第23話 一九四五年四月三〇日(アストラハン、ドイツ兵捕虜収容所)
文字数 2,967文字
ドイツ国防軍の中尉ギュンター・ハヌッセンは、煉瓦を山積みにした一輪車を押し、泥に足をとられながらよろよろと歩いていた。ロシア軍はハヌッセンらドイツ兵の捕虜達に重労働を課す一方、食事は石のように固い黒パンと野菜屑が浮いた薄いスープしか与えなかった。それで捕虜のドイツ兵は、数カ月のうちに体中の骨が浮き出して見えるほど痩せていった。
ろくに食事を与えられていないから、頑張ろうにも足に力が入らない。しかし課せられた一日の作業ノルマを果たせないと、懲罰として食事が更に減らされてしまうのだ。
ハヌッセンの一輪車は、ぬかるみに嵌り込んでなかなか動かない。疲れ切り、一輪車にもたれて喘いでいると、短機関銃を肩から下げた警備兵が速足で彼の方に歩いて来た。
どやされる。ハヌッセンは慌てて一輪車を押し始めた。その時彼はまだ、一日の作業ノルマの半分も終えてなかった。
しかし警備兵は、ハヌッセンに作業の中断を命じた。
「所長がお呼びだ」
所長室では二人の将校がハヌッセンを待っていた。一人は所長のイワネンコ少佐で、あと一人は見覚えの無い大佐だった。その大佐が身につけているブルーの制帽とズボンは、あの恐ろしいNKVDのものだ。
ハヌッセンに言葉をかけてきたのはNKVDの大佐の方で、微笑みかけながら流暢なドイツ語で話しかけてきた。
「君はギュンター・ハヌッセン中尉だね? 君をここに呼んでもらったのは、私です」
シチェルバコフと名乗ったその秘密警察の大佐は、椅子を手で示しハヌッセンに座るよう命じた。
肉が落ちて頬がそげ、目だけが妙に大きく見えるハヌッセンをそれとなく観察しながら、シチェルバコフは優しいと言えるくらい柔らかな声で話しかけた。
「ハヌッセン君、去年の七月に君はミンスクにいましたね?」
ハヌッセンは視線を床に落として頷き、シチェルバコフの目は鋭い光を帯びた。
「ミンスクでドイツ軍は多くの家を焼き、食料や財産を奪い、大勢の市民を虐殺しました。これはソビエト国家と国民に対する犯罪行為です。ミンスクでの戦いに責任のあるドイツ軍の将校は、戦争犯罪者として裁かれねばなりません」
ハヌッセンは青ざめて震えた。
戦争犯罪者! その言葉はロシアではほぼ死刑を意味した。仮に死刑でなくても、二十年以上の重労働といった長期刑が言い渡されるのは間違いない。
ロシアの強制収用所での長期刑は、死刑と何も変わらなかった。違いはただ、死が訪れるのが早いか遅いかだけの話だ。彼の故郷のドレスデンでは、妻と二人の子供がハヌッセンの帰りを待っているというのに……。
「ハヌッセン中尉、君もミンスクでドイツ軍を指揮して戦っていましたね?」
「確かにそうですが……しかし私は……」
「言いたい事があれば何でも言いなさい、時間はたっぷりあります」
問いかけるチェルネンコの声は、あくまでも穏やかで柔らかかった。
一九四四年六月に開始されたロシア軍のパグラチオン作戦は、ドイツ中央軍集団を壊滅に追い込んだ。ハヌッセン中尉の師団も大量の戦車と地上攻撃機を繰り出して攻勢に出たロシア軍に粉砕され、ばらばらの小部隊になって白ロシアの首都ミンスクに逃げ込んだ。しかしロシア軍の戦車部隊は、その尻に張りつくように追いかけて来た。
歩兵中隊を指揮していたハヌッセンは、ミンスクの市街の一角に防衛線を引こうとしたが、迫って来るロシア軍にはとても立ち向かえそうに無かった。中隊の兵士らは、ハヌッセンの目の前で次々に死んでいった。
しかし軍の上層部は、繰り返しこう命じてくる。
踏み留まって戦え、ミンスクを死守せよ!
部下達はハヌッセンに口々に言う。
「中隊長殿、もう駄目です、みんな死んでしまいます!」
「降伏しましょう、中尉殿っ」
ハヌッセンは迷わなかった。これ以上戦い続けるのは、ただ部下を無駄に死なせるだけだ。
だがハヌッセン達が手を上げて出て行きかけた時、武装SSの一部隊が装甲兵員輸送車を連ねて乗りつけて来た。
先頭の装甲兵員輸送車から指揮官らしいSS大尉が飛び降りて来て、ハヌッセンの胸倉を掴んで怒鳴りつけた。
「何をしてる、気合いを入れて戦え!」
「無茶を言わないで下さい、みんな殺されてしまう。私は決めたんだ、私達は降伏……」
言い終わらないうちに、ハヌッセンはそのSS大尉に思い切り殴られた。尻餅をついたハヌッセンの鼻先に、短機関銃の銃口が突き付けられる。
「よく聞け、逃げる者も降伏する者も即座に撃ち殺すっ。さあみんな、持ち場に戻って戦え!」
「私と部下達は降伏するつもりでした、本当です。でもその連中が、SSの奴らがそうさせてくれなかったんです」
シチェルバコフは片方の眉を上げた。
「なるほど、ヒトラー親衛隊が君達を脅して戦わせたんだね?」
「そうです。ロシア軍は捕虜を殺す、だから降伏してはいけない。そのSS大尉は、私と私の部下達にそう言いました」
「そのSS将校の名前は?」
シチェルバコフの手にはペンと手帳が握られていた。
ハヌッセンは大きく息を吸い、そして吐き出すように言った。
「SS第六六六戦車猟兵中隊の、ドレシャーSS大尉です」
「ハヌッセン君、今の話を供述書にまとめて署名出来るね?」
「出来ます」
「ドレシャーSS大尉が戦犯として逮捕されたら、君は裁判で証言出来るね?」
ハヌッセンは躊躇わずに頷いた。
あのSS大尉とその部下達は恐ろしく勇敢だった。攻め寄せて来たロシア軍の歩兵は機関銃で薙ぎ倒され、戦車はパンツァーファウストで次々に炎上させられた。中でも指揮官のドレシャーSS大尉は自ら敵戦車に肉薄攻撃をかけ、一人で何台もの戦車を破壊してのけた。
第六六六SS戦車猟兵中隊は、ミンスク奪回を狙ったロシア軍の攻勢を撃退してのけた。少なくとも、その一回は。しかしハヌッセンは、今でもドレシャーSS大尉は間違っていたと思う。
間もなくドイツ軍の上層部から撤退命令が出され、結局ミンスクは放棄する事になった。ハヌッセンとその中隊は、ミンスクから西に撤退する途中、ネマン川の東岸で追撃して来たロシア軍に包囲され、弾薬を撃ち尽くして降伏した。
しかしロシア兵は、ハヌッセンとその部下達を殺さなかった。もちろん手荒く扱われたし、腕時計からブーツまで何もかも奪われたが、命だけは取られなかった。
その後の捕虜収容所の生活は苛酷だったし、警備兵の中には捕虜を苛める粗暴な者も複数いた。
だがロシア人の中には、善良な者も大勢いた。付近の住民達の中には、痩せ衰えたドイツ兵捕虜を哀れみ、食べ物をそっと渡してくれる者すらいた。警備兵の中にも、黙って食事を余分に配ってくれる者もいた。
彼らはこう言った。
「おなかを空かせてる人には、何かあげなくちゃ」
「俺達が執念深いなんて思うなよ」
ミンスクでの市街戦、そしてその後に続いた撤退戦の中で、ハヌッセンの中隊の多くの兵が戦死した。
その部下達の死について、責任はドレシャーSS大尉にある。ハヌッセンはそう信じていた。