第5話 一九四二年八月(フランス、ペーター)

文字数 3,315文字

  ドイツ軍の電撃戦が世界を震撼させていた頃、私は文字通り腐っていた。
 陸軍士官学校を卒業すると、私は念願通り修理中隊に配属された。私の真新しい軍服の階級章や制帽の縁には、技術将校である事を示すライトブルーのラインが入っていた。
 だが配属先の部隊に赴任してすぐに、私はひどい幻滅を味わった。
 ドイツ軍では、新人の中で最も優秀な人材を武装親衛隊が取って行き、次に優秀な者は陸軍の戦車部隊と空軍の降下猟兵部隊に引き抜かれる。そしてそれらのエリート部隊に選ばれないお余りが、一般の歩兵師団に配属されるのだ。
 そして私も、そのお余りの一人だった。
 技術者としての能力についてなら、私はかなり自信があった。しかし私は技術将校と言えども軍人であって、有能な技師である以前に屈強な兵士でなければならない現実を見落としていた。
 身長一八〇センチ以上の美丈夫でなければ、武装親衛隊には採用されない。そして国防軍の戦車部隊も、採用基準の一つとして身長一七五センチ以上かつ屈強な身体を要求していた。
 私は一七〇センチあるかないかの小男で、体力的にもタフとは言えなかった。
 その私の配属先は、開戦後に慌ただしく編成された第二九七歩兵師団だった。その三桁の番号でも想像できるように、我が師団は精鋭部隊とはかけ離れた存在で、戦友達と言えば予備役から掻き集められた親父連中と、徴兵されたばかりの少年兵ばかりだった。
 そんな急造の頼りない師団が最前線に投入される筈もなく、あの有名なパリ電撃戦やダンケルクの戦いの際にも、私達はマンシュタイン将軍やロンメル将軍の戦車部隊がすっかり敵を片付けてしまった後を、ただのこのことついて歩いて行っただけだった。その翌年にバルカン半島で新たな作戦が展開され、ロシアへの大進撃が始まっても、私達の師団はフランスに置き捨てにされたままになっていた。
 私達の師団は、軍隊用語で言う《貼りつけ師団》だった。イギリスからの反撃に備えて、大西洋に面したブルターニュ半島の田舎町から動かずにいる。
 私達の師団の役目は、平たく言えばただそこに居るだけだった。
 そんな二線級の師団に戦車などある筈もなく、装甲車すら配備されてなかった。貼りつけ師団は移動する必要もないというわけで、野砲の牽引は馬で、食料や弾薬の補給も殆ど馬車で行われていた。
 技術将校などより、獣医の士官の方が余程も役に立つ。
 そんな陰口さえ囁かれている師団で、私は何をすれば良いというのだ。
 トラックや自動車すらろくに配備されておらず、直す車両と言えば自転車くらいしかなかった。だから私は暇を持て余し、無線機でもラジオでも蓄音機でも置き時計でも腕時計でも、頼まれれば何でも直した。
「おお、ドレシャー少尉か、わざわざ呼び立ててすまんな。実は俺のこのライカなんだが、どうも巻き上げが重くてな」
「お任せください、連隊長どの。すぐに分解して調整します」
「なあペーター、俺の腕時計が止まっちまったんだよ。悪いが、ちょっと見てくれないか」
「いいとも、そこに置いて行ってくれ」
「第四中隊の者ですが、私らの兵舎の蓄音機の音が出なくなってしまいまして。申し訳ないですが、少尉殿にお願いすれば直していただけると聞いたもので……」
「わかった、様子を見に行こう」
 同期の戦友だけでなく、私は部下にも上官にも好かれた。だが誰にも尊敬されず、中隊の兵士らにも甘く見られていた。
 要するに私は、部隊の便利屋といった存在でしかなかったのだ。
 しかし私は構わなかった。なぜなら私は、ものを直すことが好きだったから。鳴らなくなった蓄音機だろうと、歯車の擦り減った古い時計だろうと、自分が解体して修理したものが再び動き出すと私はたまらなく嬉しくなる。

 戦時下とは思えない、穏やかな毎日が続いていた。第六軍のコーカサスへの進撃も、ロンメル将軍率いるアフリカ軍団の大活躍も、私達にはまるで関係なかった。
 私達は地元のフランス人とも上手くやっていた。師団長のフォン・ザウケン中将は昔気質の立派なプロシア軍人で、地元のフランス人にも礼儀正しく接するよう兵士達に厳命し、横暴な振る舞いをする事を許さなかった。そのせいか、肚の内はどうあれ地元民も表面的には愛想良く接してくれ、私達の師団の戦区ではレジスタンス活動も殆ど起きなかった。
 栄誉や勲章とは無縁だったものの、悪い暮らしではなかった。毎日将校クラブで地元の新鮮な食材を使った旨い食事をとり、夜は暖かいベッドでぐっすりと眠った。ロシアやアフリカの最前線の事を思えば、ブルターニュでの日々は天国のようなものだった。
 とは言うものの、私はしばしば焦りや苛立ちに近い気持ちに駆られた。私が技術将校になったのは、少年の日にパレードで見て憧れた戦車や装甲車にこの手で触れ、その整備をするためだ。自転車の整備や時計の修理のような真似ならば、町の修理屋でも出来るではないか。
 フランスの片田舎で、私は生きた螺子回しになりかけていた。起きて食い、螺子を緩めたり絞めたりを幾度となく繰り返し、そしてまた食って寝る。そんな毎日を過ごしていた私は、機械化されていない歩兵師団での勤務に飽き飽きしていた。

 と言っても、別に戦車師団に配属されなかった不満をいつまでも引きずり続けていたわけではない。ただ私は自転車などではなく、少なくともエンジンのついた乗り物に触れたかったのだ。
 だから私は、あの誘いに応じてしまった。でなければ私は、連合軍がノルマンディーに上陸する日まで、大西洋に面したフランスのあの田舎町で螺子を回し続けていただろう。そして今頃は、イギリスのどこかの捕虜収容所で、終戦の日を待っていたかも知れない。無論、上陸して来た連合軍を迎え撃つ戦いで、命を落としていた可能性もあるが。
 しかし一九四二年の夏のある日、師団の修理工廠に予告も無しに現れた黒塗りのベンツが、私のその後の運命を変えてしまった。
 私も含め、修理中隊の者は一斉に作業の手を止めた。そのベンツは総統専用車に比べれば一回り以上小さかったが、私達の師団長の使い込まれグレーの塗料も所々剥げかけている古いシュタイヤーより遥かに立派だった。
 そのベンツのナンバープレートの頭にはSSの文字が書き込まれており、停車すると同時に短機関銃を持った下士官が飛び降り、腰を深く折って後部座席のドアを開けた。
 中からゆっくりと出て来たのは、ゲシュタポの将校だった。長身に黒一色の制服を身にまとい、黒のサングラスもかけている。
 修理工廠に、死に神の訪問でも受けたような重苦しい空気が流れた。そして誰かが、声にならない低い呻き声をあげる。
 逮捕され連行されるのは、いったい誰だ?
 皆は押し黙ったまま、互いの顔を窺い合った。
 ゆっくりとした大股で、ゲシュタポ将校は私たちの方に歩み寄って来た。
「ドレシャー!」
 ゲシュタポの将校は確かにそう叫んだ。
「ここにペーター・ドレシャー少尉はいないか!」
 唐突に、私は自分の周囲が真空になったように感じた。部下も戦友達も、誰も彼も私の側から身を引こうとした。
 何故なのだ! 私にはまるでわからなかった。私はナチ党員でこそなかったが、共産主義者でも社会民主党員でもなかった。数代前まで溯っても、私の家系にユダヤ人の血は混ざっていない。秘密警察に睨まれるような事は、私は何一つしていない。
 何かの間違いだ、濡れ衣だ!
 そう叫びたい気持ちで一杯だったが、驚きと恐ろしさで声が出て来なかった。私は阿呆のように目を丸くして、そのゲシュタポの将校をただ眺めていた。
「居たな、ペーター!」
 ゲシュタポの将校は親しげに名を呼び、私の方に真っすぐに歩いて来た。目深に被られた黒い制帽に輝く銀の髑髏の徴章、肩や襟元のSS大尉の階級章がはっきり見える。
「俺だよ、まだわからないか?」
 ゲシュタポ将校はサングラスを外し、白く輝く歯を見せて笑った。そして両方の腕を大きく広げる。
 中隊の戦友達が呆然と見守る中で、ゲシュタポの大尉と私はしっかりと抱き合い、互いの背を何度も叩き合った。
「ゼップ……ヨーゼフ・ヴェーゲナー、君だったのか!」
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登場人物紹介

 ペーター・ドレシャー……ただ機械が好きなだけの、大人しく心優しい青年。興味があるのはナチスの政治的な主張ではなく、ナチスが作らせた戦車や装甲車。それで戦争が始まると、一兵卒として召集される前に戦車の整備をする技術将校を目指して士官学校に入学する。

 杉村史生……ペーターと同じく、機械が大好き。ベルリン工科大学に留学し、ペーターと親しくなる。第二次世界大戦が始まった為に帰国できなくなり、ベルリンで機械工学の勉強を続ける。そして大戦末期のロシア軍に包囲され陥落寸前のベルリンで、旧友ペーターと再会する。

 ヨーゼフ・ヴェーゲナー……ペーターの従兄でナチスの若きエリート。ナチス思想に心から染まっているわけではなく、第一に考えているのは己の出世。愛想は良いが心は冷たい。だが従弟のペーターのことは彼なりに大切に思っており、親衛隊に誘ったり、ペーターが窮地に陥ると救いの手を差し伸べたりする。しかしその為、ペーターはますます悪の道に堕ちて行くことになる。

 ケーテ・レンスキ……ポーランド国境に近いポメラニアに住む少女。略奪や暴行をしながら進撃するロシア軍の猛攻に追われ、撤退するミュンヘベルク師団と共にベルリンまで逃げる。その間、師団の看護婦の役目を務める。

 ユーリ・アレクサンドロヴィチ・スミルノフ……ロシア軍の大尉で正義感あふれる熱血漢。政治将校だが、ナチとドイツ軍は憎むが、ドイツの民間人は守ろうとする。

 ステパン・グレゴリオヴィチ・フョードロフ……ロシア軍の上級中尉。NKVD(後にKGBとなる国家保安人民委員部)の職員。

 花井孝三郎……表向きは駐独日本大使館の旅券課員だが、実は陸軍中野学校で教育された特務機関員。杉村史生に総統官邸に潜入しヒトラーの動向を探るよう命じる。

 ハンナ・ベルツ……ベルリンに住む少女。父親が反ナチ思想の持ち主で、「ナチスよりロシア軍の方がマシ」と教え込まれている。

 エルナ・ウルマン……ハンナの友達。父親がドイツ軍の将校である為、ロシア軍をとても恐れている。

 アントン・ブリュックラー……SS中尉で強制収容所の副所長。楽をして生きている要領の良い男。ドイツ軍の敗戦を見越し、収容したユダヤ人から略奪した金品を横領している。

 レーナ・フェスマン……強制収容所に収容されているユダヤ人の少女。頭の良い文学少女で、ふとしたことから知り合ったペーターと親しくなる。しかしそれは決して許されない恋だった。

 バウル・リッター……ベルリン郊外で退却しながら戦うドイツ第九軍の少年兵。故郷の東プロシアはロシア軍に占領され、絶望しながら西へと逃げている。

 マックス・シュペート……第九降下猟兵師団の伍長だが、本来は空軍の整備兵。兵力不足で東部戦線に駆り出された際に、ロシア兵の残虐さを目にした為、ロシア兵の捕虜になることを死ぬより恐れている。

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