第11話 一九四五年四月二七日(ベルリン)
文字数 12,695文字
「フミオ!」
隣でコートにくるまって横になっていたケーテが史生の袖を引き、街を燃やし続ける炎の中に僅かに輪郭が浮かび上がって見えている装甲兵員輸送車を指さした。
例の負傷兵用のやつだ。二人は揃って、そこに頭を低くして駆けて行く。
戦闘は昨日とほぼ同じ過程で続いた。ロシア軍の歩兵は機関銃や
抵抗の激しさと犠牲のあまりの多さに、メレホフ少佐もスミルノフ大尉も青ざめ顔を引き攣らせて攻撃開始地点まで幾度も後退した。しかし圧倒的な兵力と物量にものを言わせ、徐々にではあるがロシア軍は確実にその占領地域を広げていった。
正午過ぎに、度重なるロシア軍の猛攻を撃退してきたミュンヘベルク師団が力尽き、テンペルホーフ空港から後退し始めた。僅か十両だが優秀なパンター中戦車と強力なティーガーⅠ重戦車を持つミュンヘベルク師団は、超重戦車ケーニヒスティーガーのみで編成されたSS第五〇三重戦車大隊と並んで最も頼りにされていた部隊だった。
そのミュンヘベルク師団が撤退したため、隣を守っていたドレシャー戦闘団はロシア軍の攻撃をもろに受けるはめになった。軽装甲の車両と僅か二百余りの兵しか持たないペーターの部隊に、ロシア軍の猛攻を撥ね返す力などある筈もない。
全滅を避けるには撤退以外に道はなく、ドレシャー戦闘団もラントヴェール運河を越えてクロイツベルク北部に後退した。
戦いは、ベルリンの外でも続いていた。
幾万もの人々が長い行列を作り、西を目指してベルリン郊外の野原を進んでいた。
ドイツ第九軍に残った僅か数両のケーニヒスティーガーを先頭に、突撃銃や手榴弾を握り締めた兵士らが側面を固め、女や子供らが弾薬や食料などを抱えてその後に続いた。
彼らにとって西は生きる希望の象徴であり、東は暴虐と死そのものだった。
殺さないでほしい。
女子供に危害を加えないでほしい。
長蛇の列をなして西へ向かうドイツ人達が望んでいたのは、ただそれだけだった。
その中には第二三装甲擲弾兵師団のオットー・ゼンガー軍曹も、そして痩せっぽちの少年兵パウル・リッターもいた。
戦闘は絶えず続いていた。行く手に立ち塞がる雲霞のようなロシア軍は死に物狂いの戦いで突破せざるを得なかったし、追いすがるロシア軍の戦車はパンツァーファウストを手に肉薄攻撃をかけて潰さなければならなかった。その為に幾多の戦友が命を落としたが、ゼンガーとリッターは生き延びていた。
少なくとも、今日までのところは。
ゼンガーの家はドイツ北西部のブレーメンで、今頃はイギリス軍に占領されている筈だ。だから西の連合軍の占領地区まで辿り着けさえすれば、家族にまた会える。
死んでたまるか。どうあっても生きて帰り、女房と子供たちをこの腕に抱き締めるのだ。
その望みがあるから、ゼンガーの足取りはしっかりしている。
しかしパウルの生家は東プロシアのハイリゲンベルクで、とうにロシア軍に占領されている。そしてロシア兵どもが占領地でドイツの民間人にどんな酷い事をしているかは、パウルもその目で見てよく知っている。
パウルの両親と妹も、ロシア軍の戦車に追われながらポメラニアの雪原を逃げ惑ったか。それとも街に残り、悪鬼のようなロシア兵の手にかけられたか。どちらにしても彼が家族と生きて再会できる可能性は、まず無いものと思わざるを得なかった。
僕は本当に生きていたいのだろうか。
それすらも、パウルにはわからなかった。
疲れた。足が重く痛い。頭の中は真っ白で、殆ど何も考えられなかった。
パウルには体力も気力も残ってなかった。ゼンガー軍曹に怒鳴られ小突かれて、意志のない人形のようにただ前に進んでいるだけだった。歩けと背中を押されるから、足を前に出す。伏せろと突き飛ばされるから、地べたに転がる。撃てと怒鳴られるから、ライフルの引き金を引く。
重い足を引きずって森の中の道を歩いていたパウルは、不意に銃を放り出して道の脇にうずくまった。
「またかよ、おい」
ゼンガーが苦い顔を見せる。
すみませんと切れ切れに呟きながら、パウルは道の脇の草の上に吐いた。
撤退する時に持てる限りの食料を持ち出してきたから、食べ物なら充分過ぎるほどあった。ハム、ソーセージ、缶詰、ビスケット、チョコレート。日持ちしそうな食料を、持てるだけ持ってきた。ただパウルの胃が、どんな食べ物も受けつけてくれなかった。
極度の疲労で働きを止めてしまった胃が痙攣を起こして痛み、何かを食べるとそれを吐き出す結果になった。
「いいからさっさと吐いちまえ。行くぞ、皆に遅れるな」
「すみません、軍曹殿」
返事はしたものの、身につけている装備品がひどく重く感じられた。水筒、飯盒、ポンチョ、スコップ、銃剣、食料を詰め込んだ雑嚢、そして筒型の金属ケースに入ったガスマスク……。中でもライフルは背負うとスリングが肩に深く食い込み、泣き出したいほど痛んだ。自分の体一つでさえ持て余しているのに、これらの重い装備を背負ってエルベ川の西まで辿り着けるとはとても思えなかった。
エルベ川まで、あとまだ八十キロはある。第九軍の脱出を援護してくれる筈のヴェンク将軍の第一二軍も、優勢なロシア軍と交戦中という事で、なかなか姿を現してくれない。
「坊や、ライフルを貸しな」
声をかけられて振り向くと、太った女がリッターの顔を覗き込んでいた。年の頃は四十を少し越えたくらいだろうか、いかにも農家の主婦らしい風貌で、機関銃の弾丸が詰まった重い金属ケースを二つ、振り分け荷物のように軽々と担いでいた。
「そんな……とんでもないです、申し訳ない」
「心配しなさんな。ちゃんとあんたにくっついてって、撃ち合いが始まったらすぐ返してやるからさ」
「でも……」
「いいから任せなって!」
パウルの肩からむしり取るように、女はライフルを取り上げた。
「いいだろ、ねえ軍曹さん。可哀想じゃないか、まだほんの子供なのにさ」
「しょうがねえな……。悪いな、おばさん」
ゼンガー軍曹が酸っぱい顔で頷く。
ライフルを預けてしまうと、嘘のように体が軽くなった。それで少し元気を取り戻したパウルは、ふらつく足を踏みしめてゼンガー軍曹の後をついて行った。
軍曹は暫く不機嫌な顔で黙ったまま歩いていたが、やがてぼそぼそと話し始めた。
「なあリッター、俺達が何故まだ戦ってるか、わかるか」
「は……」
「死にたくねえのは、誰だって同じよ。だが、俺達は男だろ。女や子供らを守る為には、体ぁ張って頑張らなきゃいかん」
パウルは返す言葉もなかった。
「今はいい、仕方ねえ。お前が死ぬ程ばてているのもわかる。だがな、イワンの野郎どもが出て来やがったら、そん時にゃ気合を入れて戦えよ。お前は守ってやらにゃならん女子供に、でっかい借りを作っちまったんだからな」
ある意味では、スミルノフ大尉もまたドイツの民間人達の為に戦っていた。
メレホフ大隊は手負いの虎のように戦うSSの兵士どもを追い出して、ラントヴェール運河以南の地区を手に入れた。戦況報告のため師団本部に出向いたメレホフ少佐とスミルノフは、そこで師団の参謀キッチェンコ中佐に呼び止められた。
「よく頑張ったな、同志達」
キッチェンコは昨日とはうって変わってにこやかだった。そして笑顔のままスミルノフに目を向けた。
「同志大尉、君が勇敢なのは認める。ただ君は、祖国の敵に寛容過ぎるのではないかね?」
「どういうことでしょう、同志参謀」
「聞くところによると、君はドイツ人どもに妙に親切だそうではないか。君がファシストどもに示している好意は危険な程だと、各所から苦情が来ておる」
お前はそれでも愛国者の共産党員か。キッチェンコは、言外にそう当てこすっていた。
「同志中佐」
スミルノフはレーニン勲章をつけた胸を反らし、小柄でずんぐりとしたキッチェンコを上から睨み下ろした。
「私だけでなく私の家族の者は皆、祖国に命を捧げ忠誠を尽くしています。ナチを憎む気持ちは誰にも負けません!」
赤軍の政治委員だったスミルノフの父は、開戦初期にセバストポリ要塞を死守して壮烈な戦死を遂げた。スミルノフの長兄もまた赤軍将校としてレニングラード防衛戦で戦死し、次兄もパルチザンとして活動中にゲシュタポに捕らえられて惨殺されている。
スミルノフ家は救国の英雄を輩出した模範的な共産党員の家族として有名になったが、故郷の家には母親と妹しか残っていない。家族でまだ生き残っている男は、スミルノフただ一人になってしまった。
「わかっている、わかっているとも」
キッチェンコは無意識に半歩下がった。
「君の態度が兵達の誤解を招いている。俺はただそう忠告しているのだ」
「ご忠告、感謝します。しかし私は戦場にあっても軍規は常に正しく保ち、赤軍の名を辱めるような行為はしてはならないと思っております」
「なあ同志大尉、君は大学も出ているし頭も良いが、兵士の気持ちというやつがよくわかっておらんようだな。祖国を遠く離れ、戦火をくぐり何度も死ぬような目に遭っているのだ。少しばかり羽目を外して敵の女に悪さをしたくらいで、いちいち目くじらを立てて責めることはあるまい? 理屈はどうあれ少しは大目に見れんのかと、師団長閣下もこぼしておられたぞ」
「しかし非戦闘員の市民に対する略奪暴行は国際法にも触れますし、わが赤軍の名誉を汚す恥ずべき行為と思います」
キッチェンコは鼻を鳴らし、小僧っ子めと嘲るような口調で言った。
「いいかね同志大尉、戦争に負けたのだという事を、ドイツ人どもに骨の髄までわからせてやらねばならんのだ。二度と立ち上がる気になれんように奴らを徹底的に叩きのめしておくことは、政治的、軍事的な見地からも必要なことなのだ」
「ですが憎むべきはヒトラーとナチで、ドイツ人民は敵ではないと、同志スターリンも言っておられたのではありませんか? ナチは厳罰に処すべきです、しかし人民には寛大に接するべきだと私は考えます」
馬鹿が。話を脇で聞いていたメレホフは胸の中で呟いた。この若造は、世の中には裏と表というものがある現実を知らんのか。偉大なる同志スターリンのお言葉とて、その例外ではない。
殺人、略奪、強姦。兵士達がドイツ人に何をしても罪には問うなと、スターリン自身が指示を出していた。それどころか、出来るだけ多くのものをドイツから奪い取ってロシアに送れと指示してもいた。
この若造の動きを、よく気をつけて見ていよう。キッチェンコはキッチェンコで、そう腹を決めた。こいつの親ドイツ的な言動を上層部に報告すれば、戦争の英雄だろうが、叔父が党役員だろうが、きっと痛い目に遭わせてやれるだろう。
戦争はもうすぐ終わる。それは誰の目にも明らかだった。そうなれば勲章をぶら下げた小生意気な戦争の英雄など、すぐに邪魔にされるようになる。
スミルノフ自身の手も、実は血で汚れていないわけではなかった。スミルノフの父と兄達はドイツ軍に殺され、故郷スモレンスクもナチの軍靴に踏みにじられた。
スミルノフは祖国の危機を救う為と言うより、ドイツ人どもに復讐する為に赤軍に身を投じた。キエフ大包囲戦、そしてモスクワ冬期戦。戦場で彼は熱狂的に戦い、両手を上げて投降したドイツ兵らをその場で撃ち殺す事も辞さなかった。必要とあらば、スミルノフは捕虜のドイツ兵を拷問にも平気でかけた。
しかし長く戦い殺し合う続けるうち、心の中で何かが変わった。
戦局の転機となったスターリングラードの戦いで、パウルス元帥とドイツ第六軍が降伏した後には、数え切れないほどのドイツ兵の死体が残されていた。そしてその中には、降伏した後でロシア兵に射殺されたものも少なくなかった。
スミルノフらロシア軍は、凍りついた幾万ものドイツ兵の死体をどこまでも広がる雪原に山と積み上げて焼いた。それが燃え尽きるまでには何日もかかり、その間スターリングラードは巨大な火葬場と化した。その時の人肉が燃える臭いが、スミルノフの鼻の奥にこびりついて今も離れずにいる。
ドイツ軍との戦いは凄惨を極めた。ドイツ人どもは人の皮を被った血に飢えた獣だ。スミルノフは初め、そう思っていた。しかしロシア軍が反撃に転ずるようになると、今度はロシア兵の残虐さが目につくようになった。
スターリングラード市街戦でもハリコフ攻防戦でも、スミルノフはドイツ兵を文字通り切り刻んでいるロシア兵達を見た。彼らは捕虜にしたドイツ兵らを針金で縛り上げ、銃剣で目玉をくりぬき、耳や鼻をそぎ手足を切り落とし、性器すら切断してのけた。捕虜を生きたまま火の中に放り込んで焼き殺す事さえ、彼らは辞さなかった。
彼らは言う。ドイツ軍はもっと酷いことをしてきた、これは当然の仕返しだ……と。
しかし……。
スミルノフは自問自答した。
何故なのだ。人が人に対して、何故ここまでやらねばならぬのだ?
たとえ相手が獣だとしても、なぜ己まで獣に堕ちねばならぬ?
一九四四年の秋、ロシア軍はチトーが率いるパルチザンと呼応してユーゴスラビアに進攻し、首都ベオグラードをドイツ軍から解放した。そしてその時に見た光景が、スミルノフの心の中を根底から変えてしまった。
ベオグラードで降伏したドイツ兵は約三万だったが、チトーとパルチザンが彼らにした報復は、残虐行為と冷血さで知られ後にドラキュラのモデルになった《串刺し公》ことブラド・ツェペシュ顔負けだった。
捕虜を塹壕の縁に並べ、機関銃で撃ち殺す。ベオグラード周辺の塹壕は、射殺されたドイツ兵の捕虜で一杯になった。
しかし彼らは、降伏した他のドイツ兵らに比べればまだ幸せだった。
移送途中の列車の中で発見された五千名の負傷兵は、残らずナイフで切り刻まれて殺された。
捕虜をビルに閉じ込め、ビルごと爆破して生き埋めにする。
捕虜を一列に並べ、端から棒で殴り殺して行く。顔と頭を潰されて転がっているドイツ兵らの死体を見た時には、戦場で死体を見慣れていたスミルノフですら目を背けた。
赤十字の看護婦や通信補助員などの軍属の若い女性達もまた、ドイツ兵と一緒に捕らえられた。彼女らはさんざん輪姦された上で太い杭を足の間から打ち込まれ、文字通り串刺しにされて殺された。
それを見たスミルノフは、胃袋の中のものをすべて吐き出していた。彼女らは非戦闘員であるにもかかわらず、ただドイツ人であるというだけでこれ以上ない方法で惨殺された。
ロシア軍に制止されるまで、チトーとパルチザンの兵士は降伏したドイツ兵を飽くことなく殺し続けた。彼らの報復の残虐さは、情け知らずのロシア軍でさえ呆れさせた。
だがロシア軍が虐殺を止めさせた時には、降伏したドイツ兵の殆どが殺されていて、その多くが戦犯でも何でもないただの兵士達だった。
性器から内蔵を串刺しにされ、長い時間想像も出来ぬほど苦しんだ末に死んでいったドイツ人女性の姿が、今もスミルノフの脳裏から離れない。
ナチが占領地でどれだけ酷い事をしたかは、スミルノフもよく知っている。しかしチトーとセルビア人のパルチザンにも、ヒトラーとナチを責める資格はない。スミルノフはそう確信している。
スミルノフの目には、ユーゴスラビアでの戦いは血に飢えた獣同士の醜悪極まりない殺し合いにしか見えなかった。
例え相手が獣でも、己まで獣に堕ちてはならない。
ベオグラードでの大虐殺を見た後、スミルノフのその思いはより強固で揺るがぬものとなった。
だからスミルノフは、部下の兵士らに繰り返しこう言い聞かせた。手を上げて降伏した兵は殺すな、民間人から略奪をするな、そして女を犯すな、と。
話のわからぬ、石頭の政治将校め。兵士らのそんな陰口は、スミルノフの耳にも入っていた。だがそれは誰に対しても決して譲れない、彼の人としての誇りでもあった。
ロシア軍がもう目の前まで迫っている。その事を知って、辺りの住人達はみな浮足立っていた。貴重品の隠し場所に頭を悩ませる者もいれば、妻や娘らをどこに隠せば良いか悩んでいる者もいた。持てるだけの物を持って、市内のまだドイツ軍の支配している地区に逃げ出した者も少なくなかった。
しかしゲオルグ・ベルツは違った。彼は貴重品をどこかに隠そうとは思わなかったし、妻や娘の身に危害が加えられるとも思っていなかった。
ナチが政権を取るまでは共産党の親派だったベルツにとって、敵とはナチスと親衛隊であり、ロシアの赤軍は解放者だった。避難する民間人にロシア兵がどんな振る舞いに及んだか、ベルツも噂で聞いてはいた。しかし彼は、それはゲッペルスと宣伝省の悪質なデマだと信じていた。
「湯を沸かせ、お茶とケーキをすぐ出せるようにしておくんだ」
ベルツは妻と娘にそう命じた。
待ちに待った解放軍なのだ、温かく迎えなければ。
ゲオルグ・ベルツは本気でそう考えていた。
「届きました、《ヒバリ》からの報告です」
NKVDのチェルネツォフ大佐の机に、フョードロフ上級中尉は一枚の紙をそっと差し出した。
独軍、特ニひとらー親衛隊ノ士気高シ。戦意、未ダ挫ケズ。強襲ハ多大ノ犠牲ヲ伴ウモノト覚悟サレタシ。ソレヨリ補給ヲ断チ、降伏セザルヲ得ナイ状況ニ追イ込ムベキカト思ワレル。
溜め息と一緒に、チェルネツォフはその紙片を投げ出した。
「その方が良い事は、わかってはいるのだがな」
「上層部は、やはりメーデーまでにベルリンを落とせ……と?」
チェルネツォフは苦い顔で頷く。
「それにしても、奴らは何故まだ手を上げて出て来ないんでしょうか。勝ち目が無い事は、もう誰の目にもはっきりしているのに」
「考えてもみろ、奴らに希望があると思うか?」
頻発する捕虜の虐殺に、目に余る市民に対する暴行と略奪。産院に入院中の女性達や修道院の尼僧達まで、ロシア兵に輪姦されていた。仮にチェルネツォフがドイツ兵であったとしても、素直に降伏する気になるとは思えなかった。
それにこの状況下で、我が身可愛さに女子供を見捨てて命乞いをするようでは、とても男とは言えぬだろう。
しかし赤軍将校であるチェルネツォフとしては、それは口には出せないことだった。
ラントベール運河を北に渡ったペーターとドレシャー戦闘団は、ヴィルヘルム通りとフリードリヒ通りの間あたりに陣取っていた。瓦礫を盾に機関銃を構え、あるいはパンツァーファウストを握り締めてロシア軍の来襲に備えていると、サイドカー付きのBMWのオートバイがミッテ地区から走って来た。
運転手はSS兵士で、サイドカーには黒い革コートの将校が載っていた。広げたコートの襟の下から覗いているのも、黒の党服だ。
ゲシュタポだ。史生はそう直感した。
兵士らが無関心を装いつつ横目で眺める中、オートバイはペーターの前で止まった。
「よう、久しぶりだな」
ゲシュタポ将校はサイドカーから飛び降り、ペーターを抱き寄せてその肩を叩いた。
「また揉め事を起こしてくれたそうじゃないか。勘弁してくれよ、お前から電話が来るってえと、その度に俺は後始末の尻拭いをしなくちゃならねえ。で、今度の揉め事の元になった連中は、今どこにいる?」
「あそこだ」
ペーターが史生を指さすと、ゲシュタポ将校は大きく手を振って叫んだ。
「こっちに来いよ、日本のサムライ!」
それが誰なのか、史生にも既にわかっていた。
ヨーゼフ・ヴェーゲナー、ゼップだ。史生にしてみれば六年ぶりの再会なのだが、彼は殆ど変わっていないように見えた。この状況下でも元気で精気に溢れ、相変わらず顔には笑みを浮かべていた。そしてヴェーゲナーのコートの肩の階級章は、今やSS大佐のそれになっていた。
「ペーターから聞いたぞ、移動軍事法廷の連中に吊るされかけたんだってな。で、君の連れの可愛い娘というのは?」
史生が目を向けると、ケーテがおずおずやって来た。
「とんだ災難でしたな、フロイライン。だがもう心配は要らない、僕がその筋にきちんと話を通しておきましたから」
にこやかに話しかけ、一礼する。ヴェーゲナーの物腰は優雅とさえ言えたが、その眼差しは捕食性の肉食動物を思わせた。
怯えているのだろう、感謝の言葉を呟くように口にしたケーテは、目を伏せて身を固くしていた。
ヴェーゲナーはケーテの頭の先からつま先までたっぷりと観察した後で史生の方に向き直り、矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。
「記者で取材中なんだと? 物好きだな、死んでも知らんぞ。砲弾は兵隊と民間人を区別してくれんからな。日本の記者はみな逃げたと聞いたが? 大学はどうした?」
ヴェーゲナーのこの問いかけは、地雷原も同じだった。
ここに来るまでに徹底的に調べ上げ、何もかも知り尽くした上で尋ねている。史生はそんな気がしてならなかった。ドイツ軍の支配地域はベルリンの中心部のみになってしまった今もなお、ゲシュタポの組織は機能し続けていた。
迂闊には答えられないが、いちいち考えながら答えてもまた疑惑を招いてしまう。
「日本の記者が皆ベルリンを離れたのは事実です。ですが同盟国の首都決戦は日本にとっても重大な関心事ですし、取材はぜひ続けたい。それで最後までベルリンを離れないつもりでいた僕が、代わりに記者として働く事になったんです。と言ってもこのまま記者になるつもりではなくて、戦争が終わったら僕はまた大学で研究を続けるつもりですが」
なるほど、とヴェーゲナーは軽く頷きながら聞いた。
史生が話したのはすべて本当の事だ。調べられて襤褸が出るような嘘は一つも無い。ただ大使館とのかかわりや、花井に言い含められた事だけは伏せておいた。
「SS大佐ですか、出世されましたね」
「そう言えるかどうか」
ヴェーゲナーは微苦笑を浮かべた。クノッヘンには追いついたものの、シェレンベルクにはまだ負けている。しかもドイツ第三帝国はこの有り様だ、仮にSSの将軍に昇進したとしても、今更何の意味も無いだろう。
「それで今は、どんなお仕事を?」
「とりあえず、ミュラー閣下の副官をね」
史生も驚いたが、その背後に隠れるようにしていたケーテも息を飲んだ。
ハインリヒ・ミュラーSS中将。あのゲシュタポの長官だ。
怯えては駄目だ。史生は胸の中で呪文のように繰り返した。びくついた態度を見せたら、たちまち疑惑を招いてしまうだろう。
「よろしければ、この機会に取材をお願いできますか」
史生は乾いた唇を舌の先で湿して笑顔を作り、ヴェーゲナーにライカを向けかけた。
「おいおい」
ヴェーゲナーは左手を上げ、その手の平で顔を庇った。
「写真は勘弁してくれないか」
「そうでした、貴方の職務をつい失念していました。顔を知られてしまうと、今後の捜査に影響がありますよね」
「その通り」
史生がライカを下ろすと、ヴェーゲナーはにこやかな笑顔に戻っていた。
ただペーターは、ヴェーゲナーの右手の微妙な動きを見逃していなかった。もしも史生が構わず写真を撮っていたら、ヴェーゲナーは躊躇せず史生を射ち殺していただろう。ペーターはそう直感した。
しかし史生はそれに気付かぬまま、記者の真似事を続けた。
「では、今も何か事件の捜査を?」
「そういう事だ。内偵中だから何も話してやれないが、ある党幹部の裏切り行為について調べているところだ。見ていろ、近いうちに大物の党幹部が逮捕されるから。驚くぞ」
「詳しい話を、後で聞かせてくれますか?」
「いいとも、約束しよう」
ヴェーゲナーは真顔で頷いた。
しかしその約束はまず実現するまいと、ペーターにはわかっていた。今の戦況を考えれば、とてもそれどころではなかろう。
そのペーターとヴェーゲナーの視線が絡み合う。
「ちょっといいか。話がある」
ヴェーゲナーは優雅と気障が混ざり合った会釈をケーテに向け、ペーターを少し離れた所に引っ張って行った。
ペーターの肩を抱くようにして、ヴェーゲナーは熱心に語りかけている。しかしその声は史生とケーテの所までは届かない。
「ね、あのゲシュタポの人もフミオのお友達?」
「友達と言えば、まあそうかも知れない」
史生は自分がペーターと友達になった経緯、そしてペーターとヴェーゲナーの関係を掻い摘んでケーテに話して聞かせた。
「でもあの人、すごく怖い。うまく言えないけど、何か毒蛇みたいな……」
「ペーターは?」
「隊長さん? あの人は怖くない。少し頼りなさそうで、何か可愛い感じ」
「ペーターもSSだよ?」
「でも、あの人は良い人だと思う」
ケーテに毒蛇と言われているとも知らず、ヴェーゲナーはペーターの耳に囁きかけ続けていた。
「なあペーター、お前、これからどうするつもりだよ?」
「どうするって、死ぬまで戦うだけさ」
「まさかお前、まだドイツに勝ち目があると信じてるわけじゃなかろうな?」
ペーターは答えられない。
「ドイツはもう駄目だ。それはわかってるだろ?」
「だからって、どうにもできないじゃないか」
ヴェーゲナーは喉の奥を鳴らして低く笑った。
「ハイニがな」
一部のSS高官しか口にしない親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーの愛称を、ヴェーゲナーはさらりと口にした。
「少し前の事だが、SSの幹部連中にハイニが何て言ったと思う? さあみんな、国防軍兵士の軍服を手に入れるのだ、そして西に逃げろ……だと」
「……信じられない」
「嘘じゃないさ、ハイニはとうにヒトラー総統を見限っている。ドイツの敗戦を見越して逃げ出す準備を始めているよ。うちのミュラー長官も同じだ。沈む船と運命を共にするのは馬鹿だけだぜ。だから今ゲシュタポでは、国防軍の兵卒の軍服を集めて偽の軍人手帳をせっせと作っているところさ」
親衛隊とゲシュタポは、敗戦後に戦犯として追われる事になるであろう幹部を第三国に逃がす為の支援機関を既に作り上げてもいた。その秘密組織の名前は、シュピンネと言う。そしてヴェーゲナーは、ドイツ語で蜘蛛を意味するその組織の一員にも加えられていた。
「国防軍の軍服と軍人手帳、お前の分も用意してやるからな。だから何とかベルリンから逃げ出せ。そして西側に着いたら俺らシュピンネのメンバーを頼れ。スペインでもアイルランドでも南米でも、好きなところに行かせてやる」
ペーターは熱意なくただ聞き流しているように見えたが、唐突に目を上げた。
「なあ、頼みがある」
「何だ、他に誰か逃がしてやりたい女でもいるのか?」
ヴェーゲナーはからかうように笑いかけたが、ペーターは真顔のままだ。
「君達に国防軍の軍人手帳が作れるのなら、二百人分まとめて都合できないか」
「何だと!」
「僕には大勢の部下がいる」
「知ったことかよっ。俺はお前の事を心配しているからこそ、こうして長官の側近しか知らん極秘事項を話してやってるんだぞ!」
「僕の部下は、今までずっとドイツの為に命を賭けて戦ってきたんだ。何とか助けてくれ、頼む」
ペーターの部下には、ウクライナやバルト出身の兵が何人もいた。彼らは降伏したとしても、間違いなくその場で殺される運命にある。
「無理だ。逃げ出したいお偉方がどれだけいるか、お前は知らんだろう。俺の部下達は今クソをしに行く時間も惜しんで偽の身分証を作っている有り様で、お前の分を都合するだけで精一杯だ。気の毒だが、お前の部下にはここで最期まで頑張ってもらうしかない」
「なあゼップ」
ペーターは冷えた目でヴェーゲナーを見た。
「僕は最後まで部下と戦う。連中と一緒でなければ、僕はどこにも逃げない」
「大馬鹿だよ、お前は」
ヴェーゲナーの顔からも笑みが消え、ペーターを睨み返す。
そうとも、僕は馬鹿だろうさ。ペーターは胸の中で呟いた。馬鹿だからヴェーゲナーの言うなりSSに入り、ゲシュタポに入り、そして……。
「ま、いい。好きにしろ」
唐突に、ヴェーゲナーはいつもの笑顔に戻った。
「来いよ」
言いながら、ペーターの肩を抱いてドレシャー戦闘団の兵士達の方に歩いて行く。
「聞け、戦友諸君。君らの隊長ペーター・ドレシャーSS大尉は、これまでの数多くの功績により、騎士十字勲章を叙勲されることになった。勲章は明日、総統官邸においてヒトラー総統が自ら授与して下さるそうだ!」
歓声が一斉に上がった。ドイツ軍最高位の勲章である騎士十字勲章は、すべてのドイツ軍人の憧れだ。
しかし当のペーターはどこかぼんやりとした表情で、さほど嬉しそうには見えなかった。
「ゼップ!」
隊長の叙勲を喜ぶ兵士らを掻き分けるようにして、史生が進み出た。
「僕も一緒に行ってもいいかな。勲章授与式、ぜひ取材したい」
ヴェーゲナーはたっぷり十秒以上考えた後で頷いた。
「まあ、いいだろう。だがあまり期待するなよ。総統にインタビューしようなどとは、間違っても考えないことだ。それから、取材したいならまず宣伝省にも顔を出しておけ」
「私も」
ケーテが史生の隣に並んだ。
「私も一緒に行きたい」
声は静かだったが、辺りのざわめきが一瞬に静まった。
史生だけでなく、ペーターもヴェーゲナーも他の兵士らも、その場にいた皆がケーテを見た。
皆の視線を集めて、ケーテの頬が赤く染まる。
「いえ、そうじゃないんです。総統官邸に行けば、どこかで薬を分けて貰えるんじゃないかと……。薬も包帯も、もう殆ど残ってないんです」
それに真っ先に頷いたのは、意外にもヴェーゲナーだった。
「そういう事なら、シュトゥムプフェッガー博士に話を通しておこう。医薬品はどこも切迫しているが、博士は総統の侍医だ。少しくらいなら、何とか融通してくれると思う」
サイドカーにヴェーゲナーを乗せたBMWのバイクが去ると、兵らは各々の持ち場に戻って警戒態勢についた。ペーターはフリードリッヒ通りの真ん中に突っ立ったまま、空を見上げて煙草をふかしている。
「ロシア軍はまた攻めて来るかな」
史生に問われたペーターは、即座に短く答えた。
「間違いなく」
「次の攻撃はいつ頃だと思う?」
「いつ来てもおかしくないね」
「で、どうする?」
「別に何も。こちらの歓迎準備はできている。今はただ、奴らが来るのを待つだけだ」
「勝算は?」
「ない」
「けど、降伏するつもりもないんだろう?」
「無論だ」
玉砕覚悟か。ペーターの胸の中を覆っているであろう虚無と絶望が、史生にもじわりと伝わって来る。アッツ島、サイパン島、硫黄島。それらの島々で散った日本の兵士達のように、ペーター、君もここで死ぬつもりなのか……。
「あの……」
友にかけるべき言葉を失った史生に代わって、ケーテがペーターに話しかけた。
「パリで銃殺されかけた大尉さんを助けてくれた人って、さっきのゲシュタポの人なんですよね?」
「大尉さんとか大尉どのとか、国防軍と違って我々はそういう呼び方はしないんだ。SS大尉かペーターか、そのどちらかでいい」
ペーターは煙草を投げ捨て、ブーツの先で踏みにじった。
「その通り、ゼップは僕を守ってくれたよ。あいつはあいつなりに、僕に出来るだけのことをしてくれたさ。でも今になれば、僕はあそこで銃殺されていれば良かったと思うね」