蹂躙。師団司令部の将校らの目の前で一方的な虐殺が繰り広げられた。
「パンツァーファウストだっ、あるだけ掻き集めろ!」
 師団長のケンピン大佐が吠えた。
 その声はゼンガー軍曹の耳には届かなかった。しかしロシア戦線で鍛え上げられた古参兵の彼もまた、師団長と同じ事を考えていた。
「俺がやってやる、パンツァーファウストをよこせ!」
 ゼンガー軍曹は僅か一握りの、土と埃で汚れた部下達を見回した。
「お前らは戦車には構うな、戦車について来る歩兵だけ狙え!」
 言いながら装備品ごとベルトを外して短機関銃もその場に置き、パンツァーファウストだけを持った。そしてパウル・リッターに目を留める。
「お前は俺について来い」
 パウルの目には、T34は自分を圧し潰さんばかりに迫って来るブルドーザーのように見えた。その巨大なロシア軍の戦車の前に身を投げ出すなど、自殺行為としか思えなかった。
「心配するな、戦車は俺がやっつけてやる。お前はただパンツァーファウストを持ってついて来ればいい。行くぞ!」
 ゼンガー軍曹はヘルメットを目深に被り直し、腰を屈め頭を下げてT34に向かって走った。パンツァーファウストを小脇に抱え、もう一方の手で足を縺れさせながら走るパウルを引っ張って進む。
 T34の車体銃が火を吹き、放たれた機銃の弾が足元で土煙を上げると軍曹はパウルを突き飛ばし、同時に自分も地べたに伏せた。
「匍匐前進だ、頭とケツを下げて進め!」
 T34のエンジン音はその声を掻き消すほど大きく、キャタピラの振動で地べたも揺れている。恐怖でパウルの手と足は震え、どうにも力が入らない。だが敵戦車の前に取り残されるのは、もっと怖かった。
 死にもの狂いで這って付いて行くパウルに、軍曹の怒声が飛ぶ。
「馬鹿野郎っ、もっと頭を下げろ!」
 慌てて頭を下げると、また怒鳴られた。
「ケツを上げるな、オカマを掘られるぞ!」
 ゼンガー軍曹は全身を地べたにぺたりとつけ、体をくねらせ、パウルの少し前を蛇のようにするすると進んで行く。
 そのゼンガー軍曹が不意に起き上がった。地べたに片膝を付き、パンツァーファウストを肩に担ぎ上げる。
「リッター、よく見てろ」
 何発もの銃弾が軍曹のすぐ脇をかすめる。
「慌てるなよ、まずピンを抜く。そしてサイトを引き起こす。その後で、安全レバーを発射の位置に動かしておくのを忘れるな」
 敵に体を晒したまま、ゼンガー軍曹は軍事教練の教官さながらにパンツァーファウストの操作を教え続けた。
「先っぽの照星を戦車に合わせたら、トリガーを一番下まで深く押し込む!」
 同時にパンツァーファウストから火柱が走った。
 次の瞬間、T34の側面に赤い炎が上がり、戦車はたちまち燃え上る。
「やった、やっつけたぞ!」
 ドイツ軍の兵士達が歓声を上げた。
 パウルも怖さを忘れて一緒に叫んだ。
 軍曹はパウルが抱えていたパンツァーファウストを引ったくるように取り、次のT34に狙いを付けた。
「見てろ、もっとやっつけてやる」

 ベルリン市内のドイツ軍の各師団は、市の中心部の地下鉄駅に拠点を移し替えた。
 地下鉄駅は巨大な地下壕のようなものだ。厚いコンクリートに守られているだけでなく、地下だから大砲で狙い撃たれることもない。
 第五六戦車軍団のミュンヘベルク師団とノルトラント師団、それにドレシャー戦闘団は、総統官邸とラントベール運河の間の地下鉄アンハルター駅に押し込められた。ミュンヘベルク師団とノルトラント師団の両方とも壊滅に近い状態で、師団とは名ばかりで残っている兵はそれぞれ数百名に過ぎない。
 兵士と負傷兵、それに避難して来た市民でごった返している地下のプラットホームで、ケーテはミュンヘベルク師団の兵士らと再会した。
 そしてペーターらが駅のプラットホームの端に戦闘団の司令部を置くと間もなく、ミュンヘベルク師団の師団長が部下を引き連れてやって来た。
 柏剣付き騎士鉄十字勲章を持つ、いかにもプロシャ軍人といった風貌のムンメルト少将は、前置きの挨拶も無しにペーターに詰め寄った。鋭い目を怒らせ、高い位置からペーターを睨み下ろす。
「我々の看護婦を攫って帰さんのは、貴様か。彼女をさっさと返したまえ!」
「我々SSに命令出来るのはヒトラー総統だけです。たとえ将軍閣下であろうと、国防軍から指示や命令を受ける筋合いは無い」
 ペーターが突っ慳貪に応えるのと同時に、部下の兵士らも突撃銃を構えた。
 慌ててケーテが間に入り、自分はこの人達に命を助けられたのだし、この人達も看護婦の助けが必要だったのだと執り成して、双方を抑えにかかる。
「おいおい、何をやってるのだ」
 騒ぎを聞きつけ、ベルリン中央地区防衛司令官も兼ねるノルトラント師団長クルッケンベルクSS少将までやって来た。そしてその仲介で、一応の和解が成立する。
「今更、SSだの国防軍だのと内輪揉めしている場合か! こんな状況なのだ、力を合わせて戦わねば一日も保たんぞ」
 そして三人の話し合いで、次のように決まった。
 ケーテ・レンスキはミュンヘベルク師団の野戦病院に戻す。しかしミュンヘベルク師団の野戦病院は、戦闘団ドレシャーの負傷兵も受け入れる。ミュンヘベルク師団とノルトラント師団、それにドレシャー戦闘団は個別に戦うのではなく、今後は共同し連携して敵にあたる。

 ペーター達が籠もるアンハルター駅は、総統官邸から一キロほど南にあった。しかしペーター達ドイツ軍はその僅かな距離を移動するにも、地上に出られなかった。
 ロシア軍の砲撃と爆撃は猛烈で、砕けた煉瓦が宙に舞い上がって深い霧のようになり、視界はひどく悪い。道路も弾痕で深くえぐられ、崩れた建物にも遮られ、キャタピラを持たない自動車の通行は不可能に近い状態になっていた。
 部隊の指揮をシュプリューゲSS中尉に委ね、ペーターは地下鉄の線路沿いに総統官邸に向かった。ペーターは例のシュパーギン短機関銃を手に、フラッシュライトの明かりを頼りに暗い鉄路の上を歩き、その背に張り付くように史生とケーテが続いた。
 ポツダマー駅を通り過ぎ、ウィルヘルム駅から地下道を通り、地下のみを通って総統官邸の防空壕に辿り着いた。SSの警備兵に守られた二重の扉を抜けると更に鉄製の頑丈な扉があり、そこの警備兵にも来意を告げて案内を待つ。
 ドアが開き中に通されるのは早かった。しかしその奥の妙に細長い食堂に通された後は、そこでかなり長いこと放っておかれた。
 食堂にはSS第五〇三重戦車大隊のヘルツィヒSS少佐とその部下の四人の戦車長がいて、彼らも騎士鉄十字章の叙勲の為、市街戦の最中に引き抜かれてやって来ていた。
 総統の防空壕の食堂は、市内の惨状とはまるで別世界だった。レコードからワルツが流れ、こざっぱりした身なりの高級将校達が、昼間からワインやシュナップスを飲みハムやサラダを食い散らかしていた。
 そんな中、薄汚れた戦闘服でむっつりとしているペーターとヘルツィヒSS少佐らはひどく場違いな存在だった。
 ペーター達も酒と料理を勧められたが、ペーターは愛想の無い態度で断った。ヘルツィヒSS少佐らも食べ物を少しつまみはしたものの、酒には殆ど手をつけない。
「総統は会議中だそうだ。かなり荒れているらしいぞ」
 ヘルツィヒSS少佐がペーターに耳打ちする。
「何があったんです?」
「ヒムラー長官が裏切って、連合軍と降伏交渉していたのだと」
 確かヨーゼフ・ヴェーゲナーも、昨日そのような事を匂わせていた。
「総統はひどくお怒りだ。ゲッベルス大臣がその怒りの火に油を注いでしまうのだから、どうしようもない。ヴァイドリング将軍は骨のある軍人だから、総統が気に入るような上手い事は言えないしな。で、クレプス将軍が」
 ヒトラーの今の参謀長の名を口にしたヘルツィヒSS少佐の声には、あからさまに軽蔑が込められていた。グーデリアン将軍と替わった今の参謀長は、ヒトラーのご機嫌を取るしか能が無いと悪評が高い。
「クレプス将軍が総統をあれこれ宥めているらしいのだが、なかなか……」
「かなり待つことになりそうですか?」
「かもな。下手をするとその揚げ句に侍従あたりが勲章を持って来て、これで帰れという事になるかも知れんぞ」
 二人のSS将校は揃って疲れた溜め息を漏らす。
「この状況で、ただ酒でも飲んでいろ……って言うんですか。馬鹿らしい」
「俺も部下と一緒にとっとと帰っちまいたいのだが。総統のご命令で来ているのだ、そうもゆくまい」
 うんざりした顔で、ペーターは史生とケーテを振り返った。
「聞いての通りだ」
「仕方ないさ。日本には、慌てる乞食は貰いが少ないという諺もあるよ」
 慌てずにいられるだけの時間があれば良いのだが。ペーターがそう呟き返した。
「なあペーター、待っている間に取材の続きをさせてくれないか。君は実戦経験がまるで無いのに、ロシア戦線に行ったんだろ。こうして騎士鉄十字章を受けるまでには、さぞいろいろあったんだろうな?」
 ペーターは食堂の大きなテーブルからグラスを三つ持って来た。そして史生とケーテのグラスにはワインを、自分のグラスにはシュナップスを注いだ。
 ペーターは強いシュナップスを喉の奥に流し込み、顔を歪めて首を振った。
「そりゃあ酷いもんだったよ、あの頃は」
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登場人物紹介

 ペーター・ドレシャー……ただ機械が好きなだけの、大人しく心優しい青年。興味があるのはナチスの政治的な主張ではなく、ナチスが作らせた戦車や装甲車。それで戦争が始まると、一兵卒として召集される前に戦車の整備をする技術将校を目指して士官学校に入学する。

 杉村史生……ペーターと同じく、機械が大好き。ベルリン工科大学に留学し、ペーターと親しくなる。第二次世界大戦が始まった為に帰国できなくなり、ベルリンで機械工学の勉強を続ける。そして大戦末期のロシア軍に包囲され陥落寸前のベルリンで、旧友ペーターと再会する。

 ヨーゼフ・ヴェーゲナー……ペーターの従兄でナチスの若きエリート。ナチス思想に心から染まっているわけではなく、第一に考えているのは己の出世。愛想は良いが心は冷たい。だが従弟のペーターのことは彼なりに大切に思っており、親衛隊に誘ったり、ペーターが窮地に陥ると救いの手を差し伸べたりする。しかしその為、ペーターはますます悪の道に堕ちて行くことになる。

 ケーテ・レンスキ……ポーランド国境に近いポメラニアに住む少女。略奪や暴行をしながら進撃するロシア軍の猛攻に追われ、撤退するミュンヘベルク師団と共にベルリンまで逃げる。その間、師団の看護婦の役目を務める。

 ユーリ・アレクサンドロヴィチ・スミルノフ……ロシア軍の大尉で正義感あふれる熱血漢。政治将校だが、ナチとドイツ軍は憎むが、ドイツの民間人は守ろうとする。

 ステパン・グレゴリオヴィチ・フョードロフ……ロシア軍の上級中尉。NKVD(後にKGBとなる国家保安人民委員部)の職員。

 花井孝三郎……表向きは駐独日本大使館の旅券課員だが、実は陸軍中野学校で教育された特務機関員。杉村史生に総統官邸に潜入しヒトラーの動向を探るよう命じる。

 ハンナ・ベルツ……ベルリンに住む少女。父親が反ナチ思想の持ち主で、「ナチスよりロシア軍の方がマシ」と教え込まれている。

 エルナ・ウルマン……ハンナの友達。父親がドイツ軍の将校である為、ロシア軍をとても恐れている。

 アントン・ブリュックラー……SS中尉で強制収容所の副所長。楽をして生きている要領の良い男。ドイツ軍の敗戦を見越し、収容したユダヤ人から略奪した金品を横領している。

 レーナ・フェスマン……強制収容所に収容されているユダヤ人の少女。頭の良い文学少女で、ふとしたことから知り合ったペーターと親しくなる。しかしそれは決して許されない恋だった。

 バウル・リッター……ベルリン郊外で退却しながら戦うドイツ第九軍の少年兵。故郷の東プロシアはロシア軍に占領され、絶望しながら西へと逃げている。

 マックス・シュペート……第九降下猟兵師団の伍長だが、本来は空軍の整備兵。兵力不足で東部戦線に駆り出された際に、ロシア兵の残虐さを目にした為、ロシア兵の捕虜になることを死ぬより恐れている。

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