第25話 一九四五年五月一日(ベルリン、日本大使館)
文字数 937文字
混乱の波及とロシア兵の乱暴を恐れて、ティーアガルテンの日本大使館は固く門を閉ざし、職員たちは奥で息を殺して縮こまっていた。
しかし今朝、大使館の門が荒っぽく叩かれた。
恐る恐る様子を見に行った守衛の知らせでは、日本人らしい若い男が花井と会わせろと喚いていると言う。
男は杉村史生だった。着ているものはよれよれになり、髪は乱れ頬はこけ、目の下には深い隈が出来ている。ロシア軍に追われて逃げて来た避難民さながらの姿ではあったが、間違いなくあの日本人留学生だった。
「良かった、無事だったか」
そう言いつつ、花井はちらりと史生の足を盗み見た。
「確かめて来ました」
前置き無しに、史生はぶっきら棒に言った。
「ヒトラー総統は、昨日自決しました。死体は総統官邸の中庭です」
「本当か!」
史生は陰気な顔で頷いた。
「死体も、ちゃんとこの目で見ました」
「その裏付けになるものは?」
「ありません」
「死体を見たのに、写真は撮らなかったのか?」
花井の視線は、史生の首から下げられたライカに向けられる。
史生は薄く笑った。
「そんな事が出来る状況ではありませんでした。僕の言葉を信じていただくしかないです。ただ僕の言う通りだと、いずれ歴史が証明してくれるでしょう」
「そうか、わかった」
「お国の為に、僕も僕なりに命懸けで頑張ったつもりです」
そうか、うんうん。
花井は何度も頷いて見せる。
それにしても……。花井は訝しく思った。俺の目の前に立っているこの男は、本当にあの若造なのだろうか。
花井が数日前に送り出したのは、いかにも頼りなさげな青二才だった。しかし今ここに居るのは、古参兵に似た図太さを漂わせた一人前の男だった。
「これでお国へのご奉公を果たせました、ではこれで」
そう言い残して、史生は背を向け大使館から出て行きかけた。
花井は慌てて呼び止めた。
「待ちたまえ、保護を求めて逃げて来たのではないのかね、どこへ行く?」
史生は再び、どこか太々しく見える笑みを浮かべた。
「戻るんですよ、仲間の所に」
「仲間だと、何だそれは?」
しかし返事は戻って来なかった。
史生はそのまま、ティーアガルテンの深い森の中に姿を消した。