第21話 一九四五年四月二十九日(ベルリン)
文字数 3,753文字
この朝、ヘルマン・フェーゲラインSS中将が総統官邸の中庭に引きずり出されて銃殺された。
罪名は、裏切りと敵前逃亡。
その情報を聞いて、ヨーゼフ・ヴェーゲナーは心の中で嘲った。
フェーゲラインは要領の良い男だった。馬術学校の校長の息子に生まれ、乗馬が上手く見てくれも良かった。
親衛隊の騎兵連隊に入隊した彼は、パルチザン掃討戦で手柄を立てて昇進した。そしてその名が中央にも知られるようになると、官房長官ボルマンに取り入ってヒトラーの側近になり、三十代の若さでSS将官になった。彼はそれでも飽き足らず、ヒトラー最愛の人エヴァ・ブラウンの妹を口説き落として結婚し、ドイツ第三帝国総統の義弟にもなった。
それほど目端の利く男なのだ、薄暗く湿っぽい防空壕に籠もってヒトラーと共に死ぬ気になどなれなかったのだろう。せっかく手に入れた快適で贅沢な暮らしも、失いたくなかったのだろう。
わかるよ、よくわかる。
このベルリンから逃げ出したいのは、ヴェーゲナーも同じだ。だが、今は逃げるには最もまずい時期なのだ。
本気で生き延びたいなら、ロシア軍がベルリンを完全に包囲する四月二五日以前に逃げ出すべきだった。フェーゲラインはヒトラーとSS長官ヒムラーの間を取り持つ連絡将校なのだから、ベルリンを離れる理由など幾らでもでっち上げられた筈だ。
しかし今は、復讐の美酒に酔い痴れるロシア兵どもが市内の至る所にうようよしている。仮に地下壕を抜け出しても、逃げて行けるあてなど何処にもありはしない。
事実フェーゲラインは軍服を脱ぎ捨てて市内の自宅に逃げたものの、そこからどこに行けば良いのかわからないまま、ヒトラーの命を受け追って来たSSの捜査官に逮捕されてしまった。
驚くべき事だが、ナチの警察機構は今もまだ機能し続けていた。
逃げるのであれば、フェーゲラインは遅過ぎたのだ。
あるいは、早過ぎたのだとも言える。
脱出の好機は、総統が死んだ後にやって来る。ヴェーゲナーはそう見ていた。
自決するにしろ戦って果てるにしろ、ヒトラーは遠からず死ぬだろう。そうなればナチスの高官も混乱状態に陥り、政府は瓦解する。ヴェーゲナーはその機に逃げ出すつもりだった。
迫り来るロシア軍に怯え、恐怖に駆られて衝動的に逃げ出したフェーゲラインとは違い、ヴェーゲナーは逃げる為の計画と準備を抜かりなく整えてあった。後はただ、逃げ出すタイミングを計るだけだ。
ゲシュタポ本部の自分の執務室に、ヴェーゲナーは運転兵を呼びつけた。
「ポツダマー駅に行って、これをドレシャーSS大尉に届けて来い」
しっかりと封をした分厚い封筒を手渡す。
中には、国防軍兵士の軍隊手帳が十冊ほど入っていた。もちろん本物ではなく、ゲシュタポの
これを必要としているSS隊員は大勢おり、これ以上の数を揃えるのは、ヴェーゲナーの地位をもってしても無理だった。
「あの馬鹿が」
運転兵が出て行った後で、ヴェーゲナーは唸るように呟いた。同じ馬鹿でもフェーゲラインの愚かさはまだ理解できるが、ペーターの方はどうにも理解できない。
頼りないが素直な従弟を、ヴェーゲナーは彼なりに可愛がり、出来る限り力添えもして引き立ててきてやったつもりだ。なのにゲシュタポのパリ支局でもフライシュタット強制収用所でも、あの馬鹿は情に流されてはヘマばかりしやがった。揚げ句に、戦況が明らかにドイツに不利になってから誰もが恐れるロシア戦線に志願して最前線に出る始末だ。
ヴェーゲナーが何とか都合してやった軍隊手帳も、ペーターはロシア人の部下に分け与え、自分はベルリンで最後まで戦うつもりではないか。ヴェーゲナーはそんな気がしてならなかった。
俺は出来るだけの事はしてやったのだ、奴自身に逃げる気が無いなら、それはそれで仕方ないさ……。
気にかけるべき事は、他にも山ほどあった。ロシア軍の先鋒は、今やこのプリンツ・アルブレヒト街のゲシュタポ本部にも迫っている。銃撃戦の音がすぐ間近からも聞こえてきていた。
ドイツは間もなく負ける。戦争犯罪の証拠になる書類を片っ端から焼き捨て、さっさとここを退去しなければ。
ヴェーゲナーは沈み行く難破船と運命を共にするほど馬鹿ではないつもりだ。
「ご覧下さい、同志大佐」
NKVDのチェルネツォフ大佐の執務室に息を切らせてかけ込んで来たフョードロフ上級中尉は、一枚のメモを暗号文のまま差し出した。
「例の《ヒバリ》からです。驚きました」
促されてメモに目を走らせたチェルネツォフは、思わず唸り声を上げる。
「裏付けを取り次第、モスクワの本部に連絡しろ。大至急だ!」
チェルネツォフ大佐が手にしているメモには、こう書かれていた。
総統官邸地下防空壕内ニ盗聴器ヲ設置ス。受信サレタシ。電波ノ周波数ハ……。
肩を揺さぶられて初めて、史生は自分が眠り込んでいたことに気がついた。ひどく疲れていたのだろう、史生は夢も見ず、食卓に突っ伏したまま深い眠りに落ちていた。
「大臣閣下がお呼びだ」
ゲッベルスの副官、シュヴェーガーマンSS大尉だった。
彼に従い、昨日と同じ経路で地下二階のゲッベルスの部屋に向かう。大臣は昨日より更に疲れているように見えた。
おざなりな挨拶の後、ゲッベルスはトランプのカードを並べるように、机の上に数十枚の写真をずらりと並べた。
「ヘル・スギムラ、君は新聞記者と言うより写真家だな。どれも上手く撮れている」
この状況下でいつどこで現像されたのか、ゲッベルスが広げた写真は史生が撮ったものだった。
中から、ゲッベルスは一枚の写真をつまみ上げた。ドレシャーの部下の一兵士が、パンツァーファウストをロシア軍の戦車に向けて発射する瞬間を撮ったものだ。
「この写真を、私の新聞にも使わせて貰えますかな?」
言葉こそ丁寧だが、それは要求に異ならなかった。
「光栄です、閣下」
ゲッベルスは満足げに頷くとまた別の写真を手に取り、薄笑いを浮かべて眺めた。
「なかなか可愛い」
写っていたのは、サイズの大き過ぎるオーバーコートから顔だけ出して、少しはにかんだような笑みを浮かべているケーテだった。
史生は言葉に詰まり、顔が火照るのを感じた。そしてゲッベルスはすべてを見透かすような目で、その史生を眺めた。
「君の写真は私の一存で現像させて貰ったが、軍事機密を守る為に必要な行為と理解していただきたい。もちろん、ネガはお返しする。それからカメラもね」
ゲッベルスは革の速写ケースに入ったライカⅢbとネガを机の上に置き、史生の方に押してよこした。
「但し今後も、防空壕内部の写真は一枚たりとも撮らないこと。忠告しておくが、ここではカメラは絶対にケースから出さない方が良い」
ゲッベルスの目配せに、背後に控えていたシュヴェーガーマンが素早くドアを開ける。
一礼して立ち去りかけた史生を、ゲッベルスは実にさりげない口調で呼び止めた。
「ところで、ヘル・ハナイはお元気ですかな? 総統閣下も私も、敵に背を向けて逃げ出すような真似は絶対にしない。森や田舎を惨めにうろつき回った揚げ句にボルシェビキどもに捕まるのは御免だ。私がそう言ったと、彼に伝えてくれませんか」
慌てちゃだめだ……。
第二三戦車擲弾兵師団の二等兵パウル・リッターは、何度も自分に言い聞かせた。
パンツァーファウストを構え、ゼンガー軍曹に教えられた通りにやってみる。
まずピンを抜いてサイトを引き起こし、安全レバーを発射の位置に動かした。それから先端の照星をロシア軍の戦車に合わせる。
T34の燃料タンクは車体の横腹の、砲塔の斜め後ろにある。軍曹はそう教えてくれた。
トリガーを押し込んだ瞬間、腕の中のパンツァーファウストが震え、シャンパンの栓を抜くような音が響いた。
撃ち出されたロケットは弧を描き、バドミントンのシャトルさながらに飛んで行く。
息を殺してその先を見詰めていると、金属がぶつかり合う硬い音が聞こえて来た。その直後、T34は高く炎を吹き上げた。
「やったぞ!」
思わず、パウルは拳を宙に突き上げていた。
同じ頃、ベルリン市内のロシア軍はシュプレー川の橋を押し渡り、内務省ビルに攻め掛かっていた。さらに同じ頃、イタリアの盟友ムソリーニがパルチザンに捕らえられて殺され、死体は逆さ吊りにされて晒しものになったというニュースもヒトラーに伝えられた。
史生はまだ知る由もなかったが、ヒトラーは既に遺書を書き上げており、後継者に指名されたデーニッツ提督の許に、それを携えた将校が出立していた。
しかしその時点でも、ペーターの部隊はSS重戦車大隊と共にロシア軍の度重なる攻撃をはね退けてポツダマー駅を保持し続けていた。内務省に突入したロシア軍も、立て籠もるSS部隊にビル内の一部屋一部屋を奪い合う激しい戦いを強いられていた。
しかし結局どちらが勝つかは、誰の目にも明らかだった。
午後十時に地下二階の会議室で開かれた戦況会議で、ベルリン防衛軍の司令官ヴァイドリング将軍はヒトラーにこう言明した。
「我が軍にはもう弾薬もパンツァーファウストもありません。ベルリンでの戦闘は、明日の晩までには完全に終わるでしょう」