第19話 一九四五年四月二九日(ベルリン)
文字数 1,793文字
にもかかわらず、防空壕の内部には異様な陽気さが漂っていた。食料貯蔵庫から高級なシャンパンやワインが次々に運ばれて来て、誰もが酔っ払っていた。
総統官邸の地下に造られたこの防空壕は、二階建てになっている。ヒトラーの居住区や作戦会議室がある地下二階はまだある程度秩序が保たれていたものの、地下一階の大食堂では皆が飲んで食い、レコードも流されて好き放題にやっていた。
しかし大食堂を支配している陽気さが上辺だけのものでしかないことに、史生も程なく気付いた。
ほんの些細な事から、あちこちで口論が始まる。陸軍人事局長のブルグドルフ大将が泥酔して陸軍総参謀長クレプス大将を罵り、激しい言い争いになった。ボルマン官房長が宥めにかかると、ブルグドルフ大将は今度はボルマンを標的に変えて絡み始める始末だ。
軍や党の首脳がこの有り様なのだから、それより下の者達の行動に歯止めがかかる筈もない。
まだ夜も明けぬうちに隣の調理室が騒がしく動きだし、下の階に次々に料理が運ばれていった。
「どうしたんです、何かあるんですか?」
史生は出来たばかりの湯気の立つ料理の大皿を運ぶ、やや太り気味の中年女を呼び止めた。
女は一瞬顔をしかめたが、元々噂話の類いは嫌いではないようで、史生の耳元に口を寄せて囁いた。
「実はね、結婚式のお祝いの最中なんですよ」
思いもかけぬ返事に、史生は声も出ない。
「結婚なさるんですって、総統閣下とフラウ・ブラウンがね」
狂ってる。ここにいる誰も彼も。
史生は食卓のシュナップスをグラスに注ぎ、喉と舌がひりつくのも構わず、燃えるような液体を喉の奥に流し込んだ。
ペーターとその部下は、ロシア軍の猛烈な砲撃のただ中に居た。
彼らは昨夜アンハルター駅を失い、今はポツダマー駅に追い込まれていた。そこから総統官邸まで、あと五百メートルしか無い。
ただ駅前の広場にはヘルツィヒSS少佐が率いる重戦車大隊のケーニヒスティーガーが陣取っていて、前進して来るロシア軍の戦車を片っ端から撃破していた。
そのケーニヒスティーガーを接近するロシア歩兵から守るのが、ペーター達の役割だ。
しかしロシア軍の砲撃のあまりの激しさに、ペーターとその部下は砲弾の破片と爆風を避けて幾度となく戦車の下に潜り込んだ。
巨大な重戦車の床板と地べたの間の狭い空間に腹這いになったまま、ペーターは周囲の部下達に話しかけた。
「なあ、楽観論者と悲観論者の違いだが、知ってるか?」
ほら、またうちの隊長の小咄が始まった。
ヘルメットを手で抑えながら、兵達は顔を見合わせてにやついた。
楽観論者と悲観論者との違いは何か?
悲観論者は言う。
「最悪だ、状況はこれ以上悪くなる余地も無い」
楽観論者は言う。
「大丈夫、まだもっと悪くなるさ」
ひでえ。
そう言い合いつつ、兵らは笑った。
しかしペーター自身はにこりともしない。
それもまた、レーナに教えられた小咄だった。
ペーターの心の中では、レーナは今もまだ生き続けていた。そして彼女の記憶は常にペーターを責め続ける。
ペーターが志願して最前線に出たのも、その記憶から逃れたいからだった。彼はあえて死を望んでいるわけではない、しかし死んでもまるで構わないと思っていた。
シュナウファーSS軍曹に、ペーターはよく口やかましく叱られたものだ。
「せめて戦闘中はヘルメットを被りなさい、死んでも知りませんよ」
しかしペーターはどれだけ激しい戦いの最中も、常に将校制帽のままで通した。その将校制帽は強制収用所を飛び出した時に被っていたものだが、今ではワイヤーも抜き銀の顎紐も取り去り、型も崩れてよれよれになっている。
「こいつを被ってないと、自分が将校だって事を忘れちまうんでね」
周りの者達にはいつもそう説明したが、ペーターの本心は違った。
いつ死のうが、俺は別に構わない。
だがペーターは死ななかった。
常に最前線で戦い、あらゆる辛酸をなめ幾度も負傷したが、ペーターは生き延びた。そして彼を取り巻く状況は、蟻地獄に足を踏み込んだように悪くなる一方だった。