第14話 一九四三年夏(フライシュタット強制収用所、ペーター)

文字数 7,588文字

 レーナの十八回目の誕生日の日に、私は宿舎を出がけに机の引き出しにゴディバのチョコレートを入れておいた。私らしくもなくコネや伝手を頼る事までして、この日の為に手に入れておいたものだ。
「誕生日には、きっと何か良い事があるから」
 前の日に、私はレーナにそう言っておいた。
「掃除に来たら、机の一番上の引き出しを見てごらん」
 レーナは曖昧な笑顔を作った。
「レーナ?」
「ごめんなさい。誕生日をお祝いする事なんて、もう何年も無かったものだから……」
 そしてゆっくりと、レーナの顔に笑みが広がっていった。
 しかしそれがまさかあのような結果を招いてしまうとは、私には想像すら出来なかった。
 レーナを部屋に残して所内を巡視していると、不意に非常呼集のベルが鳴った。急いで収容所の広場に駆けつけると、重い足取りで集まった囚人達の前に、オステルマン所長とブリュックラー、それに警備隊長のユンガーSS中尉が仁王立ちになっていた。
 所長とその部下のSS将校達に取り囲まれて、レーナが小さな体を更に縮めて立っていた。殴られたのか、頬が腫れて口元には血が滲んでいる。
 オステルマン所長の手にはあのチョコレートがあり、所長はそれとレーナの顔を交互に見比べていた。
 まずい。私の心臓は縮み上がり、膝が細かく震えた。
「これはどうした?」
 俯いて黙っているレーナの頬に、所長の平手打ちが飛んだ。
「答えろ!」
「これは……」
 レーナはそこで、言いかけた後の言葉を飲み込んだ。
 あの隊長さまが下さいました。もしも彼女が私を指してそう言ってしまえば、私は終わりだ。ユダヤ人の女囚と親密な関係を持つ事は、強制収容所の幹部としてあるまじき重大な規律違反だ。
「お前はこれを、SS将校の宿舎から盗み出した。そうだな、え?」
 オステルマン所長の怒声が辺りの空気を震わせた。
 私とレーナの視線が絡み合う。
 そしてそのまま、彼女は囁くような小声で答えた。
「はい、その通りです」
「ドレシャーSS少尉!」
「何でしょう」
 怯えて声を震わす私に、所長は蔑みの目を向けた。
「この盗っ人を射殺しろ。ここで、今すぐにだ」
 そして逡巡する私を凝視し、所長は重ねて言った。
「命令だ、SS少尉」
 ブリュックラーがさりげなく所長の背後に回り、何度も目配せを送って来る。
 その意味は私にもわかる。もしまた命令を拒んだら、今度こそ私の命は無くなるのだ。
 震える手でホルスターから拳銃を引き抜き、機械仕掛けの人形のような足取りでレーナに近付く。
 レーナの顔は蝋のように白かった。大きく見開かれた黒い瞳は闇に閉ざされた夜に似た深い色を湛え、どんな感情も読み取れない。その瞳の中に、私は飲み込まれてしまいそうだった。
 様々な情景の断片が私の頭の中を駆け巡った。がなりたてる口、私に向け狙いを定める銃口の列、暗く冷たい独房、穴の中に折り重なる死体。辺りの物音も所長の声も遥か遠くの微かなざわめきにしか聞こえず、目の前の光景も霧の向こうのぼやけたようなものにしか映らなかった。
 何かが破裂したようなような鋭い音に、不意に我に返った。
 レーナが私の足元に倒れていた。その頭から流れ出す大量の血を、黒い土が飲むように吸い込んで行く。手の中のルガーの銃口から立ち上る微かな青い煙を、私はどうにも信じられない気持ちで眺めた。
「よくやった、ドレシャーSS少尉」
 オステルマン所長が大きく頷いた。
 ブリュックラーが側に寄って来て私の肩に手を置き、耳元で囁いた。
「宿舎に戻って休め。シャワーでも浴びて着替えるんだ」
 言われてようやく気がついた。レーナの頭から吹き出した血は、私の制服もべっとり濡らし、襟元から胸の辺りにかけて大きな赤黒い染みを作っていた。

 服についた血は洗い流す事ができる。
 しかし犯した罪は、決して洗い流される事は無い。
 シャワーを浴びて着替えた後、私はノックアウトされたボクサーのように椅子にへたり込んだ。
 私は助かったのだ。私は所長の前でSS将校らしく非情に徹して振る舞い、どんな命令でも遂行できることを示せた。なのに安堵の思いは少しもわかず、私は暗い闇へと続く坂を転がり落ちて行くような思いに押し潰されていた。
「人を殺せる奴の気が知れないよ。戦争で敵の兵隊を撃つならともかく、女や子供を殺すような奴は人間じゃないね」
 昔の私であれば、ためらいなくそう言い切ったと思う。しかしいざとなると、私は……。
 机の上には、あの拳銃が放り出してある。
 何故あのような真似が出来たのか、どうにも信じられない。私自身、私という人間が理解できなかった。
 私はルガーを手に取った。その銃口はまだ微かに硝煙の臭いを漂わせており、まるで私を誘っているかのようだった。
 ひと思いにやってしまえ、そうすれば楽になれる。
 その誘惑は強烈で、私はルガーの銃口を自分の頭に向けた。

 ノックの音に顔を上げると、ブリュックラーSS中尉が戸口から覗き込んでいた。
「おいおい、何をしてるかと思えば……」
 ブリュックラーの視線は私の手元に向けられている。
 あのルガーが机の上でばらばらに解体されていた。銃身はブラシをかけて拭われ、それぞれの部品にはオイルも薄く塗布されていた。
 私は自分の頭を撃ち抜く代わりに、無意識にレーナを殺した拳銃の分解掃除をしていた。そしてその作業は、見事なまでに完璧だった。
 そうなのだ、私はそういう人間なのだ。
 私は弱い人間だ。それはよくわかっている。しかし自分を悪者だと思った事は無かったし、良心もちゃんと持ち合わせているつもりでいた。だが現実には、私という奴は……。
 部屋に入ると、ブリュックラーはドアを後ろ手に閉めた。
「こいつを一杯やれよ」
 私の机の上に火酒(シュナップス)の瓶を置いた。
「初めてだったんだってな、人を撃ったのは」
 私は黙って頷く。
「落ち込むのはわかる、でもくよくよするな、お前はただやるべき事をやったんだ」
 そうだろうか。あれが本当にやるべき事だったのだろうか。
「ペーター、良い事を教えてやろう。あの小娘を死なせたのは、何と同じ仲間のユダ公なのさ」
「それは、どういう……」
「ここだけの話、あの小娘はユダ公にしては良い奴だったようだな。お前から貰ってた薬や食い物は、周りの奴らに惜しまず分けてやってたようだ」
 知っている。親しい誰かが困っている時でなければ、レーナは私に頼み事をしなかった。
「冷たいようだが、お前から何か物を貰ったら、内緒に独り占めにしておけば良かったのさ。だがあの小娘は、そうはしなかった。すると当然、噂になる。あの女はSS将校のお気に入りで、何でも欲しい物を貰ってる……ってな。すると砂糖に蟻が群がるように、いろんな奴らが小娘を取り巻いて、何かしら頼み事をするわけだ。だがあの小娘も、周りの奴ら全部を満足させてやれる程、お前から物を貰えるわけじゃない。当然、小娘からおこぼれを貰えた奴と、貰えなかった奴が出てくる」
 ブリュックラーは私の目の奥を覗き込んだ。
「なあペーター、人の気持ちの中で何が一番怖いか、お前はわかるか? 怒りでも憎しみでもないぞ、妬みだ。あの小娘から何も貰えなかった奴は、小娘を妬んだ。冷静に考えれば、あの小娘から何か物を貰う権利のある奴など居やしない。だが、そんな事は関係ないというわけだ。で、あるユダ公の囚人が、お畏れながら……と所長に密告したのさ。あの若い女囚はSS将校をたぶらかして甘い汁を吸っています、とな。そんな話を聞かされれば、所長としてもどうにかせざるを得ない。あの小娘には気の毒だったが、ああでもしなければお前を庇えなかったんだよ」
 なるほど、あれもすべてわかった上で仕組まれた茶番だったというわけか。
「これでお前にも、ユダ公どもの本性がわかっただろう? いざとなれば仲間だって売り飛ばす、虱みたいな奴らなのさ。それに強制収用所に連れて来られた奴らは、どうせ二度と生きて出られやしないのだ。お前が気に入っていたあの小娘だって、いずれは殺される運命だったんだ。死ぬ前に良い目を見られた分だけ、他の囚人どもより幸せだったのさ。だからそう気に病むなって」
「アントン」
 私は出来るだけ声に感情が籠もらないよう気をつけて言った。
「どの糞ったれがレーナを売ったのか、教えてくれないか?」
「おいおい」
 ブリュックラーは両手を胸の前に上げた。
「あの小娘の借りを返そう、ってのか? 止めとけ、せっかく丸く収まったんだ。これ以上面倒を起こしてくれるなよ」
 飲んで忘れちまうのが一番さ。そう言うと、ブリュックラーはグラスにシュナップスをたっぷりと注いだ。
 その晩、私とブリュックラーはとことん飲んだ。ブリュックラーSS中尉は最後まで付き合ってくれただけでなく、机に突っ伏した私をベッドに運んでくれさえした。
「これは暫く預かっておくぞ」
 部屋を出て行く前に、ブリュックラーは分解されたままの私のルガーの部品の中から、撃針を取ってポケットに入れた。
 本当は、私にもよくわかっていた。レーナを密告した奴はただ殺すだけでは飽き足らないほど憎い。しかし一番悪い奴は、間違いなくこの私自身なのだ。撃ち殺すべき薄汚い卑怯者は、このペーター・ドレシャーなのだ。
 だがもしブリュックラーに拳銃の撃針を取り上げられなかったら、私は自分で自分の頭を撃ち抜く事が出来ただろうか。その事については今もよく考えるのだが、正直に言ってまるで自信がない。

 私の危機は去った。とは言うものの、その後の私は砂漠を一人でさ迷うはぐれ者も同然だった。
 私は囚人達の目の前でレーナを射殺した。囚人達に対しては見せしめ、そして私に対しては戒めの意味を込めて、オステルマン所長がそうさせたのだ。
 私は自分の愛する者さえ殺した。
「やはりあの男も、他のナチと同じ冷酷非情な奴だったのだ」
 囚人達は誰もがそう思った。私とレーナの関係を知っていた者達は、なおのこと……。
 私が所内を巡回すると、囚人達はみな顔をそむけ、以前のように親しげな視線を向けて来る者は誰もいなくなった。
 私は再び幽霊に戻った。自分からは何もしない。ただ命じられるまま、新しく送り込まれて来た囚人達を駅まで引き取りに行き、そして増え過ぎた分をガス室に送る。
 私は死なずにいたが、生きているとも言えなかった。
 私は次第にわかってきた。あの時に私が殺したのは、レーナだけではなかった。
 愛を。笑いを。そして人としての心を。
 私はそれらをすべて、レーナと一緒に殺してしまったのだ。

 戦争は、ドイツにとってかなり酷い状況になっていた。
 その事は、戦線の遥か後方の私達にもわかった。強制収用所の看守らの中からも、若く屈強な者は次々に引き抜かれて前線に送られて行った。そしてその代わりにやって来たのは、中年の予備役兵や、負傷して前線勤務が出来なくなってしまった者ばかりだった。
 そのせいか、強制収用所の雰囲気が僅かに変わった。彼らは命令で赴任させられて来たごく普通の人間で、狂信的なナチや粗暴な犯罪者とは違っていた。彼らもまた私と同じで強制収用所での仕事を忌み嫌い、日頃はただ銃を持って所内をぶらつくだけで、命じられた最少限の仕事しかしなかった。
 彼らは、私と同じ臭いがした。
 そして彼らもその事に気付いたのだろう、私と彼らは次第に妙な親近感を抱き合うようになった。
 その中にザールフェルトSS伍長がいた。ロシア戦線で負傷して足が不自由になった彼は、それを口実に囚人達が働いている作業場の隅に座り込んでただ煙草をふかしている事が多かった。彼はそんな姿を私に見られても、立ち上がりも敬礼もせず、そのくせ妙に人懐っこい笑みを浮かべて右の膝をぽんと叩いて見せた。
「こいつのせいで、こんな所に来る羽目になっちまったんですがね」
 胸に幾つも勲章をぶら下げたザールフェルトSS伍長は、ハリコフ攻防戦の最中に、ロシア兵の放った一弾に右膝を砕かれた。後送されて軍の病院で治療を受け、退院できるまでには回復したものの、前線に戻るのはまだ無理だった。だが、この国家の非常時にただ遊ばせておくのも勿体ないという事で、ここで働くよう命じられたのだと言う。
「前線に比べれば、ここはもう天国みたいなものだと思いましたね、最初のうちは。でも、もううんざりですよ。膝の具合がもう少し良くなったら、俺はさっさと戦友達のいる原隊に戻るつもりです」
 前線で戦う事を志願して強制収用所を離れる事は、実は私も本気で考えた。しかし私の転属願いは、何度提出しても却下され続けていた。
 悪いな、上の方が許可してくれないんだ。その度に、ブリュックラーはそう説明した。
 しかし私にはわかっていた。私の転属願いを握り潰していたのは、彼自身だったのだ。強制収用所の庶務や人事の実権は、収容所の事務長を兼ねる副所長のブリュックラーが握っている。そして彼の背後には、もちろんヨーゼフ・ヴェーゲナーがいた。その頃ゼップは、ヒムラーSS長官の幕僚としてSS中佐に進級していた。
「ここを出て行くのは大変じゃないのか? 手続きとか上官への根回しとか、いろいろ……」
「なあに、簡単ですよ。許可なんか要りません、最前線に出る覚悟さえあれば十分です」
 ザールフェルトSS伍長はにやりと笑い、短くなった煙草を作業場の床に投げ捨てた。すかさず私は、新しい煙草を彼に差し出す。
「その話、詳しく聞かせてもらえるかな」

 どこの強制収用所も、みな鉄道路線の近くにある。囚人達を送り込むにも、所内の工場で作らせた製品を送り出すにも、鉄道は欠かせないからだ。
 ザールフェルトSS伍長と話した日から、私は非番になる度に最寄りの駅に行き、時間の許す限りホームに座っていた。
 私が待っていたのは、武装親衛隊の輸送列車だった。
「いいですか、前線に向かうSSの列車が駅に着いたら、そのままそいつに乗り込んじまえば良いんです。この部隊に志願する、と言ってね」
 ザールフェルトからその話を聞いた時、私は開いた口が塞がらなかった。
「本当にそれだけで良いのか? 騒ぎや悶着は起こらないのか?」
「大丈夫です、列車はその部隊の管轄ですから。例えここの所長であろうとも、列車の中には手を出せません。それに前線では、一人でも多くの兵隊が欲しい時なんです。前線に自分から志願するような奇特な人間を追い出すような真似なんか、絶対しませんよ」
 呆れるほど単純な話だったが、それだけに説得力もあった。それで私は、その話に賭けてみることにしたのだ。
 ただ前線に向かう輸送列車は、定期列車とは違う。いつやって来るか全くわからないから、私は始終駅に通い詰めなければならなかった。
 籖に当たるのを待つような日々が続き、季節が夏から秋に変わる頃、その列車はやって来た。客車の外側には、SSの文字や部隊名や激励の言葉がペンキで書き殴ってある。
 私はまだ動いているその列車のドアを引き開け、中に乗り込んで大声を上げた。
「頼む、一緒に連れて行ってくれ!」
 戦友同士が喋り合っていた車内は一瞬静まりかえり、そしてげらげら笑う声が波のように広まった。
 その車両は下士官兵の車両だった。彼らは皆よれよれの軍服を着ていて、汗臭かった。
 やがて一人の下士官が座席から立ち上がった。金髪で背が高く胸板も厚いそのSS軍曹は、通路を歩み寄って来て、私の前に壁のように立ちはだかった。一級鉄十字章や歩兵突撃章など、いろいろな勲章が私の目に近い高さにぶら下がっている。
 まるで二階から見下ろすような感じで、そのSS軍曹は私の頭から下までをじろじろと見回した。そしてわざとらしい溜め息を漏らし、こいつは駄目だとでも言わんばかりに首を振った。
「もう止せよ、シュナウファー。相手は将校さんだ、そう苛めるなって」
 別の下士官が笑いながら言う。
「わかった、わかった。おい、誰か大隊長を呼んで来いや」
 一方、駅でも騒ぎが広まっていた。私が列車に乗り込むのを見た駅の警備兵がそれを駅番将校に報告し、駅番将校は大慌てで強制収用所に電話をかけた。
 その間に、別の車両から呼ばれて将校が二人やって来た。その将校達の軍服もまた汚く擦り切れていて、しかしその胸には数多くの勲章が飾られていた。移動中のこの部隊の指揮官らしいSS少佐の襟元には、騎士鉄十字勲章が輝いている。
「我が隊に志願したいと言うのは、君か?」
 問いかけながら、SS少佐もまた私をじろじろと見回し、あからさまに感心しないと言いたげに首を振った。
 私の軍服は清潔でプレスも効いていて、ブーツも泥ひとつなく磨き上げられて光っており、将校制帽は綺麗に尖ってピンと張っている。しかしその小奇麗な軍服には、最低位の勲章すら付けられていなかった。
「志願するなら歓迎する。だが本当に良いのか、前線は厳しいぞ?」
「構いません、私は死ぬ気で戦う覚悟です!」
「ま、良いだろう。好きにしろ。俺が大隊長で、こいつが俺の副官だ」
 言いながら、SS少佐は背後に控えるもう一人の将校を手で示した。
「宜しくお願いします」
「ところで、君、実戦経験は?」
「ありません」
 大隊長の目が大きく見開かれた。
「何、本当に前線に出たことが無いのか? ただの一度もか?」
「その通りです」
 大隊長は振り向いて、後陣の古狐というやつだなと言い、彼の副官は志願しようという気があるだけましじゃないですかと答えた。
「シュナウファー!」
 大隊長に呼ばれて、例のフランケンシュタインのような大男のSS軍曹が近づいて来る。
「シュナウファー、お前がこのSS少尉の教育係だ。いいな」
 SS軍曹はあからさまに渋い顔を見せ、周りの兵士達の間から笑い声が起きた。
 その時、駅に軍用のシュタイアーが横付けにされ、髑髏部隊の将校に率いられた数人の兵がホームに駆け込んで来た。
「ペーター、馬鹿な真似は止めろ、戻って来い!」
 ブリュックラーだった。彼は私の姿を認めると列車のドアを引き開けて入って来かけたが、客車に乗り合わせていた大隊の兵らに銃を突きつけられてホームに追い返された。
「中は俺らの管轄だ、出て行って貰おう」
 凄みの効いた声で言いながら、大隊長のSS少佐が立ちはだかる。
「上層部に報告して、抗議を申し入れますぞ!」
「どうぞご自由に」
 大隊長の返事に合わせて、兵達が声を上げて笑った。
 列車がゆっくりと動き出した。顔を紅潮させたブリュックラーの背後には短機関銃を抱えたヴィルケSS軍曹がいて、彼は初めて私に敬意を込めた目を向けた。
「後悔するぞ、この馬鹿野郎!」
 ブリュックラーは列車の外から大声で怒鳴り、拳を振り回して喚いた。彼が怒りを露にするのを、私は初めて見た。
 しかし私は後悔などしなかった。本当に、ただの一度も。
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登場人物紹介

 ペーター・ドレシャー……ただ機械が好きなだけの、大人しく心優しい青年。興味があるのはナチスの政治的な主張ではなく、ナチスが作らせた戦車や装甲車。それで戦争が始まると、一兵卒として召集される前に戦車の整備をする技術将校を目指して士官学校に入学する。

 杉村史生……ペーターと同じく、機械が大好き。ベルリン工科大学に留学し、ペーターと親しくなる。第二次世界大戦が始まった為に帰国できなくなり、ベルリンで機械工学の勉強を続ける。そして大戦末期のロシア軍に包囲され陥落寸前のベルリンで、旧友ペーターと再会する。

 ヨーゼフ・ヴェーゲナー……ペーターの従兄でナチスの若きエリート。ナチス思想に心から染まっているわけではなく、第一に考えているのは己の出世。愛想は良いが心は冷たい。だが従弟のペーターのことは彼なりに大切に思っており、親衛隊に誘ったり、ペーターが窮地に陥ると救いの手を差し伸べたりする。しかしその為、ペーターはますます悪の道に堕ちて行くことになる。

 ケーテ・レンスキ……ポーランド国境に近いポメラニアに住む少女。略奪や暴行をしながら進撃するロシア軍の猛攻に追われ、撤退するミュンヘベルク師団と共にベルリンまで逃げる。その間、師団の看護婦の役目を務める。

 ユーリ・アレクサンドロヴィチ・スミルノフ……ロシア軍の大尉で正義感あふれる熱血漢。政治将校だが、ナチとドイツ軍は憎むが、ドイツの民間人は守ろうとする。

 ステパン・グレゴリオヴィチ・フョードロフ……ロシア軍の上級中尉。NKVD(後にKGBとなる国家保安人民委員部)の職員。

 花井孝三郎……表向きは駐独日本大使館の旅券課員だが、実は陸軍中野学校で教育された特務機関員。杉村史生に総統官邸に潜入しヒトラーの動向を探るよう命じる。

 ハンナ・ベルツ……ベルリンに住む少女。父親が反ナチ思想の持ち主で、「ナチスよりロシア軍の方がマシ」と教え込まれている。

 エルナ・ウルマン……ハンナの友達。父親がドイツ軍の将校である為、ロシア軍をとても恐れている。

 アントン・ブリュックラー……SS中尉で強制収容所の副所長。楽をして生きている要領の良い男。ドイツ軍の敗戦を見越し、収容したユダヤ人から略奪した金品を横領している。

 レーナ・フェスマン……強制収容所に収容されているユダヤ人の少女。頭の良い文学少女で、ふとしたことから知り合ったペーターと親しくなる。しかしそれは決して許されない恋だった。

 バウル・リッター……ベルリン郊外で退却しながら戦うドイツ第九軍の少年兵。故郷の東プロシアはロシア軍に占領され、絶望しながら西へと逃げている。

 マックス・シュペート……第九降下猟兵師団の伍長だが、本来は空軍の整備兵。兵力不足で東部戦線に駆り出された際に、ロシア兵の残虐さを目にした為、ロシア兵の捕虜になることを死ぬより恐れている。

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