第1話 二〇二一年五月一四日(東京)
文字数 3,855文字
かつては国立大学で工学部の教授として長年教鞭をとり、国から勲章も貰っていた。
しかし叙勲にも無関心に近い態度で臨み、それより戦前のドイツ製だという古ぼけたカメラの方をずっと大切にしていた。
既に百歳も越えた筈だが、足腰こそ弱ったものの背筋はまだ伸びていて、頭も冴えていた。
呆けるどころか今も頭脳明晰であることは、裕太にもよくわかっていた。
だが偉ぶるでも、教育者然と四角四面に振る舞うでもなく、いつも唇に笑みを浮かべ、子や孫や曾孫、そして飼い猫にも優しく穏やかに接していた。
それでいて何を考えているのか分かりにくい、どこか本音を掴み切れないところがあった。
年寄りというものは、昔話をしたがるものだというが。
だが曾祖父の史生は身近な出来事など他愛ない話はよくするものの、昔の自分の事については殆ど語らなかった。
語らないというより、話すのをあえて避けているようにも見えた。
曾祖父の年を考えれば、あの凄惨な戦争の時代に若き日々を過ごした筈だ。
だからか、史生は十二月八日や八月十五日には戦争に関するテレビの特集番組の画面から目を離さず、しかしそれでいていつも何も語らなかった。
曾祖父の過去には、身内にも語れぬ何かがあるのではないか。
裕太のその疑念は、年毎に強くなっていった。
だから裕太は、曾祖父とはつかず離れずの距離を保った。
嫌いでも避けているわけでも無い、ただ曾祖父の柔らかな笑みの下に、裕太は近寄りがたい何かを感じていた。
かつて史生が大学で機械工学を教えていたように、杉村の家には理系の者が多かった。
しかし裕太の母は文学を好み、大学でも国文学を学んだ。
その母の血を引いたのか、裕太も理数系の科目は苦手だった。そして国語や社会、とりわけ歴史を学ぶのが好きだった。
だから裕太は、大学での専攻は迷わず史学科を選んだ。
大学も三年生になれば、ゼミに分かれ自らの研究テーマについて発表し討論し合うようになる。
そして研究テーマが日本の近代史となれば、必ずこの事が問題になってくる。
あの戦争とは、何であったのか?
以前からの定説や、中学や高校で学んだ歴史では、あの戦争は日本の侵略だという事になっている。
しかし近年、そうは思わない日本人が増えつつある。
「あれはやむを得ない戦争だった、日本はアメリカと中国に嵌められたのだ」
そう信じて疑わない学生が、裕太と同じ史学科にもいる。
日本は間違った戦争をしてアジアを侵略したと言い切ったゼミの教授を、その種の学生らはゼミの後で悪し様に罵った。
「ヤツは反日のサヨクだ。あんなクソみてえな自虐史観に洗脳されんじゃねえぞ!」
白人に支配されてたアジアを、あの戦争で日本が解放してやったんだからな。だからみんな、もっとこの国に誇りを持たなきゃなんねえよ。
それらの学生達は、確信と自信を持ってそう言い切った。
それは違うと、裕太は思った。
しかし裕太には、その学生らに反駁できるほど強い知識も信念も無かった。
あれは日本の侵略戦争だとは思うが、それはあくまでも他人が書いた本を読んで判断した事で、裕太自身が直にあの時代を見てきたわけではない。
そしてふと、裕太は曾祖父のことを思い出した。
曾祖父の史生は、あの戦争の真実を間違いなく直に見てきている筈だ。
だから裕太は初めて曾祖父と正面から向き合い、心に秘めているらしい話を本気で聞いてみようと考えた。
そう心に決めはしたものの、一階で最も日当たりの良い南向きの部屋で、膝に乗せた白猫の背を愛おしげに撫でて満ち足りた笑みを浮かべている曾祖父と向かい合うと、話をどう切り出したものか、裕太は戸惑ってしまった。
「
「ん?」
目を上げた曾祖父は口元に笑みを浮かべたまま、真っすぐに裕太を見た。
「戦争の事、なんだけど……」
「うん」
曾祖父は目を逸らさず、表情を変えること無くただ頷いた。
これ以上踏み込めば、この穏やかな笑みを消す事になるかも知れない。
そう危惧しつつ、裕太はおずおずと切り出した。
「曾祖父ちゃんは経験してるよね、戦争を」
曾祖父は頷いた後で、笑みを浮かべた唇の端を僅かに曲げた。
「まあ、な」
懐かしさに憂いが混ざった、静かな声だった。
「それでどうだったの、戦争って」
曾祖父は裕太を暫くじっと見詰め、そして僅かに頷いた。
「裕太も、もう二十歳だものなあ」
話しておいた方が良いかも知れんな、あの世に逝く前に。
曾祖父はそう呟くと、口元に浮かべた笑みはそのままに、光るやや強い目を裕太に向けた。
「かなり長い話になるが、いいか?」
裕太が頷くと、曾祖父は視線を外さずに頷き返した。
「ちょっと待っててな」
曾祖父は膝の白猫をそっとソファーの隣に移し、部屋の北側の大きな本棚に歩み寄った。そしてその下の扉を開け、更に奥にあるものを漁り始めた。
曾祖父が何か捜している間、裕太は激しくなる胸の鼓動抑えきれずにいた。
中国やアジアに行った日本兵が、捕虜や現地の人に酷い事をした話は、裕太も本で読んで知っている。
己が生きる為、戦場やシベリアの捕虜収容所で仲間を見殺しにした兵士の手記も読んだ。
もしかしたら曾祖父も、そうして生き延びた日本兵の一人だったのかも知れぬ。そう思うと、裕太は曾祖父に話を聞き出そうとした事を悔やみかけた。
その裕太の前に、曾祖父は埃を被った古いアルバムを抱えて戻って来た。濃紺のビロードの分厚い表紙からは、微かにだが黴の臭いが裕太の鼻先にも漂ってきた。
曾祖父は開いたそのアルバムの頁を、愛しいものでも撫でるような手つきで一枚ずつ繰った。そして何頁めかで手を止め、広げて裕太の前に押し出した。
「見てごらん」
言いながら、セピア色に変わりかけた古いモノクロ写真の中に写る、肩を寄せ合う男らの中の一人を指し示した。
その顔は若々しく、帽子の下からのぞいている髪も豊かで黒々としていた。しかし長いオーバーコートを着たその若者には、間違いなく曾祖父の面影があった。
さらにその若き日の曾祖父と親しげに肩を並べて写っていたのは、疑う余地も無くあのナチスドイツの兵士らだった。
曾祖父とドイツ兵らの背後の街は、まさに廃墟と言うしかなかった。ビルは崩れかけて煉瓦が山と積まれ、道路には至る所に砲弾や爆弾による大きな穴が穿たれていた。
それはまさに、戦争映画で見た最前線さながらの光景であった。
「これって、セットとかじゃなくて本当に本物なんだよね?」
その問いに、曾祖父は痛みを堪えるような笑みを浮かべて頷いた。
「曾祖父ちゃんは留学生でな、あの戦争が始まる前にドイツに行って、ドイツが戦争に負けるまでずっとベルリンで機械工学の勉強をしてたんだ」
曾祖父はそこで言葉を切ると裕太の頭上に遠い目を向け、また訥々と喋り出した。
「今でもよく覚えとる、この写真を撮ったのは一九四五年四月の最後の週で、その頃にはベルリンの街の中まで攻め込んで来たロシア軍と市街戦の真っ最中だった」
「ってことは……」
「そうさ、これはヒトラー最後の戦いの、ベルリン防衛戦の時に撮った写真だ。曾祖父ちゃんと一緒に写っているこの兵隊は、ドイツ軍最精鋭の、武装親衛隊の兵隊さ」
握り潰されるように胃が縮み、刺すような痛みを感じた。裕太は以前『アンネの日記』も読んだし、ナチスがユダヤ人に何をしたのかも知っていた。
写真の中で曾祖父はそのナチの親衛隊員に囲まれ、しかも彼らの指揮官らしい男と親しげに肩を組んでさえいた。
その武装親衛隊、SSの将校はドイツ人としてはやや小柄なくらいで背丈も曾祖父の史生とさして変わらず、表情も優しげにすら見えた。
しかし目深に被られた将校制帽の鍔の上で光るのは、紛れもなく親衛隊の銀の髑髏の徴章だった。
微かに震える指先を、曾祖父は裕太の視線の先のSS将校に重ねた。
「ペーター・ドレシャーだ、懐かしいな」
そして半ば独り言のように、呟くように続けた。
「でも、結局ベルリンはロシア軍に占領されてなあ。大勢の人が死んだし、生き残った者は兵隊だろうが民間人だろうが関係なく、みなロシア兵に酷い目に遭わされたよ」
「この親衛隊の人も死んだんだ?」
ナチの悪党なんだから、死んで当然だ。尋ねた裕太の心の内には、そんな思いも込められていた。
「それがな、確かなことはよくわからんのだよ。曾祖父ちゃんはペーターが撃たれるのを目の前で見たし、だから死んだと思っていたんだが。だけどイスラエルの人達はまだどこかで生きているかも知れんと疑っていて、今も戦犯として捜し続けているよ」
そして目を閉じ、頭を振りながら溜め息と一緒に続けた。
「無理もないさ、ペーターはゲシュタポでも働いてたし、強制収用所の隊長もしてたんだからな」
映画の『シンドラーのリスト』でも見た、ナチの強制収容所で行われた残虐行為の数々が脳裏に浮かび、裕太は軽い吐き気すら覚えた。
「曾祖父ちゃんはそんな酷い奴と、何でこんな仲良くできたの?」
杉村史生は老いて枯れた顔に穏やかな笑みを浮かべ、曾孫の目を真っすぐに見て静かに、しかしきっぱりと言った。
「ペーターは気持ちの優しい、本当に良い奴だったよ。イスラエルの人達から見れば酷い事をした戦犯なんだろうが、あいつは戦争映画に出て来る鬼のようなナチとは違う。曾祖父ちゃんにとっては、ペーターは大切な友達だよ、今でもな」