第26話 一九四五年五月二~三日(ベルリン)
文字数 17,945文字
「総統は自殺した。よってドイツ兵の諸君は、彼に誓った忠誠の義務から解放される。私は全ての抵抗を止めて降伏するよう、諸君に命ずる。私はベルリン防衛司令官、砲兵大将ヴァイドリングである」
ボリュームを上げて録音テープを繰り返し流すその装甲車を、ドレシャー戦闘団の兵士らは憎々しげに睨みつけた。
「アーヘルン、あの車のケツに火をつけてやれ!」
ペーターの怒声に応えて《ルックス》の機関砲が唸り、ロシア軍の装甲車はスピードを上げて遠ざかって行った。だが、装甲車が見えなくなっても、降伏を勧告する録音テープの声だけはまだ聞こえ続けた。
ボルマンら党の要人連中は昨夜、SS重戦車大隊やノルトラント師団のティーガー戦車とパンター戦車を先に立ててベルリンからの脱出路を切り開こうとした。だがロシア軍の分厚い包囲網に阻まれて全ての戦車を撃破され、要人達も大半は殺されるか捕らわれるかどちらかの運命を辿った。ただごく少数の者だけは、辛うじて逃げ延びた模様だった。
そして今朝早く、ヴァイドリング将軍が白旗を掲げてロシア軍の司令部を訪れて無条件降伏を申し出た。ナチ党の幹部で逃亡も降伏も潔しとせずに自決したのは、宣伝相ゲッベルスくらいだ。
それで今は置き捨てにされる形で、ミュンヘベルク師団とドレシャー戦闘団だけがティーアガルテンの森に残っている。
ヴァイドリング将軍が悪いわけではない。その事はペーターもわかっている。ヴァイドリングは全力を尽くして戦い、軍人としての義務を十分に果たした。そしてヒトラーも死んでナチスの命運が尽きた今、犠牲者を無駄に出さぬ為に降伏を決意したのだ。
しかしペーターとその部下達には、降伏はあり得ない選択だった。彼らにとって、降伏はそのまま死を意味する。とりわけ、ウクライナやバルト三国からSSに加わった者達にとっては。
ペーターはティーアガルテンの森の動物園付近で抗戦し続けているミュンヘベルク師団の司令部を訪れた。
「あの布告を、閣下はお聞きになりましたか」
ムンメルト少将は短く頷いた。その唇は固く結ばれている。
「閣下はどうなさいます?」
「問題は我々の運命ではない。今、最も優先して考えるべき事は、市民らをどうするかだよ」
「同感です」
数日前に顔を合わせてから初めて、ムンメルト少将は表情を緩めた。
ティーアガルテンの森にはミュンヘベルク師団とドレシャー戦闘団の他に、ロシア軍の暴行を恐れて多くの市民が逃げ込んでいた。その数は数万人に達し、彼らの多くは巨大な高射砲塔に籠もっている。
ロシア兵達はただ物を奪うだけでなく、毎夜民家に押しかけては女達を犯した。それを拒めば、容赦なく撃ち殺す。ある小さな村では、その為に数十人もの女が射殺された。
ロシア兵の手に落ちるくらいなら、死んだ方がましだ。市民達は口々にそう言った。
もしもティーアガルテンの森で抵抗を続けているドイツ兵が、ヴァイドリング将軍の命令に従い武器を捨てて降伏すれば、市民達はロシア軍の手に落ちる事になる。だから負ける戦とわかりつつ、ムンメルト少将は降伏する事が出来ないでいた。
「西に突破しましょう、一緒に。市民達も連れて」
ペーターはさらりと言った。
不信の気持ちをあらわに見返したムンメルト少将に、ペーターは更に言った。
「ロシア軍の奴らは、もう勝ったつもりで油断しているでしょう。だからこれから夜を待って森から出撃し、ただひたすら西に向かって突っ走るんです。問題になるのはスパンダウのハーフェル川ですが、そこの橋を奪い取れさえすれば、後はベルリンを出て西の連合軍の支配地域まで行ける筈です」
「SS大尉、君は本当にやる気かね?」
「もちろんです、それ以外に道はありません」
「ただひたすら西に突っ走る……か。無茶だが、やってみる価値はあるかも知れんな」
「閣下、私達と一緒にやりましょう」
「だが、私の師団に戦車はもう無いぞ」
ベルリンの市街戦が始まった頃、ミュンヘベルク師団にはまだ五両のティーガー重戦車が残っていた。しかし国会議事堂を巡る戦いで、そのすべてを破壊されてしまった。
たった一両でいい、ティーガーさえ残っていたら。ムンメルト少将は痛切にそう思った。
疲れた表情のムンメルト少将に、ペーターは力強く言った。
「構いません、脱出の先頭は我々に任せて下さい」
ヴァイドリンク将軍の降伏勧告は、ティーアガルテンの高射砲塔に逃げ込んでいた第九降下猟兵師団のマックス・シュペート伍長を絶望させた。
去年あの悪夢のような体験をして以来、シュペートはロシア兵を何よりも恐れていた。
ロシア兵の捕虜になるのだけは、絶対に嫌だ!
シュペートはただその一念で今日まで生き延びてきた。
初めて戦場に放り出された時から、シュペートはひたすら西へ西へと逃げ続けてきた。ある時は息を殺し足音を忍ばせてパルチザンが待ち伏せる森をすり抜け、またある時には吹雪の雪原を凍えながら、シュペートはロシアから千キロを越える距離を歩き続けてここまで逃げてきた。
シュペートの故郷はボン付近の小さい町で、今そこはアメリカ軍に占領されている筈だ。
アメリカは自由の国なのだ、ロシアの獣どものような酷い事はしないだろう。少なくともシュペートはそう思っていた。
だが西へ逃げ続けてきたシュペートの道は、ついにここで閉ざされようとしていた。
シュペートは高射砲塔内部の階段にしゃがみこみ、頭を両腕で抱え込んだ。故郷で彼の帰還を待っている筈の両親や恋人の顔を思い浮かべながら、彼は目から涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に堪えた。
内務省ビルから押収した名簿と住所録を手に、NKVDのフョードロフ上級中尉は兵を引き連れてヘルマン・ゲーリング通りのナチ党の高官達の私邸を一軒ずつ調べていた。
その家に踏み込む前に、フョードロフは手の中の書類と照らし合わせて住人の身分と経歴を確かめ直した。
SS大佐ヨーゼフ・ヴェーゲナー、ゲシュタポ長官ミュラーの副官。まだそれほど知られてはいないが、親衛隊ではシェレンベルクやクノッヘンに続く若手の有望株だ。
ドアをノックしたが、返事は無かった。構わずドアを蹴破って踏み込むと、中はひどく荒れていた。至る所の戸棚や引き出しが開けられ、衣類や書類が床に散乱していた。しかしロシア兵の略奪に遭ったのではない事は、時計や銀の食器など金目の物がまだ幾つも残っているのを見ればわかる。
ただ陽の当たらない北側の狭い部屋で、使用人らしい中年の男が震えていた。醜男とは言えないまでも、あまり冴えない白髪混じりの男だ。
「お前は誰だ?」
フョードロフの問いに、男がたどたどしいドイツ語で答えた。
「私、召し使い。連れて来られた、フランスから」
現住所と職種、それにフランス国籍を記載した身分証明書も、同時に差し出す。
そして男は肩をすくめ腕を広げ、目をぐるりと回しながら、早口でぺらぺらとまくし立てた。しかしロシア語の他は拙いドイツ語しか話せないフョードロフには、男が何を言っているのか全くわからなかった。
男のフランス語を遮り、フョードロフは自身もあまり得意でないドイツ語で尋問を続けた。
「ここの主人はどうした?」
「どこか行った、一昨日。急いでた、とても。荷物まとめて、スーツケース持って行った。そして帰って来ない。私、どうしたらいい?」
フランス人の召し使いの言う通り、家の中の様子は逮捕を恐れたナチの戦犯が大急ぎで逃げ出したように見える。
「どこに行くとか、何か話を聞いていないか?」
「知らない。私、わからない」
フョードロフは尋問を諦め、家捜しに取りかかった。しかし天井裏から地下室までどこを引っくり返しても、手掛かりになるようなものは何も見つからなかった。
諦めて家を出て行こうとすると、召し使いがフョードロフの袖を掴んで引き留めた。
「隊長さん、私、ロシアの兵隊さん、怖い」
わからないでもなかった。占領した敵国でロシア兵はどこでも乱暴狼藉を働き、相手が市民でも容赦しなかった。
相手がドイツ人なら、フョードロフも同情などしないのだが。
しかしこいつはフランス人だ。ロシア兵の誰かが撃ち殺しでもして、後でフランス政府から文句をつけられたら面倒だ。フョードロフは部下のグローモフ軍曹をこの家に残し、他のロシア兵がこの家に入り込まないよう番をしているよう命じた。
「隊長さん、私、フランス、帰れるか?」
「もちろんだ。お前は、俺がちゃんとフランス軍の占領地区に送り届けてやる」
「ありがとう、隊長さん!」
フランス人の中年男にきつく抱き締められ、頬に口づけまでされて、フョードロフは迷惑げな苦笑いを浮かべた。
国際問題が起きるのを未然に避ける為、私、ステパン・グレゴリオビッチ・フョードロフ上級中尉は適切な処置を取った。フョードロフはNKVD本部に戻ったら忘れずにそう上司に報告しておこうと考えた。
ゲシュタポのパリ支局に勤務していたおかげで、ヨーゼフ・ウェーゲナーは日常会話に差し支えない程度のフランス語なら喋れるようになっていた。そしてそれが、彼の命を救う第一の偶然になった。
第二の偶然は、パリからベルリンのSS本部に戻った後、彼がアルケット社の工場の視察に行った事だ。アルケット社はドイツ軍の戦車を作っている、国家にとって大切な会社だ。そこでヴェーゲナーは、フランス人を初めとする多くの外国人の労働者が、ドイツ人の監督のもと強制的に働かされているのを見た。
戦況がドイツにとって厳しくなると、ドイツ人の工員は次々に徴兵されて戦場に送られた。そしてその穴を、占領地から駆り集められた外国人の労働者が埋めさせられたのだ。
ヒムラー長官らSSの幹部たちは、国防軍の兵士になりすまして逃走しようと計画した。しかしアルケット社で働かされていたフランス人の姿を覚えていたヴェーゲナーは、強制連行されたフランス人になりすます事を思いついた。そしてロシア軍に守られてこのベルリンから堂々と出て行き、フランスへ着いたら今度はイタリア人にでも早変わりするつもりでいた。
フョードロフ上級中尉とその部下が去った後で、ヴェーゲナーはにんまりと笑った。彼の芝居と白く染めた髪に、あの間抜けな若いロシア将校はまんまと騙されてくれた。後はあの上級中尉が、ヴェーゲナーをフランスに送り届けてくれるのを待つだけだ。
ヴェーゲナーが居間のソファーにゆったり座り込んでくつろいでいる間、玄関の前では太ったNKVDの軍曹が短機関銃を手に仁王立ちになり、フョードロフ上級中尉に命令された通り、略奪目当てに次々にやって来るロシア兵達を片っ端から追い払っていた。
ペーターもまたロシア軍のシュパーギン短機関銃を手に持ち、その手入れに余念がなかった。
「ペーター、君はどうしていつもロシア軍のを使うんだ? ドイツの短機関銃より出来が良いのかい?」
史生に問われて、ペーターはきっぱりと言い切った。
「出来なら、ドイツのMP40の方がずっと良いね」
「だったら、どうして?」
「ただ頑丈だからさ。いざと言う時に引き金を引いて、もし弾が出なかったら話にならない」
そして掃除したばかりの短機関銃に新しい弾倉を叩き込み、続けて言う。
「あと、ドイツのMP40は弾が三十二発しか入らないが、ロシアのこいつは七十連発だ。撃ち合いの最中に、この差はかなり大きいね」
ペーターの部下達もまた、それぞれ武器の手入れに精を出していた。口にこそ出さないが、次の戦いがおそらく自分達の最後の戦いになると部隊の誰もがわかっていた。
何十万ものロシア軍の大部隊の真っ只中を、ただひたすらに突っ切って行く。どう考えても無茶な、決死の作戦だった。包囲網を破って西に逃げ延びる事が出来るのは十人に一人どころか、全滅の可能性の方が高い。
しかし彼らには、道はそれ以外に残されていなかった。
ペーターに頼んで、史生はドレシャー戦闘団の生き残り達を集めてもらった。SS第六六六戦車猟兵中隊を中核に、バルト三国やウクライナの反共ロシア人、それに東部戦線の激しい戦いで壊滅した部隊の落伍兵を掻き集めて編成されたドレシャー戦闘団だが、生き残りは今や百人に満たなかった。
史生は彼らをペーターの周りに集め、写真を何枚も撮った。
日本とロシアは同盟関係にある。だから史生は、武器を取り彼らと肩を並べて戦う事は出来ない。それだけに彼らが間違いなくこの世に生きていたという証しを、史生は何としても残しておきたかった。
ベルリンを脱出する戦いの帰趨は、ハーフェル川に架かる橋を渡れるかどうかに懸かっている。ペーターもムンメルト少将もそう見ていた。
そのハーフェル川の下流では、避難民を守って西を目指すもう一つの戦いが一足先に始まっていた。
戦いつつ避難民を守りながらオーデル川西岸から退き続けていたドイツ第九軍は、ベルリンの南西を通り過ぎ、ハーフェル川を越えようとしていた。
米英軍が支配する西のエルベ河畔までは、あと約六〇キロ余り。その第九軍の退却を支援する為、若き名将ヴェンク将軍のドイツ第一二軍も近くまで進出して来ている筈だ。
第二三戦車擲弾兵師団にも、ベルリンを巡る情勢は逐次無線で届いていた。しかし彼らにとっては、ヒトラーの死もベルリン防衛軍司令官の降伏勧告も何の意味も持たなかった。彼らの戦争が終わるのは、ロシア軍を振り切りエルベ河を渡った時だ。
なあ、ロシア人ってやつは、土の中から湧くように生まれて来るのか?
ゼンガー軍曹は幾度となくそう自問自答していた。撃ち殺しても撃ち殺しても、新手のロシア軍が次々に湧いて出て来て行く手に立ちはだかる。
今もそうだった。ゼンガー達が避難民を守りながらハーフェル川を渡って間もなく、それを待っていたかのように随伴歩兵を乗せた数両のT34中戦車が襲いかかって来た。
何の遮蔽物も無い草原だった。死にたくなければ、地べたに張りついたように伏せるしかない。避難民らの間に戦車が放った榴弾が落ち、荷車がばらばらになって燃え上がる。
「やるぞ!」
ゼンガー軍曹はパンツァーファウストを握り締め、近くに伏せているパウル・リッターに声をかけた。
「はいっ、軍曹殿!」
パウルもパンツァーファウストを掴み、T34に向かって這いながら進む。
横目でパウルをちらりと見やり、ゼンガーは微かに口元を緩めた。弱音ばかり吐いてたあの小僧が、いつの間にか一人前の兵隊らしくなってやがる。
T34は第二三戦車擲弾兵師団の列の中に入り込み、歩兵や避難民達を蹂躙しかけていた。しかしドイツ軍の歩兵が放つパンツァーファウストの餌食になり、一両、また一両と燃え上がってゆく。
よし、俺もやるぞ!
ゼンガーはパンツァーファウストを握り締めた。
ゼンガー軍曹は一両のT34に狙いをつけ、その側面に回り込むように這って行く。そしてパウルもその後に続いた。
「今だ!」
二人はがばりと身を起こし、地面に片膝をついて戦車に狙いを付けた。戦車の砲塔がぐるりと回り、二人の周囲に機銃の弾が飛んで来る。
「撃て!」
二人は殆ど同時にトリガーを押し、T34の側面から高い火柱が上がった。
「やったな、おい!」
ゼンガーの上げた歓声に返事は無かった。
振り返るとパウルは両目を開けたまま、空を見上げるように仰向けに倒れていた。
そのパウルの眉間には、銃弾の穴が開いていた。
夜を待って動き出したドレシャー戦闘団とミュンヘベルク師団は、ティーアガルテンの森を抜けシャルロッテンブルグを最短距離の裏通りを選んで突っ切り、夜半前にスパンダウのハーフェル川に達した。目の前のディシンガー橋は長さ百メートルにも満たないが、その向こうは闇に包まれ、対岸の状況は何も見えない。
「行くぞ、私が向こうまで渡ったら、皆ついて来い!」
ペーターは短機関銃を片手に《ルックス》の上に飛び乗り、砲塔のアーヘルンSS軍曹にフルスピードで突っ切るように命じた。戦闘団の装甲兵員輸送車は川岸に並び、いつでも援護射撃を始められる態勢で固唾を飲んで見守る。
ペーターを背に乗せて突進する《ルックス》の前面の装甲板から、突如火花が上がった。同時に《ルックス》はつんのめるように止まり、高く炎を上げ燃え始めた。
ロシア軍の機関銃弾が雨のように降り注ぐ中、ペーターが橋を這って戻って来た。そして悔しさを滲ませ、唸るように言う。
「対戦車砲だ、橋の向こうに陣取ってやがる。アーヘルンも他の奴らも、皆やられた」
「装甲兵員輸送車で突っ込んでみましょう」
フォン・シュプリューゲSS中尉の進言に、ペーターは激しく首を振った。
「駄目だ。よたよた歩く鴨の親子みたいに狙い撃ちされちまう。突破して蹂躙するのは、ティーガーのような重戦車でもない限り無理だ」
「しかし他に方法が無いじゃありませんか。たとえ装甲兵員輸送車でも、一斉に攻め掛かれば望みはあります」
「どうかな、犠牲が大きすぎる」
渋るペーターに、シュプリューゲは珍しく強い口調で迫った。
「私にやらせて下さい、隊長。援護の役は、もういい加減飽きました」
襟に顎を埋め苦い顔でかなり長いこと考えた後で、ペーターはようやく頷いた。
攻撃は五両の装甲兵員輸送車で行われる事になり、負傷兵用の一両だけが後に残された。更に今度は、ミュンヘベルク師団の歩兵も援護射撃に加わる。
先頭の車両にシュプリューゲSS中尉が乗り込んで、ペーターと握手を交わした。
「一台でいいんです、たった一台でも橋の向こうまで着けば、奴らの対戦車砲など蝿みたいに潰してやりますよ」
シュプリューゲは右手を大きく振って出発の合図を出し、ドレシャー戦闘団の装甲兵員輸送車は一斉に動き出した。
しかし装甲兵員輸送車が橋に車輪を乗せると、すぐに敵の対戦車砲が射撃を始めた。先頭のシュプリューゲSS中尉の車は、真っ先に命中弾を食らって炎に包まれる。シュプリューゲを含めて、その車からは誰も降りて来ない。続く車も次々に対戦車砲に撃ち抜かれ、乗っていた兵士ごと炎に包まれていった。
一両、また一両と装甲兵員輸送車は潰されて行き、被弾して燃え上がる車から飛び降りた兵らも、ロシア軍のマキシム重機関銃に狙い撃ちにされて次々に倒れた。
ペーター達は川岸で歯噛みしながら見ているのだが、手の打ちようが無い。全ての装甲兵員輸送車が橋の上で破壊されてその戦闘は終わり、ドレシャー戦闘団はほんの数分のうちに半数の兵と戦闘車両の殆どを失った。
ディシンガー橋の上にはペーターの部下達の死体が散らばり、列をなした装甲兵員輸送車が炎上している。
ムンメルト少将がやって来て、呆然と立ち尽くすペーターの隣に並び、肩にそっと手をかけて労るように語りかけた。
「よくやった、よくやったよ君達は。今度は私達にやらせてくれたまえ」
ミュンヘベルク師団の歩兵の攻撃は、歴戦の名将ムンメルト少将によって見事な手際で進められた。まず橋の上に発煙弾を打ち込み、橋の欄干を盾にして歩兵を進めて行く。しかしロシア軍の対戦車砲は榴弾で猛射を加え、ミュンヘベルク師団の歩兵を吹き飛ばした。マキシム機銃も火を吹き、橋の上の歩兵達は釘付けにされて動けない。
発煙弾による煙幕が吹く風に流されて消えると、ミュンヘベルク師団の歩兵は橋の欄干や装甲兵員輸送車の残骸の陰に身を潜めるしか出来なくなった。
敵の側面に、何とか回り込めないか。
ミュンヘベルク師団の攻撃が行き詰まる様子を見ていたペーターは、背後のディックマンSS少尉に声をかけた。
「川を渡ろう、筏を組んだらどうだ」
ペーターの部下達は一斉に動き出した。近くの家のドアを引っ剥がし、庭の柵を引き抜いて組み合わせ、数艘の小さな筏を作り上げた。
「今度は俺の番ですね」
ディックマンSS少尉がにやりと笑う。
まずミュンヘベルク師団が牽制攻撃に出て、橋の上の歩兵を前進させる様子を見せてロシア軍の目を引きつける。そしてその間に少し離れた場所の川面に筏を浮かべ、ディックマンとその部下達がハーフェル川を渡る。
作戦そのものは悪くなかった。橋の上では、ミュンヘベルク師団の歩兵達が敵と激しく撃ち合っている。その間に対岸に向かって暗い川面を滑るように渡って行くディックマンとその部下を、ペーターらは手に汗を握って見守った。
急げ、頑張れ、もう少しだ!
ペーター達は心の中で声援を送り続けた。
不意に対岸から照明弾が打ち上げられ、辺りが昼間のように明るくなった。同時に、川を渡るディックマンらが丸見えになる。川の対岸の建物の窓からたちまち何丁もの銃が突き出され、川の中のディックマン達に銃弾が降り注いだ。
「戻れ、早く!」
ペーターは川縁まで走って行き、腕を振り回して叫んだ。しかし筏の動きは苛々するほど遅い。筏の上の兵は銃弾を浴びて次々に倒れ、あるいは川の中に姿を消した。
作戦はまたも失敗した。
ディックマンも含め、多くの兵が戻って来なかった。
それから間もなく、ペーターは残った一握りの兵達と共にディシンガー橋から姿を消した。その場に残されたのは、幾人もの負傷兵、それに史生とケーテだけだ。
ミュンヘベルク師団の将兵は、残された者達に訝しげな目を向けた。ムンメルト少将自身は非難めいた言葉を言わなかったが、不信の気持ちをあからさまに口に出す者も少なくなかった。
「臆病風に吹かれて逃げ出したか」
信じられなかった。ペーターがそのような真似をするとは、史夫にはとても思えなかった。彼なりに何か考えがあって、一時この場を離れただけに違いない。史生はそう信じたかった。
しかし夜は次第に更けて行き、どれだけ待ってもペーター達は戻って来なかった。
攻撃はその後もミュンヘベルク師団によって続けられたが、師団の歩兵は相変わらず橋の上で殆ど釘付けになったまま動けずにいる。
日付が変わり午前二時を回った頃、背後のシャルロッテンブルクの方角からキャタピラの地響きが近付いて来た。ドイツ軍の戦闘車両とは明らかに違う、特徴あるディーゼル・エンジンの音だ。それは間違い無く、ロシア軍の戦車のものだ。
橋は越えられず、そして背後からは敵の戦車がやって来る。
挟み撃ちか。ドイツ兵も、脱出の望みをかけてついて来ていた避難民達も、皆が絶望に体を震わせた。
ロシア軍の重戦車、《イシオフ・スターリン》が通りの東の方から、ゆっくりとその巨大な姿を現した。
「諦めるな、パンツァーファウストを取れ!」
ムンメルト少将が大声を上げて兵達を励ます。
その時、戦車の少し前を走っていた武装SSの兵士が繰り返し叫んだ。
「撃つな、撃つなよ、味方だ!」
その戦車は、間違いなくロシアの指導者の名を冠したロシア軍の重戦車だった。だがその砲塔や運転席のハッチから顔を出していたのは、ペーターとその部下達だった。
ついに戦争に勝った。ベルリンに攻め込んだロシア兵の多くがそう思っていた。だから警戒心も緩みがちになり、酒や女や金目の物を漁るのに夢中になっていた。
その夜、第一親衛戦車軍のジャルコフ少尉とその部下もまた、戦車を路上に残して戦利品と女を漁りに民家に押し入っていた。
もちろん、ジャルコフは警備の兵を戦車の側に残してはおいた。ただその役割を押し付けられたゴレリクとしては、ひどい貧乏クジを引かされたようで面白くなかった。ゴレリクとて、女や時計や酒が欲しいのだ。
ゴレリクは小隊の三両の《イシオフ・スターリン》の間にしゃがみ込み、ふて腐れて煙草を吸っていた。しかし悪い事は重なるもので、軍服の袖に赤い星のマークをつけた政治将校がそこに通りかかった。
ゴレリクは煙草を投げ捨て、急いで立ち上がり気をつけの姿勢を取った。その政治将校に見覚えは無いが、政治将校という奴はどいつもこいつも蠍のようにたちが悪いに決まっている。
案の定、その背の高い政治将校は意地の悪い目でゴレリクを見下ろし、お前の部隊の者達はどこにいるかと尋ねた。
「民家に隠れているファシストどもの掃討に行きました!」
ゴレリクが答えると、政治将校は本当の事はわかっていると言いたげな冷たい薄笑いを浮かべた。
「隊長を呼んで来い、すぐにだ!」
ゴレリクが転がるように走り出すと、間もなく背後で戦車のハッチが閉じる音が聞こえた。
振り返ると、政治将校の姿が消えていた。
戦車のエンジンが始動し、砲塔がぐるりと回る。
何だ、何をする気だ?
ゴレリクは呆気にとられ、口を大きく開けたままその戦車を見詰めた。
戦車は数メートル後退し、そして主砲を続けて撃った。
たちまち、小隊の残りの二両の戦車が炎上する。
呆然と立ち尽くすゴレリクの目の前から、その戦車は悠然と去っていった。
信じられない思いなのは、ムンメルト少将とミュンヘベルク師団の兵士らも同じだった。
「まさか、敵の戦車を奪って来るとは……」
襟元で輝く騎士十字章は飾りではない。ムンメルト少将はペーターの顔を改めてまじまじと見た。そう言えば以前、負傷兵を含む部下と共に敵地に取り残されながら、敵の戦車を奪って戻って来た英雄的なSS将校の話を聞いた覚えがある。
「そうか、あれは君だったのか」
「大袈裟なデマですよ、ゲッベルス大臣お得意の……」
ペーターは居心地悪げな顔で視線を逸らし、横を向いたまま皆に言った。
「さあ、橋の掃除にかかるとしますか」
市内にまだ残っていたSSと国防軍の生き残り達が力を合わせ、脱出路を切り開いてエルベの西へ向かう戦いを始めた。その噂は、第九降下猟兵師団のマックス・シュペートには救いの神の声のように響いた。
シュペートは放り出してあったライフルを拾って立ち上がった。ライフルの作動と残りの弾薬をチェックし、水筒や雑嚢を吊るしたベルトを締め直す。
よし、やってやるぞ!
シュペートは生まれて初めて、胸の中に戦う意志が熱く燃え上がるのを感じた。
これは国家や主義主張といった得体の知れないものの為ではなく、マックス・シュペート自身が生き延びる為の戦いだった。
ペーターの部下のウクライナやバルト出身の兵士らは、もちろんロシア語を流暢に話せた。そしてそれは、この場面でとても有効な武器になった。
ペーターらが奪った《イシオフ・スターリン》重戦車は、怪しまれぬよう、ゆっくりと橋の上を進んだ。ペーターはSSの制服の上に奪った戦車の中に残されていたロシアの戦車兵の革コートを羽織り、そのロシアの戦車の運転席におさまっていた。砲手と装填手は、どちらもウクライナ出身のSS兵士だ。そして先日奪ったロシア軍の政治将校の軍服を着込んで車長席から身を乗り出しているのは、ラトビア人のSS軍曹リストニツキイだ。
「焦るな、ゆっくり行け」
ペーターはそう呟きながら、汗ばむ手で操縦桿を握り締めた。
全力で突っ走り対岸の対戦車砲を踏み躙ってやりたい気持ちを必死で抑え、友軍のふりをして《イシオフ・スターリン》を進める。
倒れているドイツ兵の死体は極力避けて進んだ。しかし行く手を阻む装甲兵員輸送車の残骸は、戦車をぶつけ押しのけて行かざるを得ず、その時は奥歯を噛み締め、シュプリューゲSS中尉と死んだ部下達に心の中で詫びた。
橋を進むそのペーターの重戦車に、対岸に陣取る対戦車砲も機関銃も火を吹かない。
ただ橋を三分の二ほど渡った頃、対戦車砲部隊を指揮するロシア将校が向こう側から出て来て何事か怒鳴った。
戦車長の席から、リストニツキイがペーターに声をかけた。
「どこの部隊かと聞いています」
「構わん、適当に答えておけ」
頷いて、リストニツキイはロシア語で何か言った。
しかしロシア将校は納得しかねている様子だ。
「袖の政治将校の印を見せつけてやれ」
リストニツキイは頷き、高圧的な調子で相手のロシア将校を叱った。
しかしその将校が首を横に振るのが、ペーターの運転席のペリスコープからも見えた。
「かなり骨のある奴ですね。合言葉は何かと言っています」
敵のこのロシア将校は、ペーターの部下を大勢殺した憎い奴だ。しかしリストニツキイも、どこか敵ながら天晴れと言いたげだ。
「合言葉、君はわかるか?」
「いえ」
わかる筈ないでしょうと言いたげな苦笑いが、リストニツキイの顔に浮かぶ。
「ここまでだな」
ペーターは発砲を命じた。橋の対岸に《イシオフ・スターリン》の巨大な一二二ミリ砲の榴弾が敵陣に飛んで行き、同軸機銃も唸る。
一発目の砲弾が炸裂し、あのロシア将校と対戦車砲を一門吹き飛ばすと同時に、敵の他の対戦車砲の位置も浮かび上がらせた。
しかし二発目の砲弾を撃つ前に、敵の残りの対戦車砲が火を吹いた。激しい衝撃に車体が揺らぐが、《イシオフ・スターリン》の分厚い傾斜装甲は敵の砲弾を跳ね返した。
敵は作戦を変え、重戦車のキャタピラに砲弾を集めた。たちまちキャタピラが吹き飛び、転輪が曲がる。駆動系を損傷した《イシオフ・スターリン》は半回転して橋の欄干にぶつかりかけ、ペーターは危うく川に落ちる前に急停止させた。
しかしキャタピラを破損して動けなくなっても、戦車の砲塔はまだ生きている。ペーターは榴弾を続けて向こうに撃ち込ませ、残る対戦車砲と重機関銃を片付けた。
そのペーターの《イシオフ・スターリン》の脇をミュンヘベルク師団の歩兵らが銃を構えて脇を駆け抜けて行き、川沿いの建物に籠もるロシア兵を追い出しにかかる。
午前四時、ハーフェル川に架かるディシンガー橋がドイツ軍の手に落ち、兵達の歓声が上がった。そしてそれは避難民達の間にも広がり、歓声は更に大きなものになった。
SSと国防軍がロシア軍を撃破し、西への脱出路を切り開いた。
その噂は避難民達に瞬く間に伝わり、人々はシャルロッテンブルクからスパンダウへと群れをなして進んでいった。
その中に第九降下猟兵師団のマックス・シュペートもいた。
これで生きて故郷に帰れるんだ、ロシア兵にも捕まらずに済む。
そう思うと、足取りは自然に早くなった。夜はもうじき明けるし、ロシア軍の攻撃がまた始まるだろう。その前に、シュペートはベルリンから一歩でも離れておきたかった。
しかしスパンダウのハーフェル川に辿り着いた瞬間、シュペートの希望はずたずたに引き裂かれた。
ディシンガー橋の上で黒々としたシルエットを浮かび上がらせていたのは、ロシア軍のあの《イシオフ・スターリン》に違いなかった。ロシア戦車に轢き殺される戦友達の姿と絶叫が、シュペートの脳裏にまざまざと蘇って来る。
橋に陣取る戦車の上にはロシア兵が乗っていて、大きく腕を振り、通り過ぎて行く人々に先に進めと促している。
行け、急げ! 戦車の上のロシア兵の怒鳴り声が、シュペートの耳にも聞こえてくるような気がした。
畜生、クソったれのロシア野郎め。俺はお前らなんぞに捕まらないぞ、絶対に!
シュペートはライフルを構え、戦車の上のロシア兵にゆっくりと狙いを定めた。
生き残ったドレシャー戦闘団の兵は、僅か一七名にすぎなかった。多くの血を流して占領したその橋の上で、ペーターは部隊の解散を宣言した。
「戦友諸君、ここから先は各個に別れて、自分の行きたい所に逃げてくれ。幸運を祈る」
そしてリストニツキイらロシア系のSS隊員には、一人一人にヴェーゲナーから届けられた国防軍兵士の軍隊手帳を配った。
その傍らをミュンヘベルク師団の兵士と避難民達が通り過ぎ、西を目指して歩いて行く。
ドレシャー戦闘団の兵達は別れを惜しみつつ、握手や抱擁を交わし合い、一人、また一人と西に向かう人々の波の中に姿を消していった。
ミュンヘベルク師団の司令部もディシンガー橋を渡り、傍らを通り過ぎる時には誰もがペーターの手を握っていった。ムンメルト少将は無言のまま頷いて、ペーターの手を両手で強く握り締めると西へと去って行った。
ありがとう、よくやってくれた。避難民達の中にも、感謝の言葉を投げかけて通り過ぎて行く者が少なくなかった。
その中から可愛らしい少女が飛び出してきて、大きな青い瞳を輝かせてペーターに抱きついた。そして両腕をペーターの首に巻きつけ背を伸ばし、頬に唇を押しつける。
ハンナ・ベルツだった。
まだ残るドレシャー戦闘団の兵達が冷やかす声の中、ハンナはまた飛ぶように橋を渡る人々の波の中に戻り西へと消えていった。
「お前らも早く行け」
ペーターは何度もそう促したのだが、クナウアーSS伍長勤務上等兵など長いこと一緒に戦ってきた数人の古参兵は、一緒に西に行きましょうと言って聞かない。
「わかった、わかった。一緒に行こう」
根負けしてそう言いつつ、ペーターは橋を渡って西に向かう人々の姿を飽きずに眺め続けた。
ペーターはロシア軍の戦車兵のコートを着たまま《イシオフ・スターリン》のフェンダーに飛び乗り、橋を渡って行く避難民達に手を振った。
「頑張れ、気をつけて行けよ!」
史生と視線が合うと、ペーターは笑顔を向けた。
再会して初めて、史生は旧友の心からの笑顔を見た。
しかしその次の瞬間、ペーターの姿は橋の上から消えた。
どこからか飛んで来た一発の銃弾にペーターはのけ反り、橋の欄干を越え暗いハーフェル川の中に転げ落ちていった。
一瞬前までペーターがそこに居た筈の戦車の上には、擦り切れて形の潰れた将校制帽だけが残っていた。
やった、イワンの野郎を仕留めたぞ!
弾が命中した手応えに、マックス・シュペートは躍り上がった。
しかし彼の喜びは、すぐに恐怖へと変わった。
「ぶち殺してやる、俺達の隊長を撃ちやがって!」
人の波を掻き分け、SSの兵士らが突撃銃を抱えてシュペートの方に突進して来る。
何だって……俺達の隊長?
彼らの言葉を胸の中で反芻する。
馬鹿な……そんな……。
しかし彼らは、確かにこう怒鳴っていた。
「隊長を撃った奴を逃がすな!」
彼らの目当てが誰なのかは明らかだ。
シュペートはライフルを放り出し、向きを変え東の方に全速力で走りだした。
違う、俺はそんなつもりじゃなかったんだ!
走りながらシュペートは叫び続けた。
知らなかったんだ、許してくれ!
しかしSSの連中に、そんな言い訳が通用する筈もない。
彼らは目を血走らせ、シュペートのすぐ後ろを悪魔のような形相で追いかけて来た。突撃銃が連射され、弾丸が耳元をかすめるように飛んで行く。
嫌だ、殺さないでくれ!
シュペートは走りながらベルトのバックルを外し、雑嚢や水筒もみな投げ捨てた。そして息の続く限り走り続け、男達の陽気な笑い声が聞こえて来る建物の中に飛び込み、助けを求めた。
その家の中は勝利を祝う酔っ払ったロシア兵たちでいっぱいだった。飲み、食い、そしてバラライカに合わせて懐かしい祖国の歌を唄っている。
シュペートは両手を高く上げて叫び続けながらその中に飛び込み、カリンカの独唱を素っ頓狂な輪唱に変えた。
「助けてくれ、殺さないで!」
その場に居合わせて笑い出さなかったのは、せっかくの独唱を台なしにされたロシア兵だけだった。
アンドレイ・メレホフ少佐も、彼なりにベルリンのドイツ軍の降伏を祝っていた。ハーレンゼー湖畔の別荘風の洒落た家を自分専用の宿舎として占拠していた彼のベッドの中には裸の若い女が横たわり、枕元にはコニャックの瓶が置かれていた。
メレホフはその女を一昨日の晩に拾った。文字通り本当に拾い上げたのだ、ラントヴェール運河の中から。
女はまだ一六歳か一七歳くらいのドイツ人の少女で、衣服はずたずたに破られていた。
何があったのか、聞くまでもなかった。毎夜毎夜、大勢の兵隊から暴行を受け続け、耐えかねて運河に飛び込んだに違いなかった。
だが死に切れずに水面に浮いているところを、メレホフが見つけて拾い上げた。
その時の少女は意志も気力も殆ど失っていて、周囲の事にも自身の事にも殆ど関心を示さなかった。
メレホフは少女をとりあえず自分の宿舎に連れ帰った。
濡れた服のままでは風邪をひく、着替えさせなきゃな……。
心の中でそう言い訳しながら、メレホフは少女の服を脱がせた。そして──。
メレホフから見れば、少女は自分の娘とも大して変わらないような年齢だった。しかし彼は、その年頃の少女がたまらなく好きだった。
その時、少女は抵抗しなかった。勿論それは納得して受け入れたのではなく、ただ全てを諦め切ってなすがままにされていただけだ。
あの男が生きていてこれを見たら、何と言うだろうか。メレホフはユーリ・スミルノフ大尉の引き締まった厳しい顔を思い起こした。
良い奴だったとは思う。だが、する事なす事一つ一つに細かく文句をつける、口うるさいお袋さんみたいな奴でもあった。
スミルノフがいたら、こんな事は絶対に許すまい。そうは思うものの、メレホフは少女に溺れて行く自分を止める事が出来なかった。
「俺のものになれ。優しくする。約束する。欲しいものは、何でも手に入れてあげよう。俺は赤軍少佐だ、それくらいの力はある。それに、他の奴らには君には指一本触れさせない。だから、な……」
メレホフは一旦言葉を切り、少女の反応を窺う。しかし少女はガラス玉のような目で見返すだけで、何の表情も読み取れなかった。
「俺のものになってくれるか?」
少女は黙ったまま小さく頷いた。大勢に酷い事をされるくらいなら、相手が一人だけの方がまだ……。
「良かった。じゃあ、まず名前くらい教えてくれ」
「エルナ・ウルマン」
少女は平板な声で呟くように答えた。それが三日間一緒に過ごした後に、メレホフが少女から聞いた初めての言葉だった。
エルナは親友のハンナが米英軍の占領地区を目指して西へ逃れたことを知らないし、ハンナもまたエルナがどれほど酷い目に遭わされたかを知らない。
「どうして、今になってそんな……」
ケーテは息を飲んでハーフェル川の暗い水面を覗き込んだ。史生も並んで必死に目を凝らしたが、ペーターの姿は水面のどこにも見当たらなかった。
川を眺め続ける二人の後ろを、大勢の避難民が通り過ぎて行く。
史生は長い溜め息をついた。
今はとりあえず、生きている者の事を考えなければ。
史生はケーテの肘にそっと手をかけた。
「僕と一緒に行こう」
一瞬、ケーテは驚いたような表情を見せた。
「ロシア軍が来る前に、早く西に行かないと」
ケーテは唇の端を噛んだまま黙り込み、その後で意を決したような硬い口調で言った。
「ごめんなさい。私、どこにも行かない。ベルリンに残るの」
「残るって、君は何を……」
頬を平手で打たれたような顔で、史生はケーテを見詰めた。ベルリンの女達が今どんな目に遭わされているか、彼女が一番よくわかっている筈ではないか。
ケーテはディシンガー橋の欄干に片手をかけて右足を振り、蹴るようにしてブーツを脱いだ。そして雑嚢からメスを出し、ブーツの底の革の縫い目を切り裂いた。
「ごめんない、これが本当の私なの」
ケーテがそこから取り出して見せたのは、ロシアのキリル文字が並ぶ身分証明書だった。
「私は赤軍の、NKVDの中尉です」
「ケーテ、君はロシア人だったのか?」
「いいえ。私はドイツ人で、名前も本当の名前よ」
ケーテが史生やペーターに語った身の上は概ね真実だった。ケーテは東部ドイツで生まれた、生粋のドイツ人だ。ただ話していなかったのは、両親が共に熱心な共産党員で、ヒトラーがドイツの政権を取るとすぐに一家でロシアに亡命した事だ。
一九四一年にドイツとロシアの戦争が始まると、その影響はケーテ達にも及んだ。ドイツ人だという事で周囲のロシア人達から冷たい目で見られ、様々な嫌がらせも受けた。
ケーテはそれでもロシア人を恨まず、悪いのはドイツ人なのだからと思って耐えた。ヒトラーとナチが戦争を仕掛けてロシアにどれだけ酷い事をしたかは、ケーテもよく知っていた。
そして一家がまだドイツ国内にいた頃、幼かったケーテは両親がナチスの突撃隊に苛められるのを見ていた。そんなナチスを、ドイツ国民は政権の座につけた。だからケーテのドイツに対する感情は、親しみよりも憎しみの方が強かった。ケーテにとって、ドイツは両親を追い出してロシアの友人達を苛める酷い国だった。
それでドイツに対する諜報工作員としてNKVDにスカウトされた時、ケーテはためらわずに話を承諾した。そして《ヒバリ》の暗号名を与えられ、一九四五年の一月にはロシア軍がドイツ国内に侵入するのに合わせてドイツ人の避難民の中に紛れ込んだ。
「でも、駄目ね。私はやっぱりドイツ人なんだ……って、いやって言うほど思い知らされちゃった」
数年ぶりに戻った祖国で多くの人々と出合い、その人達に助けられもして。そしてまた、ロシア人の残虐行為も幾度となく目撃した。人民の為の解放軍である筈の赤軍兵士達が金品を強奪し女達を犯すのを目にする度に、ケーテは胸が悪くなった。
この世の中で何が善で何が悪なのか、ケーテにはよくわからなくなってしまっている。かつてあれほど輝いて見えていた共産主義すら、光を失い色褪せて感じられるようになってしまっていた。
今のケーテにはっきりわかっているのはただ一つ、自分はドイツ人で、ここが祖国なのだという事だけだ。
「だから私は西にも行かないし、ロシアにも戻らない。このままベルリンに残って、この戦争で苦しんだドイツの人達の為に尽くしたいの。ナチスとロシアの両方に傷つけられて苦しめられたこの国を、平和で良い国に新しく生まれ変わらせたいの」
史生は言うべき言葉を失っていた。いろいろな思いや感情が波立ち、胸の中で渦を巻く。
これでお別れだ。ケーテはドイツに残り、史生は日本に帰る。そしてもう二度と会う事は無いだろう。口には出さなかったが、その事は史生もケーテもよくわかっていた。それだけにどちらもこの場を去りがたく、二人は押し黙ったままハーフェル川の橋の上で佇んでいた。
地平線の辺りから、空が紅色に染まりかけて行く。夜が明けて行くにつれて避難民の数は減って行き、入れ替わるようにロシア兵の姿が増えてきた。
酔っ払っい、肩を組んで大声で歌をがなり立てながら橋を渡っていた五人組のロシア兵が、ドイツ国防軍のオーバーコートをまとったケーテに目を留めて寄って来た。
「フラウ!」
卑猥な笑みを浮かべて抱きつこうとしたロシア兵の横面に、ケーテの平手が飛んで鞭のような鋭い音をたてた。
唸り声をあげ短機関銃を構えかけたロシア兵達の鼻先に、ケーテはNKVD将校の身分証明書を突きつけ、早口のロシア語で罵る。そのケーテの口調はナイフの切っ先のように鋭かった。
ロシア兵達は、まるで毒蛇と出くわしたかのように逃げて行く。
しかし振り返って史生と向き合った時には、ケーテは可愛らしい少女に戻っていた。そして柔らかな暖かい声で、囁くように言う。
「これまでいろいろ優しくしてくれて、一生懸命私を守ろうとしてくれてありがとう。これからは私がフミオを守って、必ず日本に帰してあげる」
ケーテは史生を連れてベルリンの官庁街に戻り、新たに置かれたNKVD本部に行った。彼女はそこでハーケンクロイツのマークを削り取った跡が塗装に残るフォルクスワーゲンと運転兵を調達して、史生をポーランド国境のランズベルク駅まで送った。
ベルリンからポーランド国境までは、約八〇キロ。フォルクスワーゲンの狭い後部座席に並んで座っていた二時間、史生とケーテは殆ど言葉を交わさなかった。
胸の中は言葉にならない様々な思いで、今にも溢れそうになっている。もっといろいろな事を話しておきたい。そう思いつつ、一旦喋りだしたら最後、未練がましい女々しい言葉を口にし、涙さえ落としてしまいそうで、史生は唇を固く閉じて堪えていた。
列車に乗り込む直前、ケーテは黙ったまま唇を寄せ、頬ではなく史生の唇に軽く柔らかく重ね合わせた。
間もなく汽笛が響き、史生を乗せた列車はケーテを駅のホームに残して東に動き出した。
列車はモスクワを経由してシベリアを通り抜け、まだ開かれていたソ満国境を越えて満州に着いた。さらに鉄道と船を乗り継いで史生が日本に着いた時には、暦は既に五月下旬になっており、東京は度重なる空襲を受けて焼け野原と化していた。