第4話 一九四五年四月二十六日(ベルリン)
文字数 5,798文字
「で、君は今も思ってるのかい? ヒトラーとナチ党に国を任せたのは間違いではなかった……と」
問われたペーターは、唇の端を曲げて皮肉な笑みを浮かべた。
「なあ、君はこんな小咄を聞いた事があるか?」
ある小学校の社会科の授業で、教師が生徒らに質問した。
「私たちドイツ国民の父は誰ですか?」
「偉大なる指導者アドルフ・ヒトラーでーす」
「では、私たちの母は誰ですか?」
「ナチ党でーす」
「大変よく出来ました。さて、皆さんは何になりたいですか?」
「みなしごでーす」
史生は困った。
隣に居るこの男はいったい何者なのか、それがよくわからない。今も史生の知る心優しい友なのか、それとも情け知らずの狂信的なナチ親衛隊員になり切ってしまったのか。
その判断がつかないから小咄も笑うに笑えず、曖昧な表情で当たり障りのない事しか言えなかった。
「意外だな、君が小咄をするとは思わなかったよ」
「戦地ではクソみたいな事しかないからな。何でもジョークにして笑い飛ばすくらいでないと、とても神経が保たないのさ」
ペーターの左の頬にくっきりと残る傷痕は、かつては無かったものだ。そして軍服の下には、もっと多くの傷があるのだろう。左胸に光る銀色の戦傷章が、その事実を示している。
「……変わったよな、ペーター」
「そうか?」
「うん、変わった。助けてくれた時も、君だとすぐにはわからなかった」
そしてそれは、ペーターがただSSの制服を身につけているからではない。史生はそんな気がしてならなかった。一緒に昔の思い出話をしていても、史生にはペーターが人として根幹の部分から変わってしまったように感じられた。
ペーターは昔から、実際の年齢より幼く見えた。それは今も変わらず、まだ二十歳前の少年のように見えたが、ふとした瞬間には八十に近い老人のようにも見えた。
「……だろうな、変わって当然だ」
ペーターは長い長い息を吐いた。
「僕のこの手はな、爪の間まで血で汚れているのさ。どれだけ洗っても、絶対に落ちやしない」
「戦争だもの、敵を殺すのは仕方ないだろ」
史生のありきたりな言葉に、ペーターは首を強く振った。
「君にはわからないんだ。ゲシュタポや強制収用所の髑髏部隊に配属されてみろ、後は悪魔に魂を売り渡して生きるしかないんだ」
その口調の苦しげな響きに胸を突かれて言葉を失う史生から目をそらし、ペーターは呻くような声で続けた。
「そうだよ、僕は働いていたんだよ。ゲシュタポや強制収用所でな」
エルナ・ウルマンがその災難に遭ったのは、ハンナ・ベルツに会おうと思い立ったからだった。
ハンナの家には、エルナの家から急いで歩いて行けば十分もあれば着く。それにこの一時間は空襲警報も鳴らずにいるし、時々響く銃声もまだ遠い。
大丈夫、行ける。
エルナはそう思った。
しかし彼女は、ハンナの家に着けなかった。
エルナの行く手を阻んだのは空襲でも砲撃でもなかった。何気なく通り過ぎたビルの中からロシア兵の一団がわらわらと出て来て、毛むくじゃらの手を伸ばし、怯えて竦んでいる彼女を捕らえた。
ロシア兵らはエルナを引きずり、出て来たばかりのビルの中に戻った。そして手近なドアを蹴り破って室内に入り、彼女の体を軽々とベッドの上に放り投げた。
避ける間もなく、重たい体がのしかかって来る。
ロシア兵どもは息も体も臭かった。無数の太い指がエルナの体をまさぐる。悲鳴を上げ、助けを求めても、誰も来てはくれなかった。
この部屋の住人は逃げたのか、それとも殺されてしまったのか。略奪の跡は明らかで、戸棚や引き出しはすべて開けられ、中身は床にぶちまけられて散乱している。
あわやという瞬間に鞭のような鋭い声が響き、エルナにのしかかっていたロシア兵の動きが止まった。振り返ったそのロシア兵たちの目に、恐怖の色が浮かぶ。
背の高いロシア将校が拳銃を片手に、戸口で仁王立ちになっていた。その将校がロシア語で何事か怒鳴りつけると、ロシア兵どもは先を争って外へ飛び出して行った。
救われた、とはエルナは思わなかった。自分を手に入れようとする相手が、兵隊からただその将校に変わっただけの事ではないか。
そのロシア将校はまだ若く、何もかも針のように尖っていた。痩せ形で細面で、制帽の下の目は刺すように鋭く、鼻は細く高く、薄い唇は真一文字に結ばれている。美男子と言えなくもないが、甘さはひとかけらもない。
半裸でベッドに横たわるエルナに、ロシア将校が近づいて来た。次に起こるであろうことを予想して、エルナは体を縮めて身震いした。
しかしそのロシア将校は彼女に手は出さず、ひどい訛りの、お世辞にもうまいとは言えないドイツ語で話しかけてきた。
「済まない。民間人、乱暴してはいけない。兵達に、何度も教えているのだが。本当に済まなかった。ロシア軍人として、恥ずかしい、そう思います」
エルナは身動きもせず、ロシア将校の顔をただ見つめた。何がどうなっているのか、彼女にもまだよく飲み込めなかった。
ロシア将校は、胸のポケットから一枚の写真を出した。常に持ち歩いては見ているのだろう、その写真は端が曲がり折れ目もついていた。
「僕、ユーリ・スミルノフ。これ、僕の家族。妹、います。年、きっと君と同じくらい。ロシア人、悪い人間ばかりと違う。良い人間、大勢います」
ステパン・フョードロフ上級中尉は、軍団司令部でチェルネツォフ大佐の前に立っていた。丸顔で髪は薄くなり腹も出かけていて、田舎の農夫といった風貌だが、チェルネツォフ大佐もまたNKVD将校で、フョードロフの上司でもあった。
「同志大佐、《ヒバリ》の所在を確認しました」
「ほう」
机に山積みされた書類に目を通しながら報告を聞いていたチェルネツォフ大佐が、初めて顔を上げた。
「そうか、《ヒバリ》は生きていたか。あれは優秀な諜報員だ、まだ死なれては困る。で、今はどうしている?」
「ベルリン市内の敵陣に潜り込んだようです。……ですが同志大佐、《ヒバリ》を信頼して良いものでしょうか?」
「何故だね?」
「民族の面から言えば、《ヒバリ》は敵性国民ですから」
「民族か、まるでナチのようなことを言う」
チェルネツォフ大佐は声をあげて笑った。
「同志フョードロフ、懸念もわかるが《ヒバリ》は立派な共産党員だ。俺は心から信頼している」
「は、よくわかりました」
「とにかく《ヒバリ》が何か報告して来たら、真っ先に俺の所に報告を上げるのだ。いいな?」
「伏せろッ、頭を上げるな!」
殆ど突き飛ばすような勢いで、史生は戦車の砲塔の後ろに体を押し下げられた。
目を丸くしなされるがままになっている史生はそのままに、ペーターは手を振って後続の装甲兵員輸送車に矢継ぎ早に指示を出す。
「イワンどもがお出ましだ、散開しろッ。シュプリューゲ、君は右に回れ、ディックマンは左だ、残りは私に続け!」
戦車の機関砲が腹の底に響く音をたてて火を吹き、後続の装甲兵員輸送車の機銃もスタッカートのような合いの手を入れる。通りの向こうに陣取るロシア兵も激しく応射して来るが、彼らの短機関銃の弾はことごとく戦車の装甲板に跳ね返された。
時々、鞭で打つような鋭い音が聞こえる。すぐ近くの空気を切り裂いて飛んで行く、敵の銃弾の音だ。
史生にしてみれば、これが初めて体験する戦場だった。隣のペーターは砲塔の上に身を乗り出して短機関銃を撃っているが、史生は胎児のようにただ体を縮めていた。
「しっかり掴まれ!」
ペーターの怒鳴り声に、史生は砲塔後部の工具箱にしがみついた。殆どそれと同時に戦車は激しく突き上げられ、そしてまた地べたに叩きつけられた。ロシア兵らが陣取っていた瓦礫のバリケードを、キャタピラで乗り越えたのだ。
「よし、蹂躙!」
戦車は逃げて行くロシア兵達の上にのしかかる。史生は思わず目を固く閉じたが、キャタピラに圧し潰されるロシア兵の絶叫は脳の奥にまで突き刺さった。
後続の装甲兵員輸送車も機銃で、キャタピラで、逃げるロシア兵をなぎ倒した。その装甲兵員輸送車から飛び降りたSSの兵士らは、生き残りの敵兵を次々に片付けた。
ペーターは顔色一つ変えずに、隣の史生の肩を叩いた。
「見たか。これが戦争ってやつだ」
ドイツ第九軍に属するパウル・リッターもまた、戦争の現実を嫌と言うほど味わっていた。
地べたにぐったりと寝転んでいるパウルの耳に、砲声が続けざまに聞こえた。どちら側の砲撃だろうかなどと、考えるまでもなかった。ドイツ第九軍は数日間続いたゼーロウ高地をめぐる激戦で、重火器のすべてを失ってしまっていたからだ。
ロシア軍の大砲の狙いはまだ外れてはいるものの、着弾地点はそう遠くはなかった。炸裂音が響く度に大地が揺らぎ、パウルの背中に地震に似た振動が伝わってきた。しかし彼は身動きすらしなかったし、辺りの様子を確かめてみる気にもなれなかった。
国防軍第二三戦車擲弾兵師団のパウル・リッター二等兵は、そのまま土に溶けてしまいそうなほど疲れていた。
ベルリン攻略を目指すロシア軍の総攻撃を、ドイツ第九軍は真正面から受け止めた。地形を変えてしまうほど猛烈な砲撃と、何百台もの戦車による突撃。三日間の激闘で、オーデル川西岸の防衛線を守っていたドイツ第九軍は殆ど壊滅に近い状態に陥った。そしてその後は、ぞっとするような退却戦が始まった。
パウルら第九軍の敗残兵には、まだ何万もの避難民を守る義務があった。ドイツの女や子供達をロシア兵から守る為に踏み止まっては戦い、そして退いてまた戦う。その為に多くのドイツ兵が命を落とした。
この数日間、パウルは殆ど眠っていなかった。ロシア軍の戦闘攻撃機と戦車が戦場を支配する昼間は森の中に隠れ、夜を待ちロシア軍の陣地と陣地の間をすり抜けて行く。
パウルはただ眠りたかった。今ここに敵の砲弾が落ちて来て死ぬ事になったとしても、それはそれでかまわない。そんな気持ちになりかけてしまうほど、彼は疲れ切っていた。
「起きろ、小僧」
肩を蹴られて、嫌々目を開ける。パウルは瞼を持ち上げる事さえだるかった。
パウルの目にまず泥だらけのブーツが、そして小隊長の仏頂面が飛び込んで来た。小隊長のゼンガー軍曹は四十を越えている筈で、年齢は親子ほども違う。
なのに、何故こんなに元気なのだろう。地べたに寝転んだまま、パウルはぼんやりと思った。スターリングラードの生き残りは、やはり人間の造りが違うのだろうか。
「立てッ、リッター!」
軍曹の苛立った声に、パウルは急いで立ち上がった。
彼自身はそのつもりだったが、実際にはコマ送りの映画のようにのろのろとした動きだった。
どうしようもねえ餓鬼だ。ゼンガー軍曹は心の中で舌打ちをした。この小僧はたった半年前に招集されたばかりで、まだ十八歳にもなっていない筈だ。ちびで痩せっぽちで、軍服は体に合わずぶかぶかだ。ヘルメットの端からは赤い巻き毛がはみ出していて、頬にはそばかすが残っている。
何故、こんな子供まで戦わせなければならないのだ?
軍曹の怒りと苛立ちは、すぐに悲しみとやり切れなさに変わった。ゼンガーの息子もまた、どこぞの戦線で同じように戦わされている筈だ。
叱りつけるというより、出来の悪い息子を諭すような口調でゼンガーは続けた。
「疲れているのはわかる。だが、イワン(ロシア兵)どもは待ってはくれんぞ。死にたくなかったら、さあ出発だ」
ゼンガー軍曹はパウルに背を向け、他の部下を探しに行きかけた。しかし足を止めてまた引き返し、ポケットの中を探ってマホルカを一本抜き出した。分捕り品のロシア煙草だ。それをパウルの口にねじ込む。
「なあパウル、お前も故郷には親兄弟がいるだろ? 生きて家族に会いたければ、しゃきっと立って頑張って歩け」
ゼンガー自身もマホルカを咥えると、小隊の他の戦友達を起こして回った。
元々はホフマン少尉がこの小隊の指揮官だった。しかし少尉はゼーロウ高地で戦死し、他の下士官もみな死ぬか行方不明になるかして、生き残ったのはゼンガーだけだった。それで彼に小隊長の役割が回って来たのだが、指揮すべき兵も十人ほどしかいない。
眠りこけている戦友達の肩を軽く蹴る。そうでもしないことには、誰も起きようとしないのだ。
「立て、イワンどもがやって来るぞ!」
呪いの唸り声をあげつつ、小隊の兵らはのろのろと立ち上がった。
ペーターとその部下達も次の戦いの準備をしていた。戦闘団を幾つもの小部隊に分け、通りの両側のビルに潜ませておく。そして前方の各方面には、偵察兵も放っておいた。
「ペーター、ロシア兵はまた来るのか?」
「間違いなく。次は戦車が来るかも知れない」
史生はこの部隊にたった一両しかない戦車に目をやった。その《ルックス》は戦車とは名ばかりで、駆動方式こそキャタピラだが、大きさは乗用車と大して変わらず、武装も大砲ではなく機関砲だ。
史生の視線に気付いて、ペーターは薄く笑い鼻を鳴らした。
「無理だね。こいつじゃ、ロシアの戦車にはとても歯が立たない」
ドイツ軍は、戦車に猫科の猛獣の名をつけることが多い。敵に恐れられている無敵の重戦車ティーガーは《虎》、実戦ではそれに負けない力を発揮する新鋭中戦車パンターは《豹》という具合に。そしてペーターの小さな偵察戦車ルックスは《山猫》だ。
上手く名付けたものだと、ペーターはいつも皮肉に思っていた。ティーガー重戦車やパンター中戦車に比べれば、この偵察戦車ルックスは確かに猫並みの強さだろう。
「なら、敵の戦車が来たらどうする?」
「ま、やれるだけやってみるさ」
ペーターはルックスのフェンダーにもたれて煙草を咥え、他人事のように言い捨てた。何か考えがあるのか、それとも敗戦を目の前にして投げやりになっているのか、その心中は史生には読み取れない。しかし幾つもの勲章を無造作にぶら下げた、擦り切れてよれよれになった武装SSの制服姿でふてぶてしく構える姿が、不思議なほど様になっていた。
「なあペーター、何でSSに入ったんだい? 確か君は、国防軍に入隊した筈じゃなかったのか」
旧い友に問われて、ペーターは逸らした目を宙にさ迷わせた。