第2話 一九四五年四月二六日(ベルリン)

文字数 25,471文字

 雲一つ無い、気持ちの良い快晴の一日。
 後にこの日は、戦史にそう記録されることになる。
 しかしベルリン市内の杉村史生には、太陽がどこにあるかすらわからなかった。
 ベルリンには夜も昼も無かった。絶え間なく続く砲爆撃で各所で建物が燃えており、その炎はさながら大きな松明のように日没後も街中を照らし続けた。同時に炎は黒煙も高く吹き上げ、それが雲のように空を厚く覆い陽光を遮った。
 だから市街は、昼も夕暮れ時のように薄暗いままだった。
 ここ何日も、史生は一度も太陽を見ていない。
 市内の道路は瓦礫の山に各所で行く手を塞がれ、或いは爆弾により大きな穴を穿たれていた。
 それだけではない。無数の市民の死骸が道端のあちこちに転がっており、その大半は女子供達だった。
 ものが腐る時に放つ、猛烈な臭気が鼻を打つ。道路に沿って流れるラントヴェール運河には、醜く膨らんだ死体が幾つも浮かんだままになっていた。
 地獄だ……。
 マフラーの端を口に強く圧し当ててアンハルター駅の近くを歩きながら、史生はそう思った。史生はこの時まだ二十五歳で、ベルリン工科大学の大学院に留学中だった。

 眼下の惨劇に、ハンナ・ベルツは声も出なかった。
「やめなさい、見ちゃいけません!」
 袖を引いて繰り返し言う母親の言葉も、ハンナの耳には殆ど届かなかった。
 一人のドイツ兵が殺される瞬間を、彼女は目の当たりにしていた。銃床で小突かれ、尻を蹴り上げられながら追い立てられてきたその兵士は、首に縄を巻かれるや否や、路傍の電柱に無造作に吊るされた。
 ベルツ家の住まいは通りに面したアパートの二階で、ハンナはその光景を窓越しに見ていた。殺された兵士は大きなプラカードを首にぶら下げられ、そこに殴り書きされた文字は、ハンナにも読むことができた。
『私、カール・シュッツェルは兵士としての義務に背き、卑怯にも戦闘を放棄して逃亡した。ゆえに、ここで絞首刑に処せられた』
 シュッツェルを吊るしたのは、同じドイツ軍の兵士達だった。彼らの軍服の襟にはルーン文字で書かれたSSのマークが、制帽には銀色に輝く髑髏の徴章がついている。
「親衛隊の奴らだ」
 ゲオルグ・ベルツは吐き捨てるように呟いた。そしてハンナの腕を掴むと、娘を窓と眼下の惨劇から引き離した。
「ロシア兵の方が、あいつらよりまだましだろうよ」
 ヒトラーとドイツ第三帝国の命運は、今まさに尽きようとしていた。首都ベルリンを包囲するロシア軍は総勢二百万、しかし迎え撃つ市内のドイツ軍は、疲れ切った敗残兵と戦闘経験など皆無のヒトラー・ユーゲントの少年や老人らからなる、僅か数万の雑多な部隊のみであった。
 だがヒトラーとSSはまだ諦めていなかった。砲爆撃で廃墟と化した街の中を、SS隊員は幽鬼のようにうろつき回り、部隊を離れた友軍の兵士を片っ端から捕らえては、移動軍事法廷と称する即決裁判にかけて吊るしていた。
「ロシア兵は人間ではない、けだものだ!」
 ナチスの宣伝相ゲッベルスは、ドイツ国民に繰り返しそう教え込んだ。ゲッベルスの新聞やラジオ放送によれば、ロシア兵は軍人も民間人も区別なく手当たり次第に殺し、そして女たちを輪姦していると言う。
 その情報を繰り返し聞かされたベルリンの市民は、特に女性達はロシア軍を心底恐れた。ロシア兵による暴行を恐れて自決用の青酸カリを肌身離さず持ち歩いている者が、ハンナと同じ女学校の生徒達の中にさえ何人もいた。
 しかし一方、ゲッベルスの宣伝をまるで信じていない者も少なからずいた。
「ロシア兵だって同じ人間なんだ、そんな酷い事をする筈ないじゃないか。俺達を死ぬまで戦わせようとして、ゲッベルスめ、得意の嘘をついてやがるのさ」
 ゲオルグ・ベルツも家族にそう言い聞かせていたし、ハンナもそう思っていた。とりわけ今も密かに共産主義に心を寄せているゲオルグは、人間の理性と善意を信じていた。
 ベルツ家の者が最も恐れていたのはヒトラーとその親衛隊で、ロシア軍はむしろナチスの圧政を終わらせてくれる解放軍のように思っていた。

 電柱に吊るされ揺れている兵士を睨み上げ、オットー・ヴェルティンガーSS少佐は軽蔑の言葉を吐いた。
「豚めが!」
 ドイツ民族が一致団結し、総統閣下のご指示通りに戦っていたならば、第三帝国はとうに世界を制覇していたに違いあるまいに。そう思うと、ヴェルティンガーは悔しくてならなかった。
 我が祖国は、常に裏切りの為に戦争に負ける。第一次世界大戦でもドイツは戦闘に負けたのではなく、共産主義者とユダヤ人どもの蜂起によって降伏に追い込まれたのだ。いわゆる、背後からのひと刺しというやつだ。そして今度もまたドイツは、裏切り者と臆病者どもの為に滅びかけている。
 少なくともヴェルティンガーは、そう信じている。
 ヴェルティンガーの見解では、今のドイツの苦境の原因は、国防軍の奴らが臆病風に吹かれ、総統閣下のご命令を無視して勝手に撤退し続けた事によるものである。彼はそれゆえ、前線を離脱する兵士を心底憎んだ。
 俺は、祖国ドイツに巣喰う害虫どもを退治しているのだ。
 心底そう思っていたから、ヴェルティンガーは移動軍事法廷の任務に良心の呵責など爪の先ほども感じていなかった。
「来てください、SS少佐!」
 その声に振り向くと、部下のSS兵士が新たな獲物にライフルを突きつけていた。
「怪しい奴らを捕まえましたッ」
 兵士らに追い立てられて来た二人のうちの一方は民間人らしい若い男で、その顔立ちから東洋人とすぐにわかった。
 もう一方は白人の女で、年は大人とも少女ともつかない。その女が着ている国防軍のオーバーコートは本人の体よりも明らかに大きく、襟元から小さな顔とおさげにした金色の髪が、裾からはブーツの先だけが出ていた。
 SS兵士に小突き回され、手荒な身体検査を受けながら、東洋人の男はドイツ語で同じ言葉を繰り返し叫んだ。
「日本人、同盟国民だ!」
 怪しい。ヴェルティンガーの直感はそう告げていた。
 ロシアの広大な国土はヨーロッパとアジアにまたがっており、ロシア兵の中には多数のアジア人が含まれていた。そうしたアジア系のロシア人の外見は日本人と変わらず、区別などまず出来ない。
 東洋人の男は、日本のパスポートや身分証明書も持っていた。だが、それが何だと言うのだ。情報機関の連中なら、その種の証明書など容易く偽造してのけるだろう。
 だからヴェルティンガーは、この東洋人はロシアのスパイに違いないと決めた。
 だとすれば、連れの女も怪しいに決まっている。
 女はドイツ軍のオーバーコートの袖に赤十字の腕章をつけ、ミュンヘベルク師団の看護婦だと言っている。しかしそれを証明するものは何も無い。
 同盟国民を名乗る東洋人に、東部戦線から撤退して来た国防軍の師団の従軍看護婦。実に奇妙な取り合わせだ。スパイだという証拠も無いが、スパイではないという証拠も無い。
 となれば、ヴェルティンガーの結論は一つだった。
「さっさと吊るせ、こいつらも」

 駐独日本大使館は、市の中心部のティーアガルテン地区にある。付近にはドイツ政府の官庁も多く集まり、国会議事堂や総統官邸にも近い。
 その裏庭から、一筋の黒い煙が上がっていた。
 花井孝三郎は三十過ぎの貧相な小男で、大使館の裏庭の隅の小型の焼却炉に書類を次々に放り込んでいる姿は、ただの用務員のようにしか見えない。
「手伝って下されば助かるんですがね。手を動かしながらでも、話はできます」
 度の強い眼鏡の奥の目は小さく、目尻も下がり気味だが、向かい合う杉村史生に向ける視線は針のように鋭い。
 名目上の肩書は、花井は大使館の旅券課員に過ぎない。しかしベルリンで長く暮らしている事情通の在留邦人の間では、花井は特高警察の一員で、ゲシュタポ本部とも緊密に連絡を取り合っているらしいと囁かれていた。
 史生はその花井に呼び出され、空襲警報が絶えず鳴り響く中、ノイケルンのアパートから歩き通して大使館にやって来た。
「この国もヒトラー総統も、ついに天命が尽きたようですなあ」
 帳面の背を裂き、中の頁をばらばらにして焼却炉の炎の中に放り込んでいた花井は、横目で史生の表情を窺いながら言う。
 史生は当惑した。ドイツの敗北は誰の目にも明らかだ、しかし噂されている花井の職務を考えれば、果たして頷いて良いものかどうか……。
「どうするんでしょうな、ヒトラー総統は。最後までベルリンを離れぬとおっしゃっているそうですが、さて……。杉村君、君はどう思いますかな?」
 花井を手伝って裂いた紙切れを火の中に放り込みつつ、敗北主義者と思われぬよう、史生はよく考えながら一語ずつゆっくりと答えた。
「勝敗は最後までわからぬものと、よく言われています。それにヒトラー総統は、ドイツには戦局を一挙に逆転させる秘密兵器があると常々……」
 花井は煩わしげに手を振り、ドイツ政府の宣伝そのままの史生の返事を途中で遮った。
「僕は何年もこの国で暮らしています。ドイツ人の友人も大勢出来ましたし、その中には政府内でそれなりの地位に就いている人もいます。その某氏が言うには、総統の脱出計画は既に出来ているのだそうですよ。武装SSの精鋭部隊がロシア軍を食い止めて出来る限り時間を稼いでいる間に、総統を市内からメクレンブルクに脱出させるのだとか」
 史生はただ黙って、花井の顔を眺めた。
「その話を、僕はデマと決めつける気にはなれませんね。ベルリンが陥落すれば、ヨーロッパでの戦いはほぼ終わります。ロシア兵は勝利に酔い痴れ、大酒を飲み女を追いかけて乱痴気騒ぎを起こすでしょう。その油断と混乱に乗じれば、市内から逃げ出すことも可能ではないかと……」
 火中に書類を投じていた手を止め、花井は史生の耳元に口を寄せて囁いた。
「そして上手くメクレンブルクまで行けたら、後はひたすら北を目指して進み、ハノーヴァーへ行く」
 バルト海に面するハノーヴァーにはドイツ海軍司令部があり、そこにはあの海の狼、Uボート戦隊も駐屯している。
 Uボートは、ドイツの誇る潜水艦だ。
「Uボートに乗り込んでしまえば、思いのままどこにでも行けます。ノルウェーに渡って、空軍機でスペインもしくはアイルランドに飛ぶか。あるいは、そのままUボートで大西洋を渡って南米に行くか。ことによれば……」
 花井は一旦言葉を切り、何とも言えぬ微笑を浮かべた。
「総統閣下は、我が大日本帝国に向かうかも知れません」
 東京湾に、ハーケンクロイツ旗を掲げたUボートが浮上する。そしてそのブリッジにアドルフ・ヒトラー総統が立ち、歓呼の声を上げて迎える日本国民に手を振る。
 俄には受け入れがたい気持ちだった。
 だが、あり得ないことではない。
「ヨーロッパでの戦争は、もう終わりです。ドイツの負けは動かしようがありません。しかし総統がどこか別の国で再起を企てるなら、ナチスはまだ戦い続けるでしょう」
 史生は花井の話に頷きつつ、しかし同時にひどく不思議でもあった。このような機密事項を、花井はなぜ自分などに話して聞かせるのだろう。史生にはそれがわからない。
 わからないというより、薄気味悪くすらあった。
 花井は不意に背筋を伸ばした。同時に、それまで浮かんでいた穏やかな表情が一瞬のうちに厳しいものに変わった。
「言うまでも無い事ですが、今、お国では大勢の若者が命を賭けて戦っています」
「わかっています」
 史生は頭を垂れ、神妙な口調で答えた。その史生に、花井は追い討ちをかけるように強い調子で言葉を投げかけた。
「日本の若者達は今、一人残らず(しこ)の御盾となり、南方や大陸の戦場でお国の為に血と汗を流しています。杉村君のかつての同級生達にも、栄誉の戦死を遂げ護国の鬼となった者が、既に何人もいるでしょう」
 史生は頭を上げる事が出来ずにいた。祖国の大学生達はみな徴兵猶予を廃止され、学徒出陣で戦場に向かっていることもわかっている。
「お国の事を思うと、僕も毎日いても立ってもいられない気持ちです」
「よくわかりますよ、杉村君」
 そう言いはしたものの、花井の口調には微かに刺があった。
 この臆病者め、留学生の身分を良いことに、ヨーロッパでふやけた暮らしをしていやがって。お前は、徴兵逃れの非国民と少しも変わらんではないか……。
 史生は花井に、言外にそう非難されているような気がしてならなかった。
「喜んでください、杉村君。とうとう君も、お国のために命を賭けて働ける時が来ました。おめでとう」
 喉元に、不意にナイフを突きつけられたように感じた。戦況が悪化し陸路も海路も閉ざされ、帰国しようにも出来ない現状で、自分に召集令状が出ることはあるまい。史生は祖国の苦境を案じつつも、今までずっとそう思い込んでいた。
 史生は動揺を圧し殺し、背筋を伸ばし強いてはっきりとした口調で言おうと努めた。
「ありがとうございます。お国の為、微力を尽くして戦う覚悟です」
「早合点しないで下さい、別に日本に帰って軍人になれというわけではありませんよ。君にはこのベルリンで、お国の為に働いてもらいたいのです」
 心の内を見透かすような薄い笑いを唇の端に浮かべ、花井はオーバーコートの右のポケットから小さな紙片を引っ張り出して差し出した。花井のウールの黒いオーバーコートは着古されてくたくたになっていたが、渡された紙片もまた幾筋もの折り目がつき僅かに黄変していた。
 それは身分証明書で、こう書かれていた。
『杉村史生、大日本帝国、大東亜新聞ベルリン支局員』
「……どういうことでしょう?」
「ドイツの負けは既に明白です。ここベルリンも、間もなくロシア軍の手に落ちるでしょう。ただ一つわからないのは、ヒトラー総統がどうなさるかという事だけです」
 ベルリンを逃れ、違う国でまた新たな戦いを始めるのか。それともベルリンと運命を共にし、戦争を続けるのは日本だけになるのか。
「ですからそれを、杉村君に突き止めてほしいのです。同盟国の新聞記者として総統官邸に張りついて、ヒトラー総統の動向と生死をその目で確かめて下さい」
「待って下さい、僕はただの学生です! 臆して逃げるつもりはありせん、しかしこのように重大な任務は、本物の記者でなければとても難しいのでは……」
 ほんの微かにだが、花井は唇の端を引きつらせた。そして一つ深く息を吐いてから話を続けた。
「今このベルリンには、我が国の新聞記者はただの一人も残っておらんのですよ。市街戦を避けて疎開するとか何とか言い逃れて、日本の記者はみな昨日までにこの街から出て行きました」
「どういうことでしょう?」
 史生にはわけがわからなかった。ロシアの大軍に重包囲されているこのベルリンから、どこにどう出て行ったというのか。
「いいですか、ドイツとロシアは交戦中ですが、日本は違います。日ソ中立条約はまだ生きていますし、国交も維持されているのですよ。ですから戦線を通り越しさえすれば、ロシアの政府は日本人を保護して国に帰してくれる筈です」
「では、ロシア兵がこの街を占拠しても、我々日本人は危害を加えられないと?」
「その通りです。だから杉村君はただ総統官邸に居座り、一部始終をしっかり見守って、ロシア兵が来たら保護を求めて日本に送り帰してもらえば良いだけなのです」
 そして花井は顔に笑みを浮かべ、史生の肩をポンと叩いた。
「大丈夫です。我々日本人は、ロシア兵を恐れることはありません」
 だが砲弾や爆弾は、日本人だからと避けてなどくれないだろう。
 史生はそう思いはしたものの、口には出さずに黙って頷いた。言えば、戦地の兵隊さんを思えと叱られるに違いない。
 史生のその胸中を知ってか知らずが、花井は眉間に皺を寄せた。
「それにしても、呆れたものです。ベルリンの戦況は我が国にとっても重大な関心事であるのに、日本の記者たる者が、取材を放り出して逃げ出すとは」
 しかし史生は、その気持ちもわからないでもなかった。祖国や家族を守る為に戦うならともかく、異国の地で敵でもない国との戦いの巻き添えになって殺されても構わない者など居るものか。
 その史生に、花井は鋭い目を向けた。
「ヨーロッパでの戦いの結末を見届けるのも、お国の為の重要な仕事なのですよ」
 そう言われれば、史生はただ従うしかない。
「粉骨砕身、全力を尽くして頑張ります!」
 途端に、花井の表情が柔らかくなった。
「良いお返事です、お国の為に頑張って下さい」
 そしてオーバーコートのポケットの奥から、銀色に輝くものを引っ張り出した。
「君は今から新聞記者なのですから、これも必要でしょう?」
 ドイツの光学技術の粋とも言えるカメラ、ライカⅢbだった。
 史生は幼い頃から動くものが好きで、両親にどれだけ叱られても、時計やラジオなど動く物の分解と組み立てを繰り返した。海外留学の道を選んだのも、ドイツの優れた機械工学への憧れからだった。
 当然カメラも大好きだったが、最高級品のライカは史生には高嶺の花で、ずっと欲しくて堪らないでいたものだった。
 考えるよりも先に手が伸びていた。史生はライカの優美な曲線に囲まれたボディを撫でるように触り、空シャッターを切っては柔らかに響くその音に耳を澄ませた。

 ドイツはなぜ祖国ロシアに戦争を仕掛けてきたのか。
 ヴォロネジ近くの寒村に生まれた貧農の息子ボリス・ヴァシリエヴィチ・カルギンは、極めて単純にこう考えていた。
 きっと奴らの国も貧乏で、食うに困って攻めて来たんだろう。
 ところがどうだ、この国には電気もガスも水道もあった。スイッチひとつで明かりも火も自在につき、水も蛇口を捻ればいつでも出てくる。ラジオやレコードからは音楽が流れ、食うものもパンや肉だけでなく果物や菓子まであった。ボリスの故郷の村では明かりといえば煤けた石油ランプで、水は井戸から汲み、煮炊きは薪を使うのが当たり前だったのに。
 わからない。誰もがブルジョワの資本家さながらの贅沢な暮らしをしていながら、ドイツ人どもは何故貧しい我が国に攻めて来たのだろう。その疑問は少しも解けず、ボリスの胸の内の怒りと憎悪は強まる一方だった。
「勇敢なる我が大隊の同志諸君、ドイツの一般市民とファシストを一緒に考えてはいけない。罪を問われるべきはナチ党の指導者どもで、ドイツの人民、労働者階級もまたヒトラーとナチの犠牲者であり……」
 大隊に配属されているスミルノフとかいう政治将校は、ボリスらに繰り返しそう教えた。しかしその説明は、大隊の兵士らにはひどく不評だった。スミルノフの言い方ではドイツ人は憎むべき敵ではなく、同志だとでも言っているようにも聞こえた。
 それよりも、今年の冬季大攻勢に際して配られたパンフレットに書かれていた言葉の方がよほどもわかりやすく、ボリスら兵士の心の中に染みとおった。

 殺せ! 殺せ!
 ゲルマン人種にあるのは悪のみである! 同志スターリンの教えに従え。ファシストの野獣どもを一匹残らずその穴で()っつけろ! 力でゲルマンの女どもの人種的誇りを傷つけよ。彼女らを諸君の戦利品として奪い取れ、殺せ! 嵐の進撃を続けると共に、殺せ! 諸君、勇敢な赤軍の兵士たちよ。

 そうだ、殺せ! 殺せ!
 ボリスは口の中で繰り返しそう呟きながら、崩れ落ちたレンガを踏み越えてベルリン市内を前進した。その手に、シュパーギン短機関銃を握り締めて。
 先頭を進むのは分隊長のチェレーシン伍長で、ボリスがそのすぐ後ろにはりつき、さらにヴェニヤミンとオレイニクが続く。ボリスもよく知っているが、ドイツ人どもは狡くてしぶとい。古狐のようにじっと物陰に潜んでいて、横や背後からいきなり撃ってくる。
 いいだろう、俺たちロシア人がゲルマンスキーより利口で勇敢だということを見せつけてやる。ファシストの奴らを、獣のように狩り立ててやる!
 殺せ! 殺せ!
 その言葉が、ボリスの頭の中で壊れたレコードのように繰り返された。ボリスの腕には殺したドイツ人から奪った腕時計が三つも巻かれていたし、肩から斜めに下げたバッグにはもっと多くの戦利品が入っていた。
 崩れかけたビルの陰で灰緑色の影が動くのを、ボリスは目の端で捕らえた。
 間違いない、ドイツ兵だ!
「同志伍長ッ」
 小声で囁きかけながら銃を構える。
 そのボリスの銃を、チェレーシン伍長が押さえた。
「撃つなよ、女だ」
 ドイツ女を見つけたら、どうするか。それについては、この分隊では口に出す必要もなかった。
 ゲルマンの女どもは戦利品として奪い取り、誇りを傷つけ、そして殺すのだ!

 プラチナブロンドの長い髪は、かねてからケーテ・レンスキの自慢の一つだった。しかし今は違う。金色に輝く彼女の髪は、戦場では目立ち過ぎるのだ。
 ケーテは結った髪の先をオーバーコートの中に押し込み、頭には国防軍の舟形の略帽を深く被った。着ているオーバーコートも国防軍のもので、普通のサイズなのだが小柄で痩せた彼女が着るとひどく大きく見えた。
 絶え間なく銃声が響く街を忍び足で進むケーテは、ヒトラーユーゲントの少年兵のようにも見えた。ただ彼女のオーバーコートに巻かれている腕章はハーケン・クロイツではなく赤十字で、ベルトに吊り下げた雑嚢には薬と包帯が隙間なく詰め込まれていた。
 ロシア兵がこの付近にまで侵入して来ているのはわかっていたし、彼らに捕らわれる事を思うとケーテは足が震えるほど怖かった。それでも雑嚢の中の医薬品を、彼女は何としてでも持ち帰らなければならなかった。
 師団の野戦病院では、多くの負傷兵が彼女の帰りを待っている。
 今年の一月、ロシア軍はポーランドのヴィッスラ河を押し渡ってドイツ本国になだれ込んだ。その際に東部ドイツの多くの民間人が難民となり、敗走する国防軍と共に西へ西へと逃れた。ケーテ・レンスキは、そのようにしてベルリンまでたどり着いた戦災難民の一人だった。
 国防軍の兵士らは、皆この戦争に勝ち目の無い事を悟っていた。しかしそれでも踏み止まって戦い続けたのは、同胞の民間人達を先に逃がす為であった。そしてその為に、多くのドイツ兵がシレジアやポメラニアの雪原で命を散らした。
 ケーテは実は、看護婦でもなければ軍属ですらなかった。東部ドイツから逃げる途中、危ういところを国防軍のミュンヘベルク戦車師団に救われた。そして撤退戦の後衛を務める彼らと共に過ごすうち、ケーテは自分も何か役に立たねばという気持ちになった。それで負傷兵の看護を始め、今では立派に従軍看護婦の役目を果たしていた。
 撤退を続けた師団はついにベルリン市内に追い込まれ、今はテンペルホーフ空港の付近で優勢なロシア軍に包囲されていた。戦闘は絶え間なく続き、医薬品も底をついた。それでケーテが銃火をくぐって近隣の地区でまだ頑張っている友軍の部隊を探し、医薬品を分けて貰って来たのだが……。
 赤十字の腕章も女であることも、ここでは何の救いにもならなかった。東部戦線では幾多の従軍看護婦が消息不明になったが、彼女らの運命を思うと、ケーテは背筋が冷たくなった。ロシア兵には、国際法を順守する気持ちなど毛筋ほども無かった。
 怯えた兎のように辺りを見回しながら歩いていると、不意に背後から荒々しい声が飛んで来た。
「ストーイ(止まれ)!」
 間違いない、ケーテがロシア軍に追われて東部ドイツの雪原を逃げ惑ってきた間に、幾度となく耳にしたロシア語だ。
 ケーテは振り向きもせず、鞭で打たれたように駆け出した。しかし数歩と進まぬうちに別のロシア兵に行く手を遮られ、つんのめるように立ち止まった。
 挟み撃ちだ! シュパーギン短機関銃を鼻先に突き付けられ、前にも後ろにも逃げられない。
「フラウ!」
 どのロシア兵も、女を意味するドイツ語だけはよく知っていた。
 幾つもの腕がケーテの体を捕らえ、オーバーコートのボタンが次々に外されて行く。悲鳴を上げると濃い毛の生えた手で頬を打たれ、同時に猥らな笑い声が響いた。

 史生を送り出した後も、花井は書類を火の中に放り込み続けていた。
 どうだろう、あの若造は期待通りに働いてくれるだろうか。
 正直なところ、花井はまず無理だろうと思っていた。例えて言えば、代打に出した補欠の選手に逆点満塁本塁打を期待ようなものだ。ヒトラーのボディガードかロシア兵か、そのどちらかに殺される可能性が高いと見なければなるまい。
 確かに日本は、ドイツとロシア双方と友好関係にあった。しかし花井の見るところでは、それは形だけのものだ。ヒトラーとナチが本音では日本人を劣等民族と見なしていることは、ヒトラーの著書『我が闘争』を一読するだけでわかる。一方のロシア側でも、日本との中立条約を破棄しようという動きがあからさまになり始めていた。
 どちらも真の友好国とは言えず、いつ敵に回るかわからない。
 だから花井は、ロシア軍がやって来る前にこうして極秘書類を焼き捨てていた。国際法で、大使館はいかなる時にも安全を保障されている筈だ……などと信じ込んでいるような甘ちゃんには、この仕事は勤まらない。
 ベルリン在住の日本人に、花井は特高警察の者だと思われていたが、実は違う。花井は陸軍中野学校で鍛え上げられた諜報員だった。そして軍の特務機関員として、東京の大本営から直接に指示され様々な情報を収集していた。
 初めてドイツに赴任した時には陸軍中尉だったが、今では少佐に昇進している。
 ドイツ敗北ノ際ニハ、総統ノ生死、サラニモシ伯林(ベルリン)ヲ逃レタ場合ハ行方ヲ確カメヨ。
 暗号化されたその電文が日本から届いた時には、さすがの花井も頭を抱えた。そのような重要機密を、ドイツ政府が明かしてくれる筈がない。
 そこで花井は、日本の新聞記者を総統官邸に送り込もうと考えた。同盟国の新聞記者が訪れれば、ゲッベルス宣伝相なら大喜びで迎え入れてくれるだろうし、ヒトラー総統も会ってみようという気になるかも知れない。そしてそのまま総統官邸に居座り続ければ、ヒトラーの生死に関する情報も掴むことができるかも知れない。
 だが肝心の日本の新聞記者は、既に一人残らずベルリンから退去してしまっていた。
 と言って、花井自身が記者を名乗って乗り込むわけにもいかなかった。職務上、ゲシュタポなどドイツの治安当局にはその顔をよく知られてしまっている。
 そこで花井は窮余の策として、まだベルリンに残っていた在留邦人の学生、杉村史生にその役目を押し付けた。
 あの若造に任せるには、この仕事は荷が勝ち過ぎている。その事は花井もよくわかっていた。たとえ同盟国民であれ、ゲシュタポは国家の機密を探る者には容赦をしない。そしてその際には、助けの手を差し伸べるどころか、日本大使館としては一切の関わりを否定せざるを得ない。
 生きて戻ることはまず無いだろうあの若造を、花井は少しだけ気の毒に思った。しかし現時点で使える者は杉村史生の他におらず、それに史生が任務を果たせなかったとしても、総統官邸に工作員を潜入させたと本国に報告する事だけはできる。
 それに代打で出した補欠の選手が逆転満塁本塁打を打つことも、絶対にあり得ないわけではない。
 しかしその可能性は十に一つも無い事は、花井自身よくわかっていた。

 廃墟と化しつつある街を歩きながら、史生は途方にくれていた。
 何年もの留学生活で今ではドイツ語も自在に話せるし、ベルリン市内の地理にもかなり詳しくなっていた。だがそれで、どうすれば総統官邸内に潜り込めるというのだ。
 渡された記者証を示せばヒトラーと会わせて貰えるほど甘くない事くらい、史生にもわかる。そしてスパイと疑われれば、有無を言わせず殺されてしまうであろう事も。
 しかし史生は、花井の命令を拒めなかった。
 戦況の悪化と日本の苦境は史生も知っていた。日本にいる同じ年代の学友や知人はみな兵士としてお国の為に戦い、命を落とした者も少なからずいる筈だ。
 それらの同胞への負い目が、史生の心に重くのしかかっていた。
「お国では、君と同じ年頃の若者はみな戦地で命をかけて戦っています」
 その事は、言われなくてもよくわかっている。
 ただ総統官邸に向かう前に、一度自分のアパートに戻ろう。
 そう思って、大使館を出た史生は官庁が軒を並べるミッテ地区から、住んでいるアパートのあるノイケルンへ向かった。死を覚悟してヒトラーのもとに行く前に、せめて身辺の整理だけはしておきたかった。
 だがベルリン市内では既に激しい市街戦が始まっていて、周辺部の幾つかの地区は既にロシア軍の手に落ちていた。
 そしてノイケルンにもまた、ロシア軍が略奪と暴行を続けながら迫りつつある。
 どうせ貧乏学生なのだ、金目のものなど大してありはしない。しかし大切な写真や家族からの手紙を、野蛮な外国兵の手で掻き回されるのは、どうにもやり切れなかった。
 クロイツベルクを抜け、ラントヴェール運河を渡る。人間の感覚で一番慣れてしまいやすいのは嗅覚だというが、瓦礫の下に埋もれたまま、あるいは運河に浮かんだまま腐ってゆく死人の臭いも、もはやそれほど強烈に感じなくなりつつあるのが悲しい。
 テンペルホーフ空港にほど近い辺りで、史生は鋭い悲鳴を聞いた。女、それもかなり若い女の悲鳴だ。
 路地の奥で何が行われているか、史生にもすぐにわかった。金目のものを漁るだけでは飽き足らず、ほんの幼い少女から六十を過ぎた老婆まで、ありとあらゆる女を強姦して回る野獣。それがロシア兵だ。
 行ってみたところで、自分に何ができる? 相手は銃を持つ獣なのだ、止めだてしようものなら、女を助けるどころか史生がただ殺されてしまうだけだ。今の史生には、お国の為に是非とも果たさねばならぬ任務がある。
 史生は自身にそう言い聞かせ、唇を噛み足早にその場から去りかけた。が、足がどうにも言うことを聞かない。少女の悲鳴と男達の野卑な笑い声に引き寄せられるように、空襲で崩れかけたビルとビルの谷間の薄暗い路地の奥に、史生はふらふらと入り込んで行った。
 史生の目にまず飛び込んできたのは乱れた金色の髪と白い肌で、それに幾つものカーキ色の人影がのしかかろうとしていた。
「恥ずかしくないのか、君たち!」
 思わず日頃使い慣れたドイツ語でそう叫んだ後で、史生はロシア兵に通じる筈もない事に気付いた。しかもロシア兵達は、ドイツ語で怒鳴られた事だけは理解した。
 ロシア兵らは放り出してあった短機関銃に飛びつき、史生はたちまち幾つもの銃口を突き付けられた。ロシア兵は血走った険悪な目で史生を睨み、ロシア語で何事か早口にまくしたてる。しかし史生には、何を言われているのかさっぱりわからない。
 ジャポン、ジャポン!
 言いながら、史生はオーバーコートの内ポケットから身分証明書を引っ張り出そうとした。
 だがその動作を、ロシア兵達は武器を引っ張り出そうとしているのだと誤解した。
 構えた銃の、引き金にかけられた指に力が込められる。
 立て続けに響いた発砲音が、ビルの谷間で反響した。
 やられた!
 史生は目を瞑った。
 しかし何故か、痛みは感じなかった。
 苦痛の呻き声に目を開けると、史生の周りに血まみれのロシア兵達が転がっていた。そのうち一人は泣きながら誰かの名を繰り返し呼び、もう一人はわけのわからぬ言葉を喚き続けていた。残る二人は、血溜まりの中に突っ伏したままぴくりとも動かない。
 その先には、史生が救おうとした少女が片膝をついて起き直っていた。
 少女は半裸の見るからにひどい状態で、しかしその手には小さな拳銃が握られていた。
「……私、頭がどうかしているのかも」
 少女はコートの前を掻き合わせながらのろのろと立ち上がり、呟くような、しかし体の奥底から絞り出すような声で続けた。
「人を撃ったの、生まれて初めてなのに。でも悪い事をしたとか、可哀想だとか、全然思えないの」

 ユーリ・アレクサンドロヴィチ・スミルノフ大尉とステパン・グレゴリオビッチ・フョードロフ上級中尉もまた、血にまみれて横たわっている赤軍兵士らに一片の同情も感じていなかった。
 伍長と一人の兵は既に死んでいて、もう一人の兵も肺を撃ち抜かれておりやがて死ぬだろう。ただボリス・カルギンと名乗る兵士は銃弾が右肩を貫通しただけで、命に別条はなさそうだった。
 しかしボリスは死人さながらに青ざめていた。その場で撃ち殺された伍長やヴェニヤミンの方が、もしかしたら幸運だったかも知れない。ボリスはそんな気さえしていた。
 二人の赤軍将校が、厳しい表情でボリスを見下ろしている。
 軍服の袖口に赤い星のマークをつけたスミルノフ大尉は大隊の政治担当副隊長、いわゆる政治将校というやつだ。
「おかしいではないか。四人もの赤軍兵士が、何故ドイツの小娘たった一人に撃たれるのだ? しかもお前らは、その女を捕らえて取り調べていたのだろう?」
「それが、その……」
 ボリスはうまく答えられない。
 聞かずとも、スミルノフ大尉には事の次第が容易に推察できた。この兵隊とその仲間は、ドイツ女を押し倒す事しか頭になかったに違いない。撃たれても自業自得としか言いようのない、赤軍の面汚しの豚野郎どもだ。
「まあまあ、同志大尉」
 傍らのフョードロフ上級中尉が、柔らかな声でスミルノフ大尉を遮る。
「それよりも、もう一人の男の方の話を聞こう。その男は確かにジャポンと言っていたのだな?」
「そうであります、同志上級中尉」
 野戦病院の粗末なベッドに横たわったまま、ボリスは気をつけの姿勢をとるかのように手足の先をピンと伸ばした。
「ドイツ語を喋る、東洋人の若い男。そいつがお前らの邪魔をしてドイツ女を助けた。そうだな?」
「その通りであります、同志上級中尉」
 上級中尉の声はあくまでも穏やかだ。しかしボリスはやかまし屋と悪評の高いスミルノフ大尉より、見知らぬ上級中尉の方が恐ろしかった。上級中尉のスカイブルーの将校制帽は、彼がNKVDの一員であることを示していた。
 NKVDと呼ばれる国家保安人民委員部は、後にKGBと改称されることになる。
 秘密警察の上級中尉はボリスの枕元に屈みこみ、優しいとすら言える調子で語りかけた。
「同志カルギン。君が見た事すべてを、もっと詳しく話してほしいのだ。まずその前に警告しておくが、もしも君が一言でも虚偽の証言を行った場合、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国憲法第九五条違反による罪を問われることになる。わかったかな?」

 ケーテ・レンスキと名乗ったその女は、髪と服を整えた後の姿を改めて見てもかなり若いように思えた。おそらく十八かそこら、あるいは二十歳くらいなのかも知れないが、いずれにしても学校を出てまだ間もない年頃のようだ。
「助けてくれて、ありがとう」
 ケーテにそう言われて、史生は気恥ずかしくなった。命を助けられたのは、実は自分の方だとわかっている。
 近くの友軍を捜して、薬と包帯を分けて貰って来ます。
 ケーテがそう言い出した時、ミュンヘベルク師団のクーベ軍医中尉は止めようとした。一人で部隊を離れるのは危険すぎる、と。しかし医薬品は底をついていたし、負傷兵は増えて行く一方だった。
 やむなくケーテを送り出す時、軍医はケーテの手に小さな拳銃を押しつけた。クーベ軍医自身のワルサーPPKだ。
「コートのポケットでもバッグの底でも、こいつならどこにでも入れておける」
 国際法で、軍医と衛生兵は武器の携帯を禁じられている。しかし前線のロシア兵は国際法など知りもしないし、仮に知っていても守るつもりもなかった。
 殺せ! 殺せ!
 それがロシア兵の流儀だ。
 だから東部戦線では、赤十字の腕章より拳銃の方が百倍も頼りになるのだ。
「貴方は、日本の新聞記者さんでしたよね?」
「ええ、まあ一応……」
 自ら記者と名乗るのは、史生としてはやはりまだ気恥ずかしい。
 ケーテの目は、史生が首からぶら下げているライカに向けられている。
「危ないですよ、そんなものを持って前線を歩いたりしたら。ロシア兵は、カメラを腕時計の何倍も欲しがってますから」
「前線って、ここがですか?」
「ええ、この地区にはもうロシア軍が入って来ていますし、撃ち合いだってとっくに始まってます」
「でも、僕は家に戻らなければ」
 史生がアパートのある場所を言うと、ケーテは哀れむような目になった。
「そこはもうロシア軍の手に落ちてます。命を捨てたくなければ、帰るのは諦めなさい」
 ほんの数時間前にアパートを出る時には、そのまま二度と戻れなくなるとは思いもしなかった。そしてそには、日本に持って帰りたい物が幾つもあった。
 しかし命とどちらが大切かと問われれば、議論の余地はない。
 アパートにはもはや戻れないとなれば、史生は花井に命じられた通り、総統官邸に行くしかない。
「それで、君はこれからどうするの?」
 尋ねられたケーテは、医薬品が詰まった雑嚢を軽く叩いた。
「私は師団の野戦病院に戻ります。皆が待っていますから」
「なら、そこまで君を送って行こう」
 その申し出に、ケーテは微笑んで頷いた。
「ありがとう、心強いです」

 史生は金髪の可愛らしい少女と肩を並べ、総統官邸とは正反対の方向に歩いた。
 総統官邸にも、もちろん行くつもりだ。
 しかしその前にまず前線の様子も見ておかなければ、記者として格好がつかない。取材メモは真っ白、写真も一枚も撮っていないという有り様で、どうして新聞記者を名乗れるだろう。
「君はどこで何を取材して来たのかな?」
 そう問われて何も答えられないようでは、誰が見ても怪しい。
 それで史生はまずこの少女、ケーテについて行ってみようと決めた。総統官邸に向かうのは、まず前線で兵士達の話を聞いて手帳を埋め、写真も何枚か撮ってからだ。
 しかしそれは総統官邸に向かうのを少しでも遅らせる為の言い訳だと、史生にもわかっていた。
 本音を言えば、史生はヒトラーの周囲にうようよいるであろうゲシュタポやSS隊員が恐ろしかった。彼らの目を欺いてヒトラーの動向を探り出す自信など全く無く、そしてロシア兵もまた恐かった。
 それでどこにも行き場がなく、偶然出合った少女にのこのこついて行こうとしている。
 そのケーテはミュンヘベルク師団が陣取っているテンペルホーフ空港に向かって歩きながら、自分が東部ドイツからベルリンまでやって来るまでの事を話した。
 今年の一月中旬にロシア軍の大攻勢が始まり、ポーランド国境に近いドイツ東部のポメラニアに住んでいたケーテの一家は、土地も家も財産も捨てて逃げ出した。
 ドイツ領内に侵入してきたロシア兵は、あの宣伝パンフレットの言葉そのままに振る舞った。
 殺せ! 奪え! 女どもを犯せ!
 民間人であろうが、老人であろうが、男は片端から殺された。
 女達は犯され、それも毎夜毎夜、何十人もの兵士らの相手をさせられた。
 それでも生きていられた者は、まだいい。さんざん犯された揚げ句に、全裸で足を開かされた姿勢のまま殺された女も珍しくなかった。犯された後、裸のまま高い橋の上から真冬の凍るような川の中に放り込まれて殺された女さえいた。
 とは言うものの、ロシア兵の手から逃れることができたドイツ人達もまた、ひどい苦しみを味わうことになった。中部ヨーロッパの冬の寒さは厳しく、夜には氷点下十数度にまで冷え込む雪原を、ケーテら避難民は着の身着のまま、食べる物も殆どなしに歩き続けた。年寄りや幼児など弱い者は、たちまち凍死あるいは衰弱死した。
 この惨状を打開する為、ドイツ国防軍最高司令部は残る戦力を掻き集め、東部ドイツに救援に向かわせた。パンター中戦車とティーガー重戦車を与えられて新たに編成された戦車師団ミュンヘベルクも、そうした部隊のうちの一つだった。
 絶望的な戦況の中、ミュンヘベルク師団は避難民達が逃げる時間を稼ぎ出す為、実によく戦った。ケーテはこの師団の兵らに助けられて家族の中でただ一人生き延び、以後ずっとミュンヘベルク師団と行動を共にして、負傷兵の看護にあたっていた。
 その話を聞きながら瓦礫の山や爆弾の穴を避けて道を進み、目指すテンペルホーフ空港まであと数ブロックというあたりで、史生とケーテは薄暗い路地から飛び出して来た一団の兵士達に取り囲まれた。
「止まれ、動くな!」
 怒鳴られ銃を突き付けられたが、史生は今度は慌てなかった。彼らはロシア兵ではなくドイツ兵だったからだ。
「聞いてくれ、僕は同盟国民、日本人の新聞記者だ!」
 が、兵士らの表情は厳しいままだ。銃口は史生とケーテにぴたりと据えられ、指も引き金にかけられたままになっている。
 兵士らを押し分けるようにして、背の高い痩せた将校が前に出て来た。金髪碧眼の典型的なアーリア人で、ナチの宣伝ポスターから抜け出して来たかのようだ。薄い唇をへの字にひん曲げ、目は刺し貫くように鋭い。
「ヴェルティンガーSS少佐だ。移動軍事法廷の判事である」
 ケーテの顔から血の気が引いた。
 移動軍事法廷についての噂は、史生も聞いて知っていた。だが史生は日本人だし、ケーテは民間人だ。どちらも軍事法廷に拘束される理由などない。
「身分証明書とパスポートを見てくれればわかる、僕は日本の新聞記者で彼女はミュンヘベルク師団の……」
 説明は、SS少佐の鋭い声に遮られた。
「口を開くのは、私に何か聞かれた時だけにしろ!」
 SS少佐の表情は硬く、氷よりも冷えていた。
 その部下の兵士たちが、史生とケーテのポケットの中を手荒に探る。
 真っ先に目を付けられたのは、史生のライカだった。
「ほら見ろ、やはりスパイだ。こんなものを持ってうろついているとは」
 ケーテのオーバーコートの中のワルサーPPKも、たちまち引っ張り出される。
 SS少佐はそれらを凝視した後で、付き従う下士官に頷いて短く言った。
「吊るせ。男も女も、どちらもだ」
「なぜだ、なぜ確かめてみようともしないっ。日本大使館に電話を一本かければいいだけだし、ミュンヘベルク師団もすぐそこに居るじゃないか!」
 史生の抗議に返ってきたのは、銃床の一撃だった。後頭部を背後からしたたかに殴られ、史生は一瞬気が遠くなりかけた。そして意識が戻ると、猛烈な頭痛と吐き気に襲われた。史生が地べたに倒れずにすんだのは、ケーテに抱きかかえられたからだった。
 史生は頭を数度振り、SS少佐を見すえた。
「抗議する。こんな野蛮な行為を、日本政府は絶対に許さない!」
 しかしヴェルティンガーは歯牙にもかけず、部下の兵士らに処刑の準備を急がせた。
 史生はSSの兵士らに押さえつけられて後ろ手に縛られ、首に縄をかけられた。隣では、ケーテもまた同じように縛り上げられている。
 その時、キャタピラの轟音と共に戦車が通りの向こうから姿を現した。
 SS少佐と兵士らは縛ったままの史生とケーテを引きずるようにして、崩れかけたビルの壁にへばりついた。兵士らはそれぞれ銃を構えているが、ライフルと勇気だけでは戦車に勝てないことくらい史生にもわかる。
 が、兵士らは程なく安堵の息を吐いて銃口を下げた。
「おお、味方だ!」
 先頭は偵察戦車ルックス、そしてその後には何両もの装甲兵員輸送車ハノマークが続く。
 ルックスの砲塔の後ろには指揮官らしい将校が腰掛けており、彼はヴェルティンガーらに目を留めると戦車を停めさせた。
「ハイル・ヒトラー!」
 ヴェルティンガーSS少佐が右手を真っすぐ突き上げて怒鳴り、ブーツの踵を打ち合わせる鋭い音が史生にも聞こえた。戦車の上の将校も右手を上げやや無造作にそれに応えたが、彼の将校制帽にもSSの銀の髑髏のバッジが光っている。
 ヴェルティンガーは胸を張って言った。
「今から敵のスパイどもを吊るすところだ」
 なるほど、と戦車の上のSS大尉は頷いた。そして史生とケーテを交互に眺め、何の感情の籠もらない平板な調子で続けた。
「困りますな、勝手な事をしてもらっては」
「なに?」
「ここは私の縄張りだ。二人をこちらに渡して、ここからすぐ出て行っていただきたい」
 ヴェルティンガーの顔色が変わる。
「何だと貴様ッ、上官に向かってよくもそんな口を……」
 しかし戦車の上のSS将校は動じない。
「私の戦区では移動軍事法廷は認めていない。SS少佐、さあそのケツを上げてとっとと出て行ってもらおう」
 ヴェルティンガーは憤怒で顔を赤くし、腰のホルスターに手をかけた。
 が、そこまでだった。戦車に続く装甲兵員輸送車の機関銃が、いつの間にかヴェルティンガーとその部下らに向けられていた。そしてそれに乗る兵士らも、それぞれ銃を構えている。
 これではとても、喧嘩にならない。
 それにしても、何という違いだろう。史生は二人のSS将校を見比べながら思った。
 ヴェルティンガーの軍服にはプレスの跡がくっきりと残り、ブーツも綺麗に磨き上げられていた。将校制帽のワイヤーもピンと張り、綺麗な山形が保たれている。
 それを戦車から見下ろすSS大尉の将校制帽は擦り切れて形も崩れ、軍服も皺くちゃで汚れていたが、その胸には幾つもの勲章が輝いていた。そして肩から下げている短機関銃(サブマシンガン)は、敵のロシア軍から奪ったシュパーギンだ。
 気になることが、もうひとつあった。戦車の上のそのSS大尉に、史生はどこか見覚えがあるような気がしてならなかった。
 だが史生の記憶にあるあの友はとても気持ちが優しく、どう考えてもヒトラーの親衛隊員になるような男ではなかった。事実、戦争が始まるとあの友は、国防軍の一員として出征して行った筈だった。
 史生がそのSS大尉の顔を眺めている間に、ヴェルティンガーSS少佐とその部下は、文字通り銃を突き付けられて追い出されて行った。
 その際、ヴェルティンガーは目を怒らせ唇を震わせて怒鳴った。
「いいか若造、このままで済むと思うなよッ。この件は必ず上層部に報告してやる!」
 しかしSS大尉はヴェルティンガーには目もくれず、戦車の砲塔から滑り降りると史生の手を強く握り締めた。
「よお、フミオ。久しぶりだな!」
 そして初めて言葉を交わした七年前と同じように、その手は機械油で黒く汚れていた。

 アドルフ・ヒトラーは矛盾と欺瞞の多い煽動政治家だが、史生はドイツに来て間もないうちにそれを感じた。
 日本ではヒトラー総統の人気は大層なもので、特に若手の陸軍将校らはドイツの軍事力に心酔しきっていた。日本の青年とヒトラー・ユーゲントとの交流も行われ、ドイツとの友好ムードを盛り上げるニュース映画も度々上映されてもいた。
 しかし実際にドイツに来てみた史生は、ドイツ人が日本人を対等な友人などと思ってもいない現実を、膚ですぐに感じた。
 大学の教職員や同級生らも下宿先の女主人も、周囲のドイツ人はとりあえず礼儀正しく接してはくれた。面と向かって侮辱的な態度を取られる事も無かった。だが挨拶を交わす程度の顔見知りは少しずつ増えはしたものの、親しい友はなかなかできなかった。
 義理で仕方なしに付き合ってやっている、田舎出の貧乏な冴えない知り合い。史生にはそのように扱われているように思えてならなかった。
 そもそもナチは人種理論を党の行動理念に据えており、ユダヤ人だけが蔑視されていたわけではなかった。あの『我が闘争』の中で、ヒトラー自身が日本人を劣等民族と明記している。
 アウトバーンの建設に国民車計画、そして戦車を配備された新生ドイツ国防軍。史生がドイツに渡った一九三八年には、ヒトラーの帝国の勢いは最高潮に達していた。ゆえに学問の面に限って言えば史生の留学生活は充実しており、ドイツの優れた機械工学を学ぶのはとても楽しかった。
 ただ私生活の面では、史生はひどく孤独だった。
 だから史生は、暇を持て余すと市内の各所に散歩に出ては、写真を撮って回った。
 機械好きが昴じて、とうとうドイツ留学までしてしまった史生だ。写真機もとても好きで、折り畳むと上着のポケットにも入る蛇腹式の小型カメラ、レチナをどこに行くにも持ち歩いた。そして撮った写真は、日本の家族や友人への手紙に添えて送った。それに対して届く日本の家族や友人からの返事は、史生の何よりの楽しみだった。
 大学の講義の合間に、教室の隅の席でいつものようにそのレチナをセーム革で拭っている時、不意に声をかけられた。
「良い物をお持ちですね。よろしかったら、少し見せていただけますか?」
 目を上げると、それまで言葉を交わした事も無い見知らぬドイツ人の学生が、柔和な笑みを浮かべていた。彼は背の高さも日本人の史生とさほど変わらず、髪も瞳もダークブラウンで、ナチ党の宣伝ポスターで見かける理想のアーリア人種像とは少し違っていた。よく見れば顔立ちは整っているのだが、身なりは地味だし話す声も物静かで、人に強い印象を残すようなところはまるでない。
 が、史生からレチナを受け取ると、そのドイツ人の学生は別人のように生き生きとした。レンズの奥を覗き込み、繰り返し空シャッターを切ってはその音に耳を澄ませる。
「シャッターが少し粘りかけていますね。レンズのヘリコイドのグリスも減り気味です。今はまだ使えていますが、近いうちにオーバーホールに出した方が良いでしょう」
 そのレチナは中古で手に入れた割安なものだったが、それでも史生としては思い切った買い物だった。その為に史生は小遣いの殆どを使い果たしていて、オーバーホールの工賃などどこから捻り出せばまるでわからなかった。
「少し時間を下さい」
 名も知らぬそのドイツ人の学生は史生の隣に腰を下ろすと、革の分厚いクラッチバッグの中を掻き回して精密機械用のドライバーセットを取り出した。開いたままのバッグの開口部からは、機械工学の専門書が何冊も見えている。
 そのドイツ人の学生は、黙って史生のカメラを分解し始めた。その手際は熟練工も顔負けで、その見事さに史生は抗議することさえ忘れて見惚れていた。
 レンズ部はたちまちボディから取り外され、シャッター羽根も絞り羽根も一枚ずつ分解され、こびりついていた古い油が丁寧に拭われて行く。
 様々な細かいネジやギアやバネを元通りに組み直した後、彼は申し訳なさそうな口調で言った。
「これであと暫くは大丈夫だろうと思います、けれどやはり近いうちにカメラ店に持って行った方が良いかと……」
 だが彼が組み直したレチナの各部の動きは、驚くほど滑らかになっていた。
「どうもありがとう、助かりました。僕はフミオ・スギムラ、日本から来た留学生です」
「ペーター・ドレシャーです、よろしく」
 差し伸べられた手は、あちこちが機械油で黒ずんでいた。
 以来、史生とペーターは親しい友になった。
 幼い頃から動くものや機械が大好きで、皆と外で遊ぶより、一人静かに読書する方を選びたい。政治には興味が無く、喧嘩や争いごとは嫌い。目立つ事は苦手で、大勢の人の前に出ると思っている事もうまく喋れなくなってしまう。人種や国籍こそ違うものの、二人の中身は双子のように似ていた。
 彼、ペーター・ドレシャーは学内でも目立たない地味な存在だった。別に意識的に無視されているでも避けられているでもないが、誰にも注目されず、常にその他大勢のうちの一人といった扱われ方をしていた。そして彼自身も、その立場を甘受していた。
 だが史生だけは、ペーターの機械工学に関する知識の深さと情熱をよく知っていた。
「知ってるかい? レチナのレンズには、シュナイダー社のクセナーの他に、コダックのエクターが付いた物もあって、このエクターの写りがまた良いんだな。クセナーも良いレンズだけれど、エクターはものすごく良いんだよ」
「カメラはライカが人気だけれど、構造的にはツァイスのコンタックスの方がすっと優秀だね。一眼式の距離計、距離計の有効基線長、一軸式シャッター、何を取ってもコンタックスの方が上だもの。レンズの性能だって、ツァイスのゾナーとライツのズマーでは比べものにならないよ」
「飛行船なんて駄目だね。だって水素で浮いているんだよ、危な過ぎる。そうそう、メッサーシュミット博士はジェットとかいう新型エンジンを開発していて、近いうちに飛行機からプロペラが無くなるなんて言っているけど、どうなんだろうね?」
 普段は物静かなペーターだが、機械について話し始めると止まらなかった。
 そしてペーターは、ヒトラーやナチスのパレードを見に行くのも好きだった。彼にはSS将校の従兄がいるとかで、その際にはいつも良い位置を確保して貰っていた。
 と言っても、ペーターをパレード見物に駆り立てていたのは、ヒトラー総統でも親衛隊の行進でもなかった。先導役のサイドカー付きのBMWの大型バイク、総統専用の白い大型ベンツ、それに警護隊の装甲車や戦車。パレードの間、ペーターの目は動く機械たちにずっと釘付けで、最後尾の車両が通り過ぎるまで写真を撮りまくった。
 ペーターが心酔していたのはドイツの最新のメカニズムで、決してナチズムではなかった。水晶の夜事件を初めとするユダヤ人襲撃が大規模に行われるようになると、学生の中からもそれに賛同して気勢を上げる者達が出た。しかしペーターは、その種のユダヤ人排斥運動には一切加わろうとしなかった。
「ユダヤ人だって同じ人間だろうに。何であんな酷い事が出来るのか、僕にはどうにもわからないよ」
 他の親ナチ派の学生に聞かれぬよう、ペーターは声を密めてそう囁いた。
 その史生とペーターとの付き合いは、僅か一年で終わった。
 二人が知り合った翌年の九月にドイツ軍がポーランド侵入し、第二次世界大戦が勃発した。そして他の多くの学生らと同様に、ペーターは陸軍士官学校への入学を決めた。
 史生にとって、その決断は少し意外だった。戦争が始まると勇んで軍に身を投じた学生は大勢いたが、史生はペーターなら最後まで大学に残るに違いないと思っていた。
 僕は技術将校になりたいんだよ。
 ペーターは照れた顔で、史生にそう打ち明けた。
「時局を考えれば、どうせみんな戦争に行かなきゃならないんだ。だったら、徴兵されるのをただ待っているよりも……ね」
 最前線で勇敢に敵と戦うペーターの姿など、史生にはとても想像できなかった。だがスパナを手に戦車や装甲車の整備に汗を流す姿なら容易に想像できたし、ペーターに合っているように思えた。
 そのペーターがまさか武装SSの歴戦の前線指揮官になっていようとは、史生は夢にも思っていなかった。

「ペーター、ペーター・ドレシャー! 本当に君なのか?」
 ペーターは頷き、口の端を僅かに曲げて笑った。
「元気かと言いたいところだが、厄介事に巻き込まれていたようじゃないか。だがまあいい、任せておけ。クロイツベルクはこのドレシャー戦闘団の縄張りだ。僕らと一緒にいる限り、君には誰にも手は出させない」
「なら、ケーテも師団に帰っていいんだな?」
「それは少し待ってくれないか」
 ペーターは史生とケーテを部下達の中に残し、まだ破壊されていないアパートを探した。そして中で人の気配がする部屋のドアを強く叩いた。
「開けろ、味方だ。ドイツ軍だ」
 ややあって開けられたドアの奥から、不安と不信の色に満ちた三組の目が覗いていた。
「脱走兵探しですか。うちには誰も来てはいませんよ、隊長さん。何なら家捜しでもしてみますか?」
 そこの主人であるゲオルグ・ベルツにとっては、ペーターもヴェルティンガーと同じ恐ろしいSS将校だった。そしてペーターも、この一家が移動軍事法廷の処刑を見ていた事を知らない。
 それでペーターは、一家の敵意ある視線に少し戸惑った。
「ただ電話をお借りしたいだけですよ、ヘル(男性に対する敬称)」
「電話を? なぜ無線を使わないんです」
 戦況はこれ以上ないほど悪かった。補給なし、援軍も無く、おまけにロシア軍の攻撃で無線中継所が破壊されてしまい、無線が殆ど通じなくなっていた。そのため市内の各所に籠もって戦うドイツ軍の各部隊は、民間の電話で連絡を取り合う有り様であった。
 が、民間人にそうは言えない。
「どうかご協力を」
 痩せて眼鏡が似合う、いかにも知識人といった風貌の中年の家の主は、嘲るような笑みを浮かべた。
「こちらへどうぞ」
 そのゲオルグ・ベルツは、ペーターを廊下の奥に導きながら尋ねた。
「ロシア軍は、今どのあたりなんです?」
「テンペルホーフ空港とノイケルンの南です」
 答えつつ、ペーターはゲオルグに寄り添っている妻と娘に目を向けた。娘はおそらく、十六くらいか。美人というのとは少し違うが、大きな目がくるくるとしていて可愛らしい。少し肉が付き過ぎてはいるが、母親の方もまだ枯れるような年ではない。
「あなた方も早いうちにどこかへ避難した方が良い。お嬢さんがいらっしゃるなら、なおさらね」
「私達は逃げるつもりはありませんよ、ここは私達の家なんですから」
 ゲオルグ・ベルツの口ぶりは、まるでロシア軍を待ち望んでいるかのように聞こえた。
 ペーターは肩をすくめて受話器を取り上げ、テンペルホーフ空港を呼び出した。
「ミュンヘベルク師団か、急ぎの用だ、軍医を出してくれ」
 間もなくクーベ軍医が電話に出て、ケーテの身元が確認された。不当逮捕だ、早く帰してよこせと軍医には噛みつかれたが、ペーターは取り合わずに電話を切った。そして暫く逡巡した後で、再び受話器を取り上げた。
「交換台か、プリンツ・アルブレヒト街のゲシュタポ本部を頼む。そうだ、大至急つないでくれ」

 受話器を置いた後も、エルナ・ウルマンの胸の鼓動は高まったままだった。ハンナ・ベルツと話していた時の興奮は、まだそのままに残っている。
 エルナが電話口に出るなり、仲良しの女学校の同級生はこう言った。
「ねえ聞いて聞いて、ついさっきまで家にSSの将校さんが来てたの。でね、今ちょうど帰ったとこ!」
「え、どうして、何しに来たの?」
「電話を借りに」
 思わず吹き出したエルナだが、電話の向こうのハンナも笑っていた。
「おかしいでしょ、ね? それで電話が済むと、本当にすぐ出て行っちゃって」
「で、どんな人よ?」
「けっこう若かった」
「いい男?」
「うーん、ハンサムっていうんじゃないけど、何か可愛いって感じだった」
「いいな、会ってみたかったな。電話なら家に借りに来れば良かったのに」
 エルナはハンナの父親のことを知っていた。だからあの父親が若いSS将校にどんな態度をとったか、エルナにも容易に想像がついた。
 だが、ウルマン家は違う。エルナの父親は国防軍の将校だし、兄も士官学校に在学中だ。もしもウルマン家にそのSS将校がやって来たなら、エルナも母も愛想良く接してお茶を振る舞うくらいしただろう。
「でも、SSの人ってやっぱり怖いよ。礼儀正しかったし、おとなしそうだったけど、電話をかけた先はどこだと思う? 聞いて驚かないで、ゲシュタポ本部なのよ」
「すごーい!」
「でね、電話に出たゲシュタポの上の方の人と、すごく仲良しって感じで喋ってるの」
 ハンナはそこで声を落として話を続けた。
「だからお父さん、真っ青になっちゃって」
 エルナはまた笑った。
 電話の向こうのハンナも声を殺して笑っている。
「ねえねえ、ハンナのお家に行ってもいい? その時の話もいろいろ聞きたいし、それに相談したいことがあるのよ」
 国防軍の少佐の父親は長いことロシア各地を転戦していたが、その間も欠かさず戦地から手紙を出してくれていた。しかしこの一月にロシア軍の大攻勢が始まって間もなく連絡が途絶え、エルナら家族が出した手紙にも返事が届かなくなっている。
 その父親が、最後の休暇を終えて戦線に戻る時に、エルナ達に言い残したことがある。
「いいか、絶対にロシア軍に捕まるんじゃないぞ。ロシア兵の手に落ちようものなら、女は死ぬよりずっと辛い目に遭うからな」
 女学校の同級生達の中にも、ロシア兵がやって来たら自殺すると言っている者もいた。エルナの母親も、知り合いの軍医に青酸カリを分けてくれるように頼んでおいた方が良いかも知れないと考え始めている。
 エルナは悩んでいた。死ぬのは嫌だ、でもロシア兵も恐ろしい。
 同級生の友達は何人もいたが、エルナにとって一番の親友はハンナ・ベルツだった。だから心を決める前に、ハンナに会って相談しておきたかった。

「フミオ、君は僕の友達だ。身元はこの僕が保証できる。フロイライン・レンスキの身元も、ミュンヘベルク師団の軍医が保証してくれた」
 戻って来るなり、ペーターはそう言った。
「なら、私は行っていいんですね?」
 ケーテの顔が輝いたが、ペーターはきまり悪げに続けた。
「申し訳ないが、フロイライン・レンスキには当分この隊にいて貰いたい」
「なぜ?」
 ケーテと史生は同時にそう言い、さらにケーテは縋るような声で付け加えた。
「野戦病院の皆が、私を待っているんです」
「ミュンヘベルク師団の従軍看護婦は、君一人かな?」
「いいえ」
「この戦闘団にも手当が必要な負傷兵が何人もいる。しかし我が部隊には軍医どころか看護婦もいないし、薬も無いのだよ。我々にも君の助けが必要なのだ、フロイライン《おじょうさん》」
「でも、せめて薬だけでも、向こうの皆に届けないと……」
「そう言われても、ここは最前線だ。ロシア兵どもがうようよしている中、女一人で空港まで辿り着けるとは思えない。さっきのような、移動軍事法廷の連中もうろついている。だから悪い事は言わない、死にたくなければ我々と一緒に居た方が良い」
 ケーテの顔に、不満の色がありありと浮かんだ。だが現にロシア兵にも移動軍事法廷にも捕らわれたばかりなのだ、反論はしにくい。
 ペーターはケーテに背を向け、オートバイ兵を呼び寄せた。そしてケーテの雑嚢の中の医薬品を装甲兵員輸送車のボンネットにぶちまけ、ざっとその半分を麻布の袋に詰め直した。
「メーアカッツ、テンペルホーフ空港までひとっ走りして、そこの軍医にこいつを届けて来い」
「承知しました!」
 メーアカッツSS上等兵のBMWのバイクは、瓦礫や砲弾の穴を巧みに避けて走り去る。
 ペーターは残りの医薬品を元の雑嚢に戻し、ケーテの手に押し付けた。
「負傷兵は最後尾の装甲兵員輸送車の中だ。フロイライン、手当をよろしく頼む」
 そしてペーターは、先頭の偵察戦車の砲塔の上に乗った。
「さあ行くぞ。君もここに乗れよ、記事を書くなら良いネタになるぞ」
 言われてみれば、その通りだ。
『戦車に乗り、記者は異国の友と戦火を越えた』
 記事にもしも見出しをつけるとすれば、そんなところか。
 ペーターの手を借りて戦車によじ登り、砲塔の上に並んで腰を下ろす。それを待っていたかのように、車体を胴震いさせて戦車のエンジンが始動した。
 史生は急いでライカを取り出した。砲塔の上から見た街の様子、後に続くペーターの部下達を乗せた装甲兵員輸送車の隊列。写してみたいものは幾らでもあった。
 ペーターは史生の耳元に口を寄せ、エンジンの轟音に負けぬ大声を上げた。
「なあ、こうしていると、何か昔を思い出さないか?」
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登場人物紹介

 ペーター・ドレシャー……ただ機械が好きなだけの、大人しく心優しい青年。興味があるのはナチスの政治的な主張ではなく、ナチスが作らせた戦車や装甲車。それで戦争が始まると、一兵卒として召集される前に戦車の整備をする技術将校を目指して士官学校に入学する。

 杉村史生……ペーターと同じく、機械が大好き。ベルリン工科大学に留学し、ペーターと親しくなる。第二次世界大戦が始まった為に帰国できなくなり、ベルリンで機械工学の勉強を続ける。そして大戦末期のロシア軍に包囲され陥落寸前のベルリンで、旧友ペーターと再会する。

 ヨーゼフ・ヴェーゲナー……ペーターの従兄でナチスの若きエリート。ナチス思想に心から染まっているわけではなく、第一に考えているのは己の出世。愛想は良いが心は冷たい。だが従弟のペーターのことは彼なりに大切に思っており、親衛隊に誘ったり、ペーターが窮地に陥ると救いの手を差し伸べたりする。しかしその為、ペーターはますます悪の道に堕ちて行くことになる。

 ケーテ・レンスキ……ポーランド国境に近いポメラニアに住む少女。略奪や暴行をしながら進撃するロシア軍の猛攻に追われ、撤退するミュンヘベルク師団と共にベルリンまで逃げる。その間、師団の看護婦の役目を務める。

 ユーリ・アレクサンドロヴィチ・スミルノフ……ロシア軍の大尉で正義感あふれる熱血漢。政治将校だが、ナチとドイツ軍は憎むが、ドイツの民間人は守ろうとする。

 ステパン・グレゴリオヴィチ・フョードロフ……ロシア軍の上級中尉。NKVD(後にKGBとなる国家保安人民委員部)の職員。

 花井孝三郎……表向きは駐独日本大使館の旅券課員だが、実は陸軍中野学校で教育された特務機関員。杉村史生に総統官邸に潜入しヒトラーの動向を探るよう命じる。

 ハンナ・ベルツ……ベルリンに住む少女。父親が反ナチ思想の持ち主で、「ナチスよりロシア軍の方がマシ」と教え込まれている。

 エルナ・ウルマン……ハンナの友達。父親がドイツ軍の将校である為、ロシア軍をとても恐れている。

 アントン・ブリュックラー……SS中尉で強制収容所の副所長。楽をして生きている要領の良い男。ドイツ軍の敗戦を見越し、収容したユダヤ人から略奪した金品を横領している。

 レーナ・フェスマン……強制収容所に収容されているユダヤ人の少女。頭の良い文学少女で、ふとしたことから知り合ったペーターと親しくなる。しかしそれは決して許されない恋だった。

 バウル・リッター……ベルリン郊外で退却しながら戦うドイツ第九軍の少年兵。故郷の東プロシアはロシア軍に占領され、絶望しながら西へと逃げている。

 マックス・シュペート……第九降下猟兵師団の伍長だが、本来は空軍の整備兵。兵力不足で東部戦線に駆り出された際に、ロシア兵の残虐さを目にした為、ロシア兵の捕虜になることを死ぬより恐れている。

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