第24話 一九四五年四月三〇日(ベルリン)

文字数 2,842文字

 午後四時頃、不意に総統官邸地下防空壕の中がざわつき出した。
 その頃になっても、地下一階の大食堂に居た人々は相変わらず酒を飲み続けていた。が、地下二階から上がって来る者達の様子がおかしい。みな血相を変え、中には涙ぐんでいる者もいた。
 下から上がって来た一人が大食堂の誰かに何事か囁きかけると、耳打ちされた方も青ざめた。
 史生はシュヴェーガーマンの姿に気付いて声をかけた。
「どうしました、何があったんです?」
 ゲッベルスの副官は焦点の合わない目で見返し、絞り出すような声で叫んだ。
「総統が……総統が亡くなられた!」
 史生は螺旋階段を駆け降り、地下二階に向かった。ドアの向こうの社交室ではナチ党の制服を着た誰かが頭を抱えて座り込んでいたが、ヒトラーの遺体は無い。その奥の会議室、一昨日ペーターが騎士十字章を授与され場所だが、遺体はそこにも無かった。
 史生は会議室の隣のシュトゥムプフェッガー医師の治療室も覗いてみたが、それらしいものは見当たらない。
 史生は意を決し、ヒトラー個人の居住スペースに足を踏み入れた。
 一昨日、確かヒトラーはこのドアから出て来た筈だ。
 それを思い出しながらドアを開けると、そこはヒトラー専用の応接室で、中で深刻な表情で話をしていたボルマンとギュンシェSS大佐が目を上げた。
「何だ?」
 ヒトラーの副官としてよく知られているSS将校の声は、ひどく尖っていた。
「あの、ゲッベルス閣下に呼ばれて来たのですが……」
 史生は咄嗟に嘘をついた。
「大臣の部屋は反対側だ」
「そうですか、失礼しました」
 史生は最後まで言い終わる前に急いでドアを閉めた。
「おい、ちょっと待て」
 ギュンシェの声が追いかけて来たが、待つつもりなど無かった。引き止められ、尋問などされたらたまらない。
 逃げるように会議室の奥のドアを開けると、そこは衛兵の詰め所だった。そしてその先は、階段が上へと伸びている。
 衛兵に何か言われる前に、その鼻先で史生は立ち入り許可書を振りたてた。
「急いでいるんだ、早く通してくれッ」
 史生が階段に足を乗せた瞬間、ギュンシェの声が詰め所まで響いてきた。
「そいつを引き留めろ!」
 史生は後も振り返らずに階段を駆け上がり、衛兵の重いブーツの足音も続いて追いかけて来た。
 長い階段だった。途中で踊り場が何カ所かあり、その度に上る行く方角が変わった。息が切れ、心臓が体の中で激しく弾んだが、足を止めるわけにはいかない。
 最後の階段を駆け上がると地上への出口があり、総統官邸の中庭へと続いていた。
 外は砲撃の直中だった。狙いはまだドイツ軍が抵抗を続けているこの地区で、特に総統官邸と国会議事堂が集中砲火を浴びていた。しかしギュンシェや衛兵ら後を追われているのだ、このまま突っ走って行くしかない。
 総統官邸の天辺近くに直撃弾が炸裂し、砕けたコンクリートが降りかかる。目についた一番近くの砲弾の穴らしい窪みに、史生は頭から飛び込んだ。
 史生の手が何か柔らかい、ぐにゃりとしたものに触れた。
 それと同時に、何かものが焦げる、強烈な悪臭が鼻を突く。
 ひどく焼け焦げてはいるが、ヒトラーだと明らかにわかる死体がその穴の底に横たえられていた。
 跳ね起き、飛び出して、史生は中庭を盲滅法に走った。
 砲撃はまだ続いている。鞭を振るような鋭い風を切る音をたて、史生の耳元を弾丸が通り過ぎて行く。ほんの少し前に史生が飛び出した総統防空壕の非常口から、SSの衛兵がライフルを構えて撃っていた。
 行く手の中庭の木立の陰に、身を潜めて様子を窺っている誰かがいた。
 史生はそれに気付かず、体当たりする形でその誰かにぶつかった。
 きゃ、と小さな悲鳴が上がる。
 そこに誰かが居た事以上に、史生はそれが誰だったかという事に驚いた。
「ケーテ!」
 しかし今は、話をしている余裕など無い。
「一緒に来て、早くッ」
 史生はケーテの腕を引っ張り、そのままヘルマン・ゲーリング通りの方に駆けた。

 砲撃の合間を見計らって、ヨーゼフ・ヴェーゲナーもまたヘルマン・ゲーリング通りに向かっていた。彼の自宅がそこにある。
 同じ通りに居を構える他の高官連中の屋敷と比べるとやや小さいものの、豪華さでは引けを取らぬ一戸建の家にヴェーゲナーは住んでいた。彼はまだ独身で、妻子はいない。
 中に入ると、黒い革のオーバーコートと制帽を玄関に放り出した。
「さあ、準備にかかるぞ」
 この地区にも、もうすぐロシア軍がやって来る。そしてその前にやっておかねばならない事は、幾らでもあった。
 ヴェーゲナーは自分の家の中を荒らしにかかった。SSの制服を脱ぎ、そのまま床に投げ捨てる。そして引き出しや戸棚の中の物を、乱暴に床にぶちまける。さらに自分が写っている写真は、額に入れて飾ってある物もアルバムの中の物も一枚残らず集め、暖炉に放り込んで火を付けた。

「どうしたの、何があったの?」
 ヘルマン・ゲーリング通りを渡ってティーアガルテンの森の中に駆け込み、追っ手と砲撃から逃れた事を確かめると、史生とケーテは同時にそう尋ねた。
 二人は一緒に笑い、それから互いに自分の知ってる事を教え合った。まず史生がヒトラーがあの中庭で死んでいたのだと聞くと、ケーテは目を丸くした。
 私の方は、そんなすごい事は経験していないんだけれど。そう言いながら、ケーテはドレシャー戦闘団が少し前にポツダマー駅を放棄した事、そしてティーアガルテンの森に移動して戦い続けている事を史生に話して聞かせた。
「それで私はティーアガルテンに移る前にちょっと寄り道をして、総統防空壕に行ってみたの。また薬と包帯を分けて貰えないかと思って。そしたら、貴方が……」

 潜入させた《ヒバリ》の活躍は、とうとうヴァディス中将まで報告された。ヴァディス中将はジューコフ元帥率いる白ロシア方面軍に属する、NKVDの親玉だ。
 チェルネツォフ大佐は《ヒバリ》からの最新の報告を捧げるようにしてヴァディスに差し出した。
 ひとらー自殺ス。死体ハ総統官邸ノ中庭ニアリ。
「同志大佐、君はどう思うかね?」
「私は信じても良いのではないかと思います」
「その根拠は?」
「ヒトラーが死んだというナチの奴らの会話を、ヒトラーの防空壕に《ヒバリ》が仕掛けた盗聴器でも聞きました。それに《ヒバリ》は、間違った報告を送って来た事は一度もありません」
「宜しい、ジューコフ閣下に報告しよう。場合によっては、同志スターリンにもな」

 翌五月一日の午前一時、ロシア軍の司令部にヒトラーの参謀長クレプス大将がやって来た。ゲッベルスやボルマンらと話し合い、ロシア軍に休戦を申し入れに来たのだ。
 ロシア側の代表として出て来たチュイコフ大将に、クレプスは重々しい調子で告げた。
「私はこれから重大な事を申し上げる。ヒトラー総統が自決なされた」
 しかしクレプスは期待していた反応を得られなかった。チュイコフは驚きも慌てもせず、落ち着き払った声で答えた。
「それはもう知っています」
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登場人物紹介

 ペーター・ドレシャー……ただ機械が好きなだけの、大人しく心優しい青年。興味があるのはナチスの政治的な主張ではなく、ナチスが作らせた戦車や装甲車。それで戦争が始まると、一兵卒として召集される前に戦車の整備をする技術将校を目指して士官学校に入学する。

 杉村史生……ペーターと同じく、機械が大好き。ベルリン工科大学に留学し、ペーターと親しくなる。第二次世界大戦が始まった為に帰国できなくなり、ベルリンで機械工学の勉強を続ける。そして大戦末期のロシア軍に包囲され陥落寸前のベルリンで、旧友ペーターと再会する。

 ヨーゼフ・ヴェーゲナー……ペーターの従兄でナチスの若きエリート。ナチス思想に心から染まっているわけではなく、第一に考えているのは己の出世。愛想は良いが心は冷たい。だが従弟のペーターのことは彼なりに大切に思っており、親衛隊に誘ったり、ペーターが窮地に陥ると救いの手を差し伸べたりする。しかしその為、ペーターはますます悪の道に堕ちて行くことになる。

 ケーテ・レンスキ……ポーランド国境に近いポメラニアに住む少女。略奪や暴行をしながら進撃するロシア軍の猛攻に追われ、撤退するミュンヘベルク師団と共にベルリンまで逃げる。その間、師団の看護婦の役目を務める。

 ユーリ・アレクサンドロヴィチ・スミルノフ……ロシア軍の大尉で正義感あふれる熱血漢。政治将校だが、ナチとドイツ軍は憎むが、ドイツの民間人は守ろうとする。

 ステパン・グレゴリオヴィチ・フョードロフ……ロシア軍の上級中尉。NKVD(後にKGBとなる国家保安人民委員部)の職員。

 花井孝三郎……表向きは駐独日本大使館の旅券課員だが、実は陸軍中野学校で教育された特務機関員。杉村史生に総統官邸に潜入しヒトラーの動向を探るよう命じる。

 ハンナ・ベルツ……ベルリンに住む少女。父親が反ナチ思想の持ち主で、「ナチスよりロシア軍の方がマシ」と教え込まれている。

 エルナ・ウルマン……ハンナの友達。父親がドイツ軍の将校である為、ロシア軍をとても恐れている。

 アントン・ブリュックラー……SS中尉で強制収容所の副所長。楽をして生きている要領の良い男。ドイツ軍の敗戦を見越し、収容したユダヤ人から略奪した金品を横領している。

 レーナ・フェスマン……強制収容所に収容されているユダヤ人の少女。頭の良い文学少女で、ふとしたことから知り合ったペーターと親しくなる。しかしそれは決して許されない恋だった。

 バウル・リッター……ベルリン郊外で退却しながら戦うドイツ第九軍の少年兵。故郷の東プロシアはロシア軍に占領され、絶望しながら西へと逃げている。

 マックス・シュペート……第九降下猟兵師団の伍長だが、本来は空軍の整備兵。兵力不足で東部戦線に駆り出された際に、ロシア兵の残虐さを目にした為、ロシア兵の捕虜になることを死ぬより恐れている。

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