第20話 一九四四年二月(チェルカッスィ、ペーター)

文字数 1,822文字

 塹壕を埋める雪と泥の中に身を沈めて、私達はじっと夜を待った。
 ロシア軍は雪と一緒にやって来た。SSのヴィーキング師団と共にドイツ第八軍に配備され、ドニエプル川西岸のチェルカッスィ付近で頑張っていた私達は、無数の戦車を擁するロシアの大部隊に包囲されてしまった。
 一刻も早く脱出しなければ全滅してしまう、スターリングラードで力尽きたあの第六軍のように!
 その事は最前線で戦う私達には明白だったが、総司令部の馬鹿どもは例によってこう繰り返すだけだった。
 一歩も引くな、死守しろ!
 そして総司令部がようやく本気で私達を助け出す事を考え始めた頃には、私達は南北両側からロシア軍の戦車部隊に挟撃され、打ちのめされて壊滅寸前に陥っていた。
 私のSS第六六六戦車猟兵中隊も、装備していた車両を全て失い、残る移動手段と言えば現地で徴発した荷馬車があるのみだった。
 悪い事に、友軍の救出作戦が始まった途端に寒気が緩んで雪が溶け、辺りの雪原は泥沼に変わってしまった。その泥に足を取られ、脱出路を外から切り開いてくれる筈の援軍の到着は遅れに遅れ、ロシア軍の包囲を内側から破ろうとする私達の動きもひどく鈍いものになっていた。
 夜になって溶けた雪が凍らなければ、私達は動けなった。だから昼間は塹壕の冷たい泥の中で震えながらじっと耐え、日が落ちてから闇に紛れて逃げた。
 私はその日も夜を待ち、中隊に任された戦区の塹壕を回って部下達を荷馬車に乗せた。敵もそれを察していて、ロシア軍の追撃も始まる。更に退路の各所に敵の伏兵が待ち構えていて、私達の荷馬車に銃を撃って来た。
 時折、荷馬車の上の誰かが撃たれて地面に転げ落ちる。しかし私達は、馬車を止められない。止めれば敵の狙撃兵の格好の的になるだけでなく、追撃して来る敵の戦車やスキー歩兵に追いつかれてしまう。
 だから馬車から落ちたら最後、その戦友は見捨てるしかなかった。
 ロシア軍のスキー歩兵は、敵の戦車以上に厄介だった。音も無く私達に追いすがり、あるいは先回りして銃を撃って来た。落伍した戦友達の多くが、奴らの手にかかって命を落とした。
 背後を振り返り目を凝らすと、亡霊のような白い影が蠢くのが夜の闇の奥に微かに見える。
「いいか、しっかり頭を下げてろよ!」
 部下達に声をかけ、敵のスキー歩兵の影に向け短機関銃を撃つ。
「立派な将校になりましたな、ペーター。昔のあんたを思うと、とても信じられない」
 私の傍らで、シュナウファーSS軍曹が低く笑った。
 うるせえな。
 そう小声で罵り、シュナウファーのヘルメットを軽く小突いてやる。
 将校も兵も関係なく汗を流し手に肉刺を作って塹壕を掘り、同じ飯を食って同じ泥水を啜るうち、私達は本物の戦友になっていた。
「あんたの教育係も、そろそろお役御免ってとこですな」
「シュナウファー、今度はお前を教育してやるよ。スパナとドライバーで一人前の整備兵にな」
「ドライバー? 今、どこに突っ込めばいいんです、馬の尻っスか?」
 周りの兵達が声を上げて笑う。
 その笑い声を的にしたかのように、後方から銃声が響いた。
 う、という唸り声と同時に、私の隣の大きな体が泥混じりの雪の中に転げ落ちた。
「シュナウファー!」
 彼は立ち上がろうとした。片手で腹を抑え、もう一方の手を雪でぬかるむ地面に突いて。
「おい止まれ!」
 私は馬を御している兵に怒鳴った。
 しかしシュナウファーが、後方から声を振り絞って怒鳴り返してきた。
「止めちゃいけません、馬車を止めちゃいけません!」
 シュナウファーは雪と泥の中でもがき、漸く片膝を突いた。
「頑張れ、走って来い!」
 私は荷馬車の一番後ろから精一杯身を乗り出し、手を伸ばした。
 その目の前で、シュナウファーの体は再び泥混じりの雪の中に崩れ落ちた。
「立て、シュナウファー!」
 私は思わず馬車を飛び降りかけ、部下の兵達に背後から抱き止められた。
「駄目です中隊長、死ぬつもりですか!」
 荷馬車とシュナウファーとの距離は次第に開いて行く。
 私達が見守る中、シュナウファーの姿は小さくなって行き、間もなく闇の中に見えなくなった。
 その数秒後、後方でロシア語の罵声と銃声が響いた。
 それが何を意味するか、私は考えたくもなかった。
 しかし闇の向こうで何があったか、私達の誰もがわかっていた。
 私には神の意志が見えない。
 私ではなく、どうしてシュナウファーだったのだ?
 私なら、死んでも構わなかったのに。
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登場人物紹介

 ペーター・ドレシャー……ただ機械が好きなだけの、大人しく心優しい青年。興味があるのはナチスの政治的な主張ではなく、ナチスが作らせた戦車や装甲車。それで戦争が始まると、一兵卒として召集される前に戦車の整備をする技術将校を目指して士官学校に入学する。

 杉村史生……ペーターと同じく、機械が大好き。ベルリン工科大学に留学し、ペーターと親しくなる。第二次世界大戦が始まった為に帰国できなくなり、ベルリンで機械工学の勉強を続ける。そして大戦末期のロシア軍に包囲され陥落寸前のベルリンで、旧友ペーターと再会する。

 ヨーゼフ・ヴェーゲナー……ペーターの従兄でナチスの若きエリート。ナチス思想に心から染まっているわけではなく、第一に考えているのは己の出世。愛想は良いが心は冷たい。だが従弟のペーターのことは彼なりに大切に思っており、親衛隊に誘ったり、ペーターが窮地に陥ると救いの手を差し伸べたりする。しかしその為、ペーターはますます悪の道に堕ちて行くことになる。

 ケーテ・レンスキ……ポーランド国境に近いポメラニアに住む少女。略奪や暴行をしながら進撃するロシア軍の猛攻に追われ、撤退するミュンヘベルク師団と共にベルリンまで逃げる。その間、師団の看護婦の役目を務める。

 ユーリ・アレクサンドロヴィチ・スミルノフ……ロシア軍の大尉で正義感あふれる熱血漢。政治将校だが、ナチとドイツ軍は憎むが、ドイツの民間人は守ろうとする。

 ステパン・グレゴリオヴィチ・フョードロフ……ロシア軍の上級中尉。NKVD(後にKGBとなる国家保安人民委員部)の職員。

 花井孝三郎……表向きは駐独日本大使館の旅券課員だが、実は陸軍中野学校で教育された特務機関員。杉村史生に総統官邸に潜入しヒトラーの動向を探るよう命じる。

 ハンナ・ベルツ……ベルリンに住む少女。父親が反ナチ思想の持ち主で、「ナチスよりロシア軍の方がマシ」と教え込まれている。

 エルナ・ウルマン……ハンナの友達。父親がドイツ軍の将校である為、ロシア軍をとても恐れている。

 アントン・ブリュックラー……SS中尉で強制収容所の副所長。楽をして生きている要領の良い男。ドイツ軍の敗戦を見越し、収容したユダヤ人から略奪した金品を横領している。

 レーナ・フェスマン……強制収容所に収容されているユダヤ人の少女。頭の良い文学少女で、ふとしたことから知り合ったペーターと親しくなる。しかしそれは決して許されない恋だった。

 バウル・リッター……ベルリン郊外で退却しながら戦うドイツ第九軍の少年兵。故郷の東プロシアはロシア軍に占領され、絶望しながら西へと逃げている。

 マックス・シュペート……第九降下猟兵師団の伍長だが、本来は空軍の整備兵。兵力不足で東部戦線に駆り出された際に、ロシア兵の残虐さを目にした為、ロシア兵の捕虜になることを死ぬより恐れている。

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