第18話 一九四五年四月二十八日(ベルリン、総統用地下壕)
文字数 2,372文字
「日本の新聞記者はいるか?」
史生が椅子から立ち上がると、SS大尉はゲッベルス大臣の副官シュヴェーガーマンと名乗った。
「閣下がお会いになられるそうだ」
「では、お先に」
「また会おう」
史生はペーターとケーテに会釈し、ゲッベルスの副官の後に付いて行った。奥のドアの先は下りの螺旋階段になっていて、下り切るとまたドアがある。
その向こうは細長い会議室で、そこからまた幾つかのドアと部屋を通り抜け、ようやくゲッベルス宣伝相の執務室に辿り着いた。ゲッベルスなどごく少数の党の要人のみが、この総統の防空壕の中に執務室を与えられている。
「よく来た」
ゲッベルスは立ち上がり、机の向こうから手を差し伸べた。刺すような暗い目に高い鷲鼻、口は大きく唇は薄く、しかし背の高さは史生と殆ど変わらない。
ほんの一瞬、握られた手に痛いくらいの力が込められた。しかしその手はすぐに離され、ゲッベルスは腰を落とし込むようにまた椅子に戻った。史生には、大臣の顔色がひどく悪いように思えた。
「勲章授与式の取材か? いいだろう。まだベルリンに残って帝国との友好に努めている同盟国民がいると知って、総統もお喜びだ」
「ありがとうございます、閣下」
「但し、写真は駄目だ」
「ですが……」
「総統のお写真を撮る事が許されているのは、専属の写真師ハインリヒ・ホフマンだけなのだ。取材なら、ペンだけで充分だろう?」
ゲッベルスは言いながら引き出しを開け、中から一枚の紙を抜き出して机の上に置いた。
「これを持っていろ。総統防空壕内の立ち入り許可書だ。これで君は、遠慮なくここで取材が出来るというわけだ」
「感謝します、閣下」
「ただ、カメラは預からせて貰う。ここの中は機密事項だ、写真に撮る事は誰にも許されていない」
ゲッベルスが有無を言わせぬ口調で言うと同時に、シュヴェーガーマンが史生のライカを取り上げた。
「悪いが、君が撮った写真もチェックさせて貰う」
ライカの中のフィルムが取り出されただけでなく、史生の服のポケットも探られ、撮影済みのフィルムがゲッベルスの机の上に並べられた。
「言うまでもないが、国家の存亡の危機にある今、総統はご多忙だ。くだらん質問で総統のお心を悩ませないでくれたまえ。総統から君に話しかけられた時は別だが、君の方からは絶対に話しかけない。いいな?」
史生は頷くしかなかった。ナチの要人の意向に逆らったらどうなるか、史生は試してみる気にもなれなかった。
ゲッベルスは腕時計に目を落とす。
「そろそろ時間だ、行こう」
史生はゲッベルスに連れられ、先程通り抜けて来た会議室に戻った。するとそこで、ペーターとヘルツィヒSS少佐らが整列していた。
ただこの場の主人公であるべきヒトラー総統は、まだ姿を見せていない。
やがて会議室の反対側のドアが開き、勲章を入れた小箱を持つ侍従のリンゲSS少佐を従えたヒトラーが入って来た。
史生がそこで見たのは、ヒトラーの残骸だった。現れたのは確かにヒトラーその人に違いなかったが、顔には深い皺が刻み込まれ、頬の肉も弛んで、七十に近い老人のように見えた。史生のイメージに残る、ニュース映画や宣伝ポスターの中のヒトラーとはまるで違う。
「諸君らの勇気と、祖国に対する揺るがぬ忠誠に感謝する」
話す声にはまだ往年の力の片鱗こそ感じられるものの、ペーターらの首に騎士十字章をかけようとするヒトラーの指先は、史生にも明らかにわかるほど大きく震えていた。総統の写真を撮ることを禁じられ、カメラも取り上げられた理由が、史生はわかるような気がした。
勲章を渡し終えるなり、ヒトラーはすぐ自室に戻った。史生の方に顔を向けた時、一瞬頷いて見せたようにも思えたが、ただそれだけだ。
叙勲の後、ペーターはシュトゥンプフェッガー博士の部屋を訪ねた。ヒトラーの侍医の部屋は、ゲッベルスの執務室の隣だ。そして程なく、ペーターはケーテの為に一抱えの医薬品を持って戻って来た。
史生とペーターはヘルツィヒSS少佐らに少し遅れて螺旋階段を上がり、ケーテが待っている食堂に戻った。
「これで暫くお別れだな。僕は部隊に戻るが、君はここに残るのだろう?」
ペーターの言葉に史生は黙って頷く。
「私も行かなくちゃ」
ケーテは医薬品を一瞬持ち上げて見せ、そして雑嚢の中に押し込んだ。
戻る二人を、ケーテは総統の防空壕と外の世界とを繋ぐ二重扉のところまで見送りに行く。
「フミオ、必ずまた会おう」
「死ぬなよ、絶対に」
ほんの僅かな間、史生とペーターは互いの背に腕を回して抱き合った。
次に史生がケーテと向き合うと、彼女の体がふわりと重なってきた。ケーテは史生の首に両腕を回し、一瞬、頬に唇を寄せた。
じゃあ、またな。
ペーターはそう言うと振り向きもせず、地下鉄駅へと続く暗い地下道を覆う闇の中へ、大股で歩き去って姿を消した。そしてケーテは何も言わず、しかし何度も振り返っては手を振りながら遠ざかって行く。
ロシア軍は、すぐそこまで迫っている。戦いはもっと激しく、そして更に苛酷なものになってゆくだろう。ベルリンの戦いはいよいよ最後の段階に入りつつあった。
あの二人とは、もう二度と会えないかも知れない。
唐突に、史生は外の現実世界から隔絶された、暗い地下世界にただ一人取り残されてしまったように感じた。今すぐにでもペーターとケーテの後を追いかけ、一緒に部隊に戻ってしまいたい衝動に駆られた。
しかし史生には、やらねばならぬ使命がある。ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーは、果たして当人の言葉通り死ぬまで戦うか、自ら命を断つのか。それとも側近らが勧めるように、他の場所へ脱出を図るのか。史生はこの地下壕に留まって、それを突き止めなければならなかった。