第13話 一九四五年四月二七日(ベルリン)

文字数 9,274文字

 ペーターの話を遮るようにロシア軍の砲撃が再開され、ドレシャー戦闘団の兵士らはそれぞれの持ち場に走った。
 史生とケーテは例の負傷兵用の装甲兵員輸送車に転がり込み、ペーターは最前線に飛び出して行く。
 猛烈な砲撃が終わると、すぐにロシア軍の戦車と歩兵が押し寄せて来た。
 ペーターとその配下のSS隊員は実によく戦った。突撃銃と手榴弾で歩兵を倒し、パンツァーファウストで戦車を炎上させる。パンツァーファウストが残り少なくなると、手製の火炎瓶も使った。
 しかしロシア軍は次々に新手を繰り出して来たし、弾薬も無尽蔵であるかのように思えた。一方ドイツ側には倒れた兵士の替わりはおらず、手持ちの銃弾を撃ち尽くしてしまえばその後の補給も無い。
 ドレシャー戦闘団は夜までにクロイツベルクを放棄し、ミッテ地区の南端に後退した。ザールラント通りの中央郵便局に陣取り、そこを部隊の防衛拠点にする。
 通りに沿って北へ八百メートル進んだポツダマー駅には国防軍の戦車師団ミュンヘベルクが、フリードリヒ通りに出て北に一キロ進んだシュタットミッテ駅には第一一SS義勇戦車擲弾兵師団ノルトラントが、それぞれ師団司令部を置いていた。
 ドイツ軍は今やベルリン中心部の狭い地域に押し込められ、打ちのめされ消耗し尽くした部隊がひしめき合っていた。

 ゲオルグ・ベルツが心待ちにしていた解放軍は、用意しておいたお茶やケーキに目もくれなかった。
 槌で殴りでもしているかのように、ドアが激しく叩かれる。慌ててドアを開けたベルツを手荒に押しのけて、ひどく汗臭く、目をぎらつかせたカーキ色の軍服の兵士らがなだれ込んで来た。
 ある者はベルツを突き飛ばし、短機関銃を突きつけてロシア語で何事かまくしたてた。
 家具の引き出しを引き抜いては中の物を床にぶちまけ、金目の物を漁る者。
 クローゼットの中の衣類を引き出して奇声を上げる者。
 食器棚の皿やカップを、意味もなく叩き割る者。
 ベルツ家を解放したロシア軍兵士の振る舞いは、山賊やならず者と何ら変わらなかった。
「フラウ!」
 怯えて外に逃げ出しかけたハンナは一人の兵士に手首を掴まれ、手荒に引き戻された。
 ハンナの母親もまた別なロシア兵に抱きすくめられている。
 ベルツは二人の名を呼びながら駆け寄ろうとしたが、妻と娘の許に行き着く先に背を銃床で殴られ、苦痛の呻き声をあげて床に転がった。ロシア兵らは更に倒れたベルツを蹴りつけ、拳や銃床で殴りつけ、抵抗する気力を彼から奪った。
 ロシア兵はぐったりとしたベルツをキッチンの堅い椅子に座らせ、クローゼットから見付け出した革のベルトで縛りつけた。そしてそのベルツの目の前で、彼の妻と娘を犯しにかかった。
 ハンナを最初に襲ったのは、熊のように大きく太った毛深い下士官だった。居間のカーペットに、突き飛ばすようにして押し倒される。ブラウスを引き裂かれ、必死の思いで両腕で突っ張ると、丸太のような腕で頭の横を殴られて気を失いかけた。
 気が付くと、ハンナは殆ど裸にされていた。
 すぐ近くから、母親の泣き声も聞こえてくる。
 ロシア兵はハンナの下着を脱がす手間も惜しんで手で引き裂き、ひどく重い体でのしかかってきた。
 その時ハンナは十六歳でまだ処女だった。
 レイプはその下士官一人では終わらなかった。行為が終わると太った下士官はハンナから離れたが、入れ替わるように別のロシア兵がやって来て、恐怖と苦痛に泣き叫ぶハンナの体の上にのしかかった。
 元共産党員ゲオルグ・ベルツの妻と娘は、解放軍の赤軍兵士らに繰り返し犯され続けた。

 夜明け前から幾度も繰り返された激しい市街戦に、ドレシャー戦闘団の兵士たちは疲れ切っていた。見張りに立つ兵士の他は、皆その場に座り込むか横たわるかしていた。配られた食べ物に手を付ける者すら少ない。
 砲爆撃は夜に入っても続いた。戦闘も街の各所で続いていて、銃声があちこちから聞こえた。そして闇を切り裂くように響く、女達の鋭い悲鳴。
 何が起きているか、誰もがよくわかっていた。
「畜生め」
 誰かが唸るように呟いた。
 今日一日でまた弾痕の数が増えた《ルックス》の装甲板に背をもたせ掛けていたペーターが顔を上げる。
「俺達は負け犬じゃない。女を見捨てて平気な腰抜け野郎じゃないだろ、なあみんな」
 しゃがみ込んで頭を抱えていた兵らも顔を上げ、地べたに横たわっていた者も体を起こした。
「やりましょう、隊長」
 ペーターとその部下は再び立ち上がり、戦う準備を始めた。連れて行くのは、ディックマンSS少尉と歩兵一個小隊のみ。武装は突撃銃に短機関銃、それに手榴弾だけだ。重い装備と装甲車両は、負傷兵と共にシュプリューゲSS中尉に託す。
「僕も連れて行ってくれないか、邪魔にならないようにするから」
 何故そんなことを言い出したのか、史生自身にもわからなかった。ただ女達の悲鳴を聞きながら闇の中でうずくまっているのに、もうどうにも耐えられなかった。自分など居ても何も出来ない事はわかっている、しかしそれでも、何か行動を起こさずにいられなかった。
 ケーテも立ち上がり、史生の横に並んだ。
「私も一緒に行きます」
 ペーターは目を見開き、駄々をこねる子供に出合ったような渋い顔を見せた。
「あのな、お前ら……」
「女の人を助けに行くんでしょう? 気の毒な女の人達には、きっと私の助けが必要だと思うんです。それにこれでも私、ミュンヘベルク師団と一緒にずっと戦場で暮らしてきたんです。皆さんの足手まといにはなりません」
 言いながらケーテはオーバーコートのポケットからワルサーPPKを取り出し、慣れた動作で遊底をスライドさせ薬室に新たな弾丸を送り込んだ。
 ペーターは溜め息まじりに頭を振った。
「死んでも知らないぞ、全く……。いいか、二人とも俺らにぴったりついて来て、絶対に離れるなよ」

 ウルスラ・ベルツを押し倒したロシア兵達は、自分のものが役に立つ限り繰り返し犯した。そして精液を出し尽くすと食料を漁り、飢えた獣のようにがつがつと飲み食いし始めた。兵達の中には、ソファーや床の上などに寝転がって鼾をかき始めている者もいた。
 ウルスラは体のあちこちにひどい痛みを感じた。裂けた下半身の傷からは、今も血が流れ続けている。それでもこの地獄より酷い場所から逃げ出したい一心で、彼女はもがくように体を起こした。
 どれだけ殴られたのだろう、夫のゲオルグは顔を普段の倍ほどの大きさに腫れ上がらせてぐったりとしている。椅子に縛りつけられたまま、首を直角に垂れて目を閉じているその姿は、まるで死んでいるかのように見えた。
 ハンナはどこ?
 壁を支えにそろそろと立ち上がり、ウルスラは娘の姿を捜した。
 夫婦の寝室で酒盛りをして騒いでいるロシア兵達の間にハンナの裸身を見つけた瞬間、ウルスラは激しい怒りに我を忘れた。自分の体の痛みと屈辱も、ゲオルグの存在すらも忘れた。
 彼女の娘は全裸で犯された時の姿勢のまま、カーペットの上に死体のように転がっていた。肌の色は怖いほど青白く、大きな目は瞬きもせずに天井を見上げている。身動き一つせず、小ぶりな胸が僅かに上下している事だけがまだ生きている証しだった。
 その傍らに、太って下卑た下士官がどかりと腰を下ろしていた。ゲオルグが長いこと飲まずに大切にしていた年代もののワインを瓶の口から直に飲み、もう片方の手でハンナの乳房を弄んでいる。
 殺してやる!
 ウルスラはロシア兵の短機関銃に手を伸ばした。女を弄び金目の物を漁って酒を飲む為に、ロシア兵らは自分の武器をあちこちに放り出していた。
 だがロシア兵の反応は、彼女が思うよりずっと速かった。太っちょの下士官は熊のように素早く飛び上がり、重いブーツでウルスラの脇腹を蹴飛ばした。
 ウルスラは部屋の隅まで吹っ飛んだ。下士官はそれを追いかけ、ロシア語で喚き散らしながら彼女の頬を引っぱたく。たちまち口の中が裂け、ウルスラは泣き声をあげたが、下士官は容赦しない。二度、三度、強烈な平手打ちが襲った。
 その瞬間、ベルツ家のドアが蹴破られた。
「味方だ、伏せろ!」
 叫びながら踏み込んで来た者達は、突撃銃と短機関銃をフルオートで撃ちまくった。
 ウルスラとゲオルグのベルツ夫妻の目の前で、ロシア兵はばたばたと撃ち倒された。

 戦闘はほんの数秒で終わった。女を抱いて飲んだくれているところを踏み込まれたロシア兵どもは、銃に手を伸ばす事さえ出来ぬまま撃ち殺された。
 戦いが済むと、ペーターと部下達はまだ死に切れずに呻いているロシア兵の首筋に止めの一発を撃ち込んだ。しかしそれを見ても、ベルツ家の人々は酷いとか可哀想だとか思う気持ちにはなれなかった。
「ありがとう、助かりました、恩に着ます!」
 縛り付けられていた椅子から解放されたゲオルグは、目に涙を浮かべてSSの指揮官に礼を言った。その小柄なSS大尉が前日自分が無礼な態度を取った相手だった事など、ゲオルグは思い出しもしなかった。
 昨日までは悪魔の軍団としか思えなかった武装親衛隊が、今は天が遣わした軍神さながらに見えた。これまで共産主義を信奉していただけに、ゲオルグの裏切られたという思いは強かった。
 ゲオルグにとって更にありがたかったのは、SSが看護婦まで連れて来てくれた事だ。娘のハンナと大して年も違わないであろう可愛らしい看護婦は、尻を叩くようにして他の兵士らを寝室から追い出すと、そこで妻と娘の治療にかかってくれた。
 手当を受けながら、ウルスラもまた信じてきたものに裏切られた悔しさを噛み締めていた。ウルスラはこれまで夫を信じ、夫の言う事にはすべて従ってきた。ウルスラは学がなかったし、政治のこともよくわからない。しかし大学まで出た賢い夫がそう言うのだからと、ウルスラも共産主義を良いものと信じ、ロシア軍をヒトラーとナチからの解放者と思い、彼らがやって来るのを待ち望んできた。おそらくは、娘のハンナも同じだろう。
 あの汚らわしい獣どもをお茶とケーキでもてなそうとしたのは、どこの間抜けだ?
 近所の人達のように、ロシア軍が来る前に逃げていさえすれば、せめてハンナだけでもあんな目には……。
 そう思うと、ウルスラは悔しくてならなかった。

 報告を聞いて、スミルノフ大尉は顳が引き攣るのを感じた。
「何ッ、またやられたのか!」
 大戦初期からドイツ軍と戦い続けてきたスミルノフは、SSの手強さは充分過ぎる程よく知っていた。その彼から見ても、今ここで対峙している奴ら、ドレシャー戦闘団は最も始末の悪い相手のように思えた。
 ドレシャー戦闘団は双頭の蛇のようなものだ。一方の頭と戦っていると、いつの間にかもう一方の頭が毒を滴らせた牙を剥いて背後から忍び寄って来る。
 スミルノフの部隊は確実に前進してはいるものの、激しい市街戦を強いられ、今日も大勢の兵が命を落とした。そして夜になると敵は幾つもの部隊に分かれて戦線の後方に侵入し、闇の中から幽鬼のように現れては多くのロシア兵を殺して回った。
 ただ部下達が何故SSの夜襲をたやすく許すのか、スミルノフには薄々わかってもいた。
 性根の腐りきった豚野郎どもめ!
 スミルノフの怒りは、部下の兵達にも向けられる。連中はもう勝ったつもりで、略奪に夢中になっていたに違いなかった。酒を浴びるように飲み、女を襲う。その最中に背後から忍び寄られて襲われたら、歴戦の古参兵でもひとたまりも無かろう。
 だが、どれほど出来の悪い部下でも、殺されているのは同胞の同志達だ。見殺しには出来ない。
 明日の朝には部隊の者らを集めて叱り、皆の気持ちを引き締めよう。しかし今は、部下の命を助けるのが先だ。
 SSの夜襲を告げに来た伝令を、スミルノフは真っすぐに見据えた。時計の針は十一時を回っていたが、スミルノフはまだ床にはついておらず、軍服のままだ。
「場所はどこだ? 私が行こう。今夜こそファシストどもを叩き潰してやる」

 ウルスラ・ベルツは寝室を出ると、散乱した家財道具の中から生活必需品を拾い集めてリュックに詰めた。死んだロシア兵の体も探り、奪われた腕時計や貴重品を取り返す。そのウルスラもハンナも、ゲオルグには声もかけなければ目を合わせようともしない。
「おい……何をするんだ?」
「逃げるのよ、わからないの?」
 何て馬鹿な人なの。そう言いたげな表情で、ウルスラは吐き捨てるように答えた。彼女がゲオルグにそんな態度を取ったのは、結婚して以来初めての事だ。
「そうだな、うん、そうしよう」
「あんたは食料を集めて」
 ゲオルグは今や、ウルスラに言われるままに動いていた。
 あのSSの兵士達は去って行ってしまった。ロシア兵に酷い目に遭わされている、また別な家族を助けに行ったのだろう。
 急いで逃げなければ。いつまた別のロシア兵どもがやって来るかわからないし、この家の床には奴らの同志たちの死体が幾つも転がったままになっている。
 ハンナは電話の受話器を取り、ゲオルグの知らない相手に小声で何か語りかけていた。
 ゲオルグはハンナに何か言いかけたが、顔をそむけてまた食料捜しを続けた。娘にどう声をかければ良いのかわからなかったし、今は娘の顔を見るのさえ辛かった。

 ハンナにかけるべき言葉が見付からずに困惑していたのは、エルナ・ウルマンも同じだった。
 何があったか親友から聞かされて、エルナもひどくショックだった。もし直接に会っていたら、肩を抱き寄せて慰めてあげられたのだが。
 エルナがまだ無事でいることを確かめると、ハンナはひどく切迫した調子で言った。
「貴女も今すぐ逃げて、準備なんかどうでもいいから逃げて!」
「わかった、お母さんと相談してみるね」
 そう言いはしたものの、エルナは彼女を助けてくれたハンサムなロシア軍の将校の姿を胸に思い描いていた。
 ハンナを酷い目に遭わせたロシア兵と、私を助けてくれたロシア将校と、どちらが本当のロシア人なんだろう? エルナは考え込んでしまった。

 ラントヴェール運河を見下ろすその民家で何が起きたのかは、スミルノフの目にも明らかだった。戸棚や引き出しの中の物が床に投げ出され、食べかけのソーセージやワインの瓶も転がっている。そしてその中に十人を越すロシア兵の死体が残されていた。まだ生きている者は、ここでもただの一人も見つからない。
 畜生め。スミルノフは唇を咬んだ。連中がここの住人に何をしたかは、スミルノフもわかっている。しかしこの兵士達にも、故郷には帰りを待っている親兄弟がいた筈だ。
 兵士らがドイツ人に乱暴を働く気持ちは、スミルノフにもわかる。祖国を侵略したドイツ軍は数え切れないほどの残虐行為を働いた。暴行、略奪、そしてパルチザンと見なされた民間人の処刑。兵士らの中には、ドイツ兵に家族を殺された者も少なからずいる。
 だが、復讐はいけない。スミルノフは自身の体験からそう考えていた。
 もちろんナチの犯罪者どもを許すつもりはない。しかし私的に復讐するのではなく正式な裁判にかけ、法と正義のもとに裁くべきなのだ。罪も無い市民への復讐は、自らをナチと同じ獣に貶めるだけでしかない。スミルノフはそれを、部下が納得するまで何度でも話して聞かせるつもりでいた。
 だが狂信的なファシスト兵にも、これ以上同胞の兵士を殺させるわけにはいかない。
 殺されたロシア兵の肌に触れてみると、まだ僅かに生暖かった。
「奴らはまだ近くにいる筈だ、追いつけるぞ。急げ!」
 スミルノフは拳銃(トカレフ)を振り上げ、アパートの外に飛び出した。大隊本部から掻き集めて来た部下の兵らも、シュパーギン短機関銃を抱えてそれに続く。
 スミルノフがアパートの玄関の石段を降り立った瞬間、闇の向こうで火花が散った。向かいの建物の窓や横手の瓦礫の陰など、幾つもの方向から突撃銃や短機関銃が一斉に発射された。
 待ち伏せだ!
 スミルノフは振り返り、部下達に伏せろと叫びかけた。
 が、その声を発する前に喉元に熱いものを感じ、叩きつけられるように玄関口に倒れ込んだ。

 ドレシャー戦闘団の兵士らはロシア兵の死体の間を歩き回り、短機関銃と予備の弾倉を回収した。補給などまるで届かないから、足りない分は倒した敵から奪うしかない。
「隊長!」
 ロシア兵の持ち物を探っていた兵士の一人がペーターに声をかけた。ペーターが側に寄ると、兵士はその死体の袖を指し示した。
「見て下さい、こいつを」
 そこには政治将校を示す、赤い星のマークが縫いつけられている。
「こいつは大当たりだ」
 ペーターは頷き、政治将校の制服を剥ぐように命じた。

 ウルマン家のドアが激しく叩かれた。
 その時、エルナと母親はまだ起きて居間にいた。ハンナから電話があってからずっと、家に残るべきか逃げるべきかを話し合っていたのだ。
 逃げた方が良いとは思う。だが、どこへ逃げるべきかということになると、話が堂々巡りになってしまう。ミッテとティーアガルテンの両地区ではまだドイツ軍が頑張っていると聞く。しかしその抵抗もいつまで続けられるかわからない。
 今になって戦況が一変するような奇跡が起きるとはとても思えず、数日のうちにベルリンがロシア軍の手に落ちるのは誰の目にも明らかだった。
 ではどこに、何の為に逃げる?
 もし西の連合軍の支配地域に逃げられるなら、家も財産も何もかも捨てても惜しくない。しかし難民となった揚げ句にロシア兵に捕まるのでは、逃げた意味が無いではないか。
 どうせ逃げられないのなら、このまま家に残っていた方がまだましではないだろうか。もしかしたら、ロシア軍も少しは情というものを見せてくれるのでは?
 エルナがすぐにでも逃げようと言い張らなかったのは、あの礼儀正しい赤軍将校の印象が胸の中に強く残っていたからだ。それで母親と今後の事について延々と話し続けているうちに、どうやら逃げ遅れてしまったようだ。
「アケナサーイ、ハヤーク!」
 たどたどしい、下手くそなドイツ語の怒鳴り声が聞こえる。
 すぐに言う通りにしなければ、ロシア兵達はドアを蹴破って入って来るだろう。ドアを開けないでいるより、むしろその時の方が怖かった。
 ウルマン夫人が震えながらドアの鍵を開けると、ロシア兵の一団が夫人を押しのけるようにして、ブーツの音を響かせて踏み込んで来た。その先頭は将校だが、エルナを助けたあの将校とは違う人だ。
「ドイツ兵、イルカ?」
 エルナと母親は恐ろしくて声も出ず、ただ首を横に振る。
 赤軍将校はロシア語で鋭く命令を下し、兵士らはウルマン家の中に散らばって、隅から隅まで調べて回った。それこそ、天井裏から地下室まで。
 クローゼットや引き出しの中が掻き回され、家のあちこちから物が倒れたり壊れたりする音が聞こえてきた。しかしエルナ達はドイツ兵を匿ってなかったし、武器を隠してもいなかった。
 ウルマン家の居間の壁には、出征した家族の軍服姿の写真が額に入れて飾ってあった。隠しておくべきだったと思いはしたが、既に手遅れだ。
「コレハ?」
 赤軍将校は鋭い目でエルナに尋ねた。
「……父と兄です」
 かすれ声でようやく答えると、赤軍将校は小さく頷いた。
「戦争、スグオワル。ソシタラ会エル」
 そう言うと、赤軍将校は部下を引き連れて出て行った。
 態度こそ粗野で荒っぽかったが、ロシア兵達は何も奪わず、女には手も触れなかった。
 そしてその事が、ウルマン家の母と娘の判断を狂わせた。
 数時間後に再び荒っぽいノックが響いた時、エルナとその母は恐れずドアを開けて迎え入れた。
 だが今度のロシア兵達は二人が出合った粗野だが親切で心優しい男たちではなかった。家の中になだれ込むなり、引き出しやクローゼットを開けて中の物を奪い、エルナを押し倒して服を引き裂いた。
 彼らはひどく酔っていて、ドイツ語を話せる者もいなかった。
 娘を守ろうとロシア兵の腕にしがみついた夫人は、娘の目の前で撃ち殺された。そしてロシア兵達は代わる代わる娘にのしかかり、エルナは母親の死体の脇で繰り返し犯された。

 ペーター達が中央郵便局に戻った時には、既に零時を回り日付が変わっていた。
 明日もまた、夜が明けぬうちにロシア軍が攻めて来るだろう。多くの戦車をつらね、数え切れないほどの歩兵を連れて。
 だからこそ、寝られるうちに寝ておかなければ。
 そうは思うのだが、史生はなかなか寝付けなかった。まだ白旗こそ上げていないものの、ドイツの敗北はわかり切っている。その後、世界はどうなるのだろうか。日本も敗れてしまうのだろうか。そしてロシアは果たして、日本との中立条約を守り通してくれるだろうか。もしもこのロシア軍が日本に攻め寄せたらと想像すると、史生は恐怖を通り越して吐き気すら感じた。
 日本では、皆が鬼畜米英と言う。
 そうではないだろう、真の鬼畜とはロシア人の事だ。
 ベルツ家の惨状を見て、史生は心の底からそう思った。しかしロシア兵がここベルリンで見せている暴虐ぶりを、日本の誰が知っているだろうか。
 日本に帰らなければ。史生は初めて痛切にそう思った。ベルリンで自分が見た事すべてを、日本の人達に伝えたい。
 だが、どうやって?
 ヒトラー総統の生死を見届けたら、ロシア軍に日本人だと名乗って出れば良い。そうすれば日本に帰してもらえるさ。大使館の花井はそう言った。
 しかし最前線でのロシア兵の振る舞いを見た史生には、どうしてもそうは思えなかった。現に史生は、ロシア兵に一度殺されかけている。もしもあの時ケーテが助けてくれなければ、史生は今頃生きていなかった筈だ。
 ケーテ。そうだケーテはどうなる? ドイツ軍が降伏すれば、当然ケーテもロシア兵の手におちる。その時には、ケーテもおそらくはあのアパートで見た少女のように……。
 駄目だ、ケーテを見捨てて自分だけ助かるような卑怯な真似はしたくない。
 しかし、ではどうすれば良い?
 どうすれば良いのか、史生にはわからない。考えれは考えるほど胸の中で苦しい思いが増すばかりだ。
 史生が横になったまま寝返りばかり繰り返していると、ブーツを鳴らしてペーターが近付いて来た。
「フミオ、眠れないならこいつを飲めよ」
 ペーターがブランデーの瓶を差し出す。
 しかしその瓶は違う手に取られた。
「男の人達だけで飲むつもりですか、狡いです」
 ケーテだった。体を起こしカミュの香りを胸いっぱいに吸い込んだ後で唇を湿らせる程度に一口だけ飲み、そして瓶を史生に回した。
「仕方のない連中だな。寝られるうちに寝ておかなければ、後で困るぞ」
 ペーターは呆れ顔だが、ケーテは負けていない。
「隊長さんだって寝てないじゃないですか」
「指揮官はそういうものなのさ」
 そう言いはしたが、もし本当に寝る暇も無いのであれば、酒を持って友の所に来たりなどしないだろう。
 眠れずに苦しんでいたのは、むしろペーターの方ではないか。史生ふとそんな気がした。
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登場人物紹介

 ペーター・ドレシャー……ただ機械が好きなだけの、大人しく心優しい青年。興味があるのはナチスの政治的な主張ではなく、ナチスが作らせた戦車や装甲車。それで戦争が始まると、一兵卒として召集される前に戦車の整備をする技術将校を目指して士官学校に入学する。

 杉村史生……ペーターと同じく、機械が大好き。ベルリン工科大学に留学し、ペーターと親しくなる。第二次世界大戦が始まった為に帰国できなくなり、ベルリンで機械工学の勉強を続ける。そして大戦末期のロシア軍に包囲され陥落寸前のベルリンで、旧友ペーターと再会する。

 ヨーゼフ・ヴェーゲナー……ペーターの従兄でナチスの若きエリート。ナチス思想に心から染まっているわけではなく、第一に考えているのは己の出世。愛想は良いが心は冷たい。だが従弟のペーターのことは彼なりに大切に思っており、親衛隊に誘ったり、ペーターが窮地に陥ると救いの手を差し伸べたりする。しかしその為、ペーターはますます悪の道に堕ちて行くことになる。

 ケーテ・レンスキ……ポーランド国境に近いポメラニアに住む少女。略奪や暴行をしながら進撃するロシア軍の猛攻に追われ、撤退するミュンヘベルク師団と共にベルリンまで逃げる。その間、師団の看護婦の役目を務める。

 ユーリ・アレクサンドロヴィチ・スミルノフ……ロシア軍の大尉で正義感あふれる熱血漢。政治将校だが、ナチとドイツ軍は憎むが、ドイツの民間人は守ろうとする。

 ステパン・グレゴリオヴィチ・フョードロフ……ロシア軍の上級中尉。NKVD(後にKGBとなる国家保安人民委員部)の職員。

 花井孝三郎……表向きは駐独日本大使館の旅券課員だが、実は陸軍中野学校で教育された特務機関員。杉村史生に総統官邸に潜入しヒトラーの動向を探るよう命じる。

 ハンナ・ベルツ……ベルリンに住む少女。父親が反ナチ思想の持ち主で、「ナチスよりロシア軍の方がマシ」と教え込まれている。

 エルナ・ウルマン……ハンナの友達。父親がドイツ軍の将校である為、ロシア軍をとても恐れている。

 アントン・ブリュックラー……SS中尉で強制収容所の副所長。楽をして生きている要領の良い男。ドイツ軍の敗戦を見越し、収容したユダヤ人から略奪した金品を横領している。

 レーナ・フェスマン……強制収容所に収容されているユダヤ人の少女。頭の良い文学少女で、ふとしたことから知り合ったペーターと親しくなる。しかしそれは決して許されない恋だった。

 バウル・リッター……ベルリン郊外で退却しながら戦うドイツ第九軍の少年兵。故郷の東プロシアはロシア軍に占領され、絶望しながら西へと逃げている。

 マックス・シュペート……第九降下猟兵師団の伍長だが、本来は空軍の整備兵。兵力不足で東部戦線に駆り出された際に、ロシア兵の残虐さを目にした為、ロシア兵の捕虜になることを死ぬより恐れている。

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