第12話 一九四二年秋(フライシュタット強制収用所、ペーター)

文字数 16,602文字

 フランスからドイツを横断する長い列車の旅を終えると、駅には迎えのフォルクスワーゲンが来ていた。灰色に塗られた、軍用のやつだ。
 私はその助手席に乗って新しい勤務地に向かった。運転兵は仏頂面の三十男だったし、私もお喋りを楽しみたい気分ではなかった。
 幸い私の新たな配属先は駅から近く、ほんの数分で着いた。
 二重の鉄条網と機関銃を据え付けた監視塔に囲まれた、整然と並ぶ何列ものバラック。そこのただ一カ所の出入り口は鋭い牙を剥き出したシェパードとライフルを背負った衛兵に守られていて、鉄製の門の上にはこんな文字が掲げられていた。
 労働は自由を約束する。
 その門の下で、わざとらしいほど大きな笑顔を浮かべたSS中尉が待っていた。彼の軍服は上等でプレスも効いていて、よく磨き上げられたブーツには長い革の鞭が無造作に突っ込まれていた。
「ようこそ、我がフライシュタット強制収用所に」
 こいつは馬だな。
 それが、アントン・ブリュックラーSS中尉の第一印象だった。それも血統書つきのサラブレッドではなく、癖の強い駄馬だ。狡くてひねくれていて、隙があれば主人にも噛みつこうとするような奴だ。
 ブリュックラーは何もかも細長かった。背が高く痩せていて、顔も顎も尖って長く、白く揃った歯も大きくて長い。その歯を剥き出して笑っているから、ますます馬に似て見えた。
「君がペーター・ドレシャーだな? うん、ゼップから話は聞いている。俺の事、ゼップは話さなかったか?」
 言いながら、長い腕を私の肩に回してきた。彼の背後の衛兵には、私達が旧い友人同士であるかのように見えただろう。しかし私とブリュックラーは、その時が初対面だった。
「ゼップと俺は、SS士官学校で同期だったのさ。ただ、あいつと違って俺は劣等生でな、いつも落第すれすれだったよ。俺か? 俺はここの副所長だ。と言っても、ただの事務屋だけどな。ゼップとはえらく違うだろ? やつは今やエリート街道まっしぐら、だものな。でも俺と奴は、今も親友のままさ」
 そうか、それでゼップは私の新しい配属先にここを選んだのか。
「心配するな、君の事はゼップから任されてるから」
「ブリュックラーSS中尉、どうぞよろしくお願いします」
「おいおい」
 ブリュックラーは口を大きく開けて笑った。
「俺たちゃ、これから同じ釜の飯を食う戦友になるんだ。堅苦しいこたぁ抜きにして、俺、お前のつき合いをしようや」

 確かにゼップは私を守ってくれた。私は銃殺を免れただけでなく、一兵卒に落とされて最前線の懲罰大隊に送られる事もなかった。
 ペーター・ドレシャーSS少尉、貴官のゲシュタポパリ支局勤務の任を解くと共に、フライシュタット強制収用所に幹部職員として赴任する事を命ずる。
 それが私に下された処分だった。
 その瞬間、私の全身から力が抜け、安堵の溜め息が漏れた。
 助かった……。
 その時私の胸を占めていたのは、ただその思いだけだった。
 占領地でユダヤ人を処分(ころ)して回る特別行動隊(アインザッツグルッペン)、そして強制収容所の髑髏部隊はSSの中でも最低の存在で、まともなSS隊員には忌み嫌われていた。言ってみれば、どちらも親衛隊の最下層の者がやる汚れ仕事で、それらの兵士の中には、服役中の刑務所からそのまま引っ張り出されて来た犯罪者すらいた。強制収用所の看守に志願するなら、特別にお前の刑期を短縮して釈放してやるがどうだ……というわけだ。
 それゆえ強制収用所への転属命令は、SSでは一種の懲罰も意味していた。
 だが私は銃殺を免れたのだ。しかもSS将校の身分のまま、戦線のずっと後ろで管理職として働けるのだ。文句があろう筈もない。
 しかしその時の私は、強制収用所で働くという事の意味を、何一つわかっていなかったのだ。

 私はすぐに所長にも引き合わされた。所長のオステルマンSS少佐はどこにでもいそうな中年男で、頭は禿げ上がり腹もベルトの上に迫り出し始め、軍服より背広の方が余程も似合うように思えた。
 会社の庶務課長。そう、ちょうどそんなイメージだった。
 オステルマンSS少佐は所長室の大きなオークの事務机の向こうに腰を下ろしていて、私がブリュックラーSS中尉に伴われて所長室に入って行った時も、鷲の国家紋章の入った書類に何やら書き込んでいた。そして私が着任の挨拶をしている間にも、ペンを走らせる手を止めずにいた。
「ドレシャーSS少尉か? 聞いとるよ、うん、話は聞いとる」
 言いながら一瞬だけ目を上げ、すぐにまたサインした書類を未決の箱から既決の箱に入れ替える作業を続けた。
「君がここでする事は、ブリュックラー副所長から聞いてくれたまえ」
 そう言う間も、所長は書類から目を上げなかった。
 しかし部屋を出こうとした時、所長は私を呼び止めて思い出したように付け加えた。
「忘れるな、情けは弱さと同じだぞ。ここでまた何かへまをしたら、君は間違いなく終わりだ」
 所長は別に凄みを効かせてその言葉を口にしたわけではなく、何の感情も込めずに極めて事務的に言った。だがもし私がパリでしでかしたような真似をしたら、彼は何のためらいも無く私の死刑執行命令書にサインするだろうと感じた。

 強制収用所での仕事は、ある意味ではとても楽だった。誤解を恐れずに言えば、私は殆ど何もせずにぶらぶらしていたようなものだった。
 収容されていた囚人の大半がユダヤ人で、政治犯とジプシー、それに同性愛者らが一割ほどいた。しかし私には、どれもどうでもよいことだった。
 たとえ相手が二等兵でも、囚人はドイツ兵の前に出たら素早く一歩下がり、脱帽して直立不動の姿勢をとらねばならない。それが強制収用所の規則だった。囚人の方から話しかける事どころか、顔を上げ目を合わせる事すら許されていない。
 だから私の方から何かしなければ、囚人とは一切かかわらずにいられた。私が目もくれずに黙って通り過ぎれば、囚人達はみな道を空け目を伏せて縮こまっている。
 見て見ぬふりをする。
 それが私がフライシュタット強制収用所で最初に学んだ、生きる為の道だった。囚人がいる場所に足を踏み入れる時には、私は出来る限り脇目も振らずに通り過ぎるようにした。そうすれば、嫌なものを見たり聞いたりする事は無い。
 強制収用所での私の職務は連絡隊長だった。所長とその配下の各隊長との間の連絡調整にあたる、言ってみれば使い走りのようなものだ。時には不愉快な仕事も回って来るが、将校である私が自ら手を汚す必要は無かった。
「囚人どもの働きぶりだがな、ここのところ少々たるんでいるのではないか? ドレシャーSS少尉、ひとつ奴らに活を入れてやりたまえ」
 例えば所長にそう命じられたとしても、私はただ部下に頷いて見せるだけで良い。するとヴィルケSS軍曹が兵士らを引き連れて作業場に行き、棍棒で手当たり次第に囚人達を殴りつける。
 所長がまた、私に次の命令を与える。
「ドレシャーSS少尉、囚人どもを百人ほど処分してくれんか。近いうちにまたユダ公どもが送られて来るそうでな、面倒だが寝床を少し空けておかなければならんのだ。そうだな、今日中に頼む」
 その時も、私はヴィルケSS軍曹に頷いて見せる。すると彼は囚人らの働きぶりを見て回り、体力を消耗し尽くして弱った者を選び出して、銃を突きつけてガス室へと追い立てて行った。
 すべてがそんな調子で進んでいた。私はただ、ヴィルケSS軍曹に頷いて見せるだけでよかった。
 ハインツ・ヴィルケSS軍曹は私に任された部下達の頭株で、警察官あがりのベテラン看守だった。私より十センチは背が高く、体重は三十キロは重いだろう。赤ら顔で小さな青い目は光を失い、薄汚れたガラス玉のように見えた。
 私に代わって、ヴィルケSS軍曹はよく働いてくれた。私がフライシュタット強制収用所での仕事を曲がりなりにもこなす事が出来たのも、彼がいてくれたからだ。
 とは言うものの、それにはそれなりの代価が必要だった。
 ヴィルケSS軍曹の耳は、時折具合が悪くなる。私が何か命じてもその場を動かず、眉を寄せ、何を言われているのか全く理解出来ませんとでも言いたげな表情で、私をじっと見下ろすのだ。
 そんな時には、ウォトカか火酒(シュナップス)の瓶をそっと渡す。すると彼の耳は、途端に聞こえるようになるのだ。
 君にとっては、これが最後のチャンスだ。非情に徹してどんな任務でも遂行できることを、ここで証明して見せなきゃ駄目だ。ブリュックラーSS中尉は私に繰り返しそう言い聞かせた。
 だがブリュックラーにどれだけ尻を叩かれても、私には出来なかった。自ら鞭を振るって囚人を殴りつけたり、泣き叫ぶ子供を母親の腕から引き離してガス室行きの列へと突き出したりするような真似は、私にはどうしても出来なかった。
 しかしそれらの《汚れ仕事》を拒否することも、私には出来なかった。
 だからこそ、私にはヴィルケSS軍曹が必要だった。
 そして彼もまた私を必要としていた。
 ヴィルケSS軍曹がどんな目で私を見ているのか、私自身よくわかっていた。将校のくせに厭な仕事はみな部下にして押しつけて、自分の手は汚さずにいる狡い怠け者。そして私も彼を、感情の鈍磨した残忍な獣と蔑んでいた。
 戦時中だった。我がドイツ軍は見かけの上では勝ち続けていたが、実際にはスターリングラードでもエル・アラメインでも泥沼の消耗戦に引きずり込まれていた。後方の私達の所でも、酒の類いなども含むいろいろなものが不足し始めていた。そしてヴィルケは、酒が無くては生きて行けない男だった。
 私は好んで酒を飲む人間ではなかったし、森と荒れ地に囲まれた人里離れた強制収容所では、給料を貰っても金の使い道も無かった。だからヴィルケSS軍曹に渡す酒を闇で買うくらいの出費など何でもなかった。
 ヴィルケの息はいつも酒臭かった。雑嚢にはいつもスキットルを忍ばせていて、勤務中にも度々物陰で一杯ひっかけていた。酔って喧嘩騒ぎを起こす事も、二日酔いで勤務に穴をあける事もあった。それらについて私は見てみぬふりをしていただけでなく、あらゆる処罰から庇ってもやった。
 要するに、私とヴィルケは持ちつ持たれつだった。心の中では相手を見下していながら、互いに相手の存在を必要としていた。

 一九四二年の冬から四三年の春までの間に、我がドイツを巡る状況は激変した。チュニジアではアフリカ軍団が、スターリングラードでは第六軍が、兵力でも武器でも圧倒的に勝る敵に包囲されて降伏し、前線ではかなり酷い事になっていた。
 だが後方の強制収用所では状況は何も変わらず、ただ時間だけがゆっくりと流れていった。貨車にユダヤ人を満載した列車は次から次へと到着し、そして私達のガス室は脂臭い黒い煙を上げ続けた。
 時間さえかければ、人は何にでも慣れる事が出来るものだ。ダンテの地獄編さながらの飢えと暴力と死に満ちた光景にも、焦げ続ける肉が放つあの臭いにも、私はいつしか慣れていた。
 私は決して残酷な看守ではなかった。その事は断言できる。囚人を殴打するような真似は一度もしなかったし、底意地の悪い懲罰を与えたりもしなかった。
 ただ同時に、私は彼らを救う為に指一本動かそうともしなかった。
 囚人達は密かに収容所のドイツ兵一人一人にあだ名をつけていた。ムチ使い、死の天使、番犬……。もちろん、私達が面と向かってそのあだ名で呼ばれる事など無い。だが、付けられたあだ名は、いつの間にか私達にも漏れ伝わって来た。
 私は幽霊と呼ばれていた。
 そう、あの頃の私は幽霊そのものだった。いつも無表情で、収容所内を足を引きずるようにしてのろのろと歩き回った。囚人らには目も向けず関心も持たず、ただ命じられた仕事を黙々とこなし続けていた。本物の私はパリで死んだも同然で、強制収用所での私は抜け殻のようなものだった。
 自分が許されざる行為に関与している事くらい、よくわかっていた。
 同時に、自分には何も出来ない事もわかっていた。
 私が強制収用所で起きている残虐行為に反対しノたとしても、現実は何も変わらないのだ。それで誰の命が助かるわけでもなく、ただ私自身を破滅に追い込むだけでしかない。その現実は、パリでの一件で嫌というほど思い知らされていた。
 自分自身の良心に対する義務は、私はパリで充分に果たした筈だ。一度の人生で二度も殺されるのは御免だ。
 幾つもの銃口を向けられ、冷たい弾丸が飛んで来るのを待つ。あの瞬間の光景と恐怖を、私はどうしても忘れる事が出来なかった。
 そんな私が無心になれるのは、機械を相手にしている時だけだった。
 強制収用所には戦車も装甲車も無いが、オペルのトラックにフォルクスワーゲン、BMWのオートバイ、そして所長専用のメルセデスがあった。しかしそれらには専従の整備兵がいて、私が手を出そうとすると露骨に嫌な顔をされた。そしてブリュックラーSS中尉にも、将校の権威を落とすような真似はするなと釘を刺されてしまった。
 その埋め合わせのつもりか、ブリュックラーは私にコンタックスをくれた。標準レンズにゾナーの5センチが付いた、Ⅱ型のコンタックスだった。
「やるよ、お前に。好きなんだろ、こういうのが」
 好きどころの話ではなかった。コンタックスは私が少年時代からずっと憧れ続けていたカメラだった。だが、中古品でもコンタックスは非常に高価で、私のような下っ端将校の手に入るような物ではなかった。
 そのコンタックスが今、私の目の前にある。
 ブリュックラーが持って来たカメラは、外観から言えばまずまずといった程度だった。本来ならば輝くように光っている筈のクローム・メッキのボディもどことなく脂じみていたし、大きな傷やへこみこそなかったものの、何カ所かには擦り傷が残っていた。しかし手に取って動かしてみると、巻き上げも軽くスムーズで、レリーズ・ボタンを押すと指先に心地よい感触を残して静かな音と共にシャッターが切れた。
 このコンタックスがどのように使われてきたか、私にもはっきりとわかった。元の持ち主は写真を撮ることをこよなく愛していて、大切に手入れしつつも、それ以上に熱心に撮影に取り組んでいたのだろう。こいつは使われずに飾られていたのではなく、愛されながら使われてきたカメラだ。
 ボディの手触りと革の感触を楽しみ、ファインダーを覗きこみ、室内のあちこちの物にピントを合わせ、夢中で何度も空シャッターを切ってからようやく我に返った。
「こんな値の張る良い物を、なぜ僕に?」
 ブリュックラーは唇の端を曲げるようにして笑い、私の手の中のコンタックスを引っくり返した。するとコンタックスの裏蓋の隅に、ダイヤモンドカッターでいかにも素人くさい下手くそな文字が彫り込んであった。
 K・ハンマーシュタイン。
「クルトだかクラウスだか知らねえが、この馬鹿野郎め、カメラにてめえの名前なんか彫りやがって。こんな事をされちゃ、売り物にもなりゃしない」
 その一言で私はすべてを悟った。
 強制収容所に送り込まれたユダヤ人達は、真っ先に持ち物すべてを取り上げられた。そして没収された物は職員によって仕分けされ、強制収容所の倉庫にドイツ国家の財産として保管される事になる。ブリュックラーは、その倉庫を管理する責任者でもあった。
 まだこの収容所のどこかにいるか、あるいは既に焼却炉の煙となってしまっているかも知れないカメラ好きのユダヤ人、K・ハンマーシュタインのコンタックス。
 そのコンタックスを、私は黙って受け取った。

 ある時、ブリュックラーSS中尉がこんな事を話した。
「知ってるか。ドイツ軍で自殺とアル中患者が一番多いのは、俺達SS髑髏部隊なんだと」
 わかるような気がした。
 私達SS髑髏部隊の者は、悪魔の配下そのものだった。毎日毎日、何の罪も無い人々を殴りつけ、飢えさせ、酷使して、その揚げ句にガス室に追いやっていた。まともな神経を持つ人間には、とても耐えられるものではない。
 ここに赴任してまだ間もない頃に、私はこう教えられた。
「蝿やゴキブリをピシャリと叩いて殺す主婦は、サディストなのか? いや、彼女はただ家の中を清潔にしているだけなのだ」
 つまりユダヤ人を殺すのは残虐行為ではなく、社会を浄化しているだけなのだ、と。
 ……無理だ。ユダヤ人とゴキブリを一緒になど、とても考えられない。
 髑髏部隊の兵士は、顔を見ればすぐにそれとわかる。夢も生きる喜びも失い、重い罪の意識だけを背負って死人ような目をしていた。
 いつ誰が拳銃で自分の頭を撃ち抜いたとしても、何の不思議もないように思えた。私の知るだけでも、二人の髑髏部隊の将校が自殺していた。
 だが私には、自殺する勇気すら無かった。フランスで銃殺隊の前に立たされた時、私は自分の良心だけでなく勇気も使い果たしてしまったのかも知れない。
 死ぬだけの勇気も無い者の多くは、アルコールに逃げ場を求めた。あの、ヴィルケSS軍曹のように。
 しかし酒は、私には救いにならなかった。私は悪酔いする性質なのか、酔えば酔うほど死んで行った者達、銃殺されたフランス人やガス室に送られたユダヤ人達の顔が瞼の裏に浮かんで来てしまうのだ。
 だが中には良心の痛みを感じる事も罪悪感に苦しむ事も無く、悪いのはそれを命じたお偉方なのだと割り切って現実的に立ち回る事に徹し、己の為だけに生きている者もいた。
 例えばブリュックラーSS中尉は倉庫の管理権を利用して、ここに送られて来たユダヤ人から没収した物の一部をくすね取っていた。それもダイヤなどの宝石類や金製品などの、小さくて値打ちのある物ばかりを選んで、密かに手元に隠し込んでいた。
「ペーター、駄目だよこの戦争は。ロシアでもアフリカでも我が軍は負け続けだ」
 ブリュックラーは党も総統も信じておらず、唯一金だけを信じていた。
「ここでやっている事を考えてみろ。戦争に負けたら、俺たちがただで済む筈あるまい? こいつはな、その時の為の命綱だよ」
 だから金や宝石が必要、というわけだ。
「聞いて驚くなよ。所長も俺と組んでいてな、手に入れた物は山分けにしているのさ」
 強制収用所の中の世界では、私達SS髑髏部隊員は神以上に絶対的な存在だった。哀れなユダヤ人達を苛め抜き、生かすも殺すも意のままにして。だが同時に、私達自身も精神が内側から腐りかけていた。

 強制収容所に赴任して数カ月も経たないうちに、私は手を抜く事を覚えた。収容所内の見回りに行くふりをしては、自室で機械工学の本を読んだり、カメラや時計などを分解してはまた組み立て直したりした。
 カメラは精密機械だ。中でもコンタックスの分解整備は特に難しい。素人の目には全く同じように見えるビスも、締め込むべき場所はすべて違う。しかも、違ったビスを選んで組み立てても、とりあえずネジ穴の中には入って行くのだから始末が悪い。シャッターや距離計などの精度も高いから、調整には慎重を要する。グリースも下手に盛るのは禁物だ。必要以上にグリースを使ってしまうと、逆に作動を悪くさせてしまう。陳腐な言い方をすれば、コンタックスは手のかかる美女のようなものだ。
 私にしてみれば、それがコンタックスの魅力だった。全神経を集中して取り組まなければ、精度が狂い元通りに動かなくなってしまう。だからこそコンタックスを手にしている時だけは、何も考えずにいられた。
 銃殺隊の前に立たされた時の記憶。強制収用所のおぞましい光景。そして底のない深い穴の奥に落ち込んで行くような罪悪感。機械の分解と組み立てに取り組んでいる時だけ、私はそれらのすべてから解き放たれた。
 その日も私は、強制収用所内の巡回を途中で切り上げて宿舎に戻った。自室の机の上では、何百ものパーツに分解されたコンタックスが私を待っている筈だった。
 部屋のドアを開けると、縦縞の囚人服を着た奴が目の前に突っ立っていた。胸にユダヤ人の星のマークをつけたそいつは、ちびで殆ど骨と皮ばかりに痩せていて、まだ十代前半のように見えた。
 私も驚いたが、その囚人の方がもっと驚いたようだった。しかし囚人の顔に浮かんだ驚きはたちまち怯えの色に変わり、体を縮めて頭を垂れ、手の中の雑巾を強く握りしめて、怒声と殴打を待つ姿勢を取った。
「ここで何をしている?」
 問い糺す私の声は、恐らく尖っていたと思う。囚人の返事は震えて切れ切れになり、私には殆ど聞き取れなかった。
「あのぅ……隊長さま……部屋のお掃除を……」
「そうか、ならば掃除を続けろ」
 だがそのユダヤ人の小僧は、胸が悪くなるほど汚らしかった。着ている囚人服が大き過ぎて不格好なだけでなく、泥やら垢やらで元の色がわからなくなるほど汚れ切っていた。手足の所々には、膿が出かけた幾つもの小さな傷痕まである。
 こいつの体には、間違いなく虱がうようよたかっているだろう。しかもそいつの体からは、生ゴミを地べたにぶちまけたような嫌な臭いまで漂って来た。
 私はコンタックスの組み直しに取り組んだが、どうにも作業に集中出来ず、椅子を撥ね飛ばすように立ち上がった。四つん這いになって床を拭いていた小僧は、電気に打たれたように体をすくめて縮こまる。
 私はドアを荒っぽく開け、バケツの中の汚れた水を雑巾ごと外にぶち撒けた。そして空になったバケツを小僧に押し付け、声を荒らげて命じた。
「綺麗な水を汲んで来い。急げ、走って行け!」
 これまでどんな人間が私の部屋を掃除していたのかを知って、私は背筋が冷たくなった。これでは掃除どころか私の部屋に垢と虱をばら撒いて、逆に不潔にしているようなものではないか。
 部屋を掃除させる前に、あの小僧自身を掃除しなければ。
 小僧は私をあまり待たせなかった。足元をふらつかせ、荒い息を吐きながら、新しい水で一杯にしたバケツを引きずるようにして戻って来た。
「服を脱げ、全部だ」
 命じられて、小僧は怯えた顔をした。
「聞こえないのか、さっさと脱いでその体と服を洗え」
 小僧の顔が紅潮した。が、震える手で服を脱いだ。ここでSS隊員の命令を拒む事は、間違いなく死を意味するからだ。
 小僧は酷く痩せていて、汚れたかさかさの皮膚から体中の骨がありありと浮き出して見えていた。
 しかしそれは何も珍しいことではない。強制収容所の囚人は、皆そのくらい痩せていた。そのような囚人一人を見て動揺するには、私の感情は擦り減り過ぎていた。
 だが裸になったその小僧を見た瞬間、私は頭を殴りつけられたような衝撃を受けた。
 そいつは小僧などではなく、十代半ばの少女だった。髪は刈られて丸坊主で、肋骨がくっきりと浮き出すほど痩せて胸のふくらみなど殆ど無くなってしまっていたが、裸の下半身がそれを証明していた。
 私が近づくと、彼女は主人から罰を受けるのを待つ子犬のように身を縮めた。私は棚を掻き回し、中から引っ張り出した石鹸とタオルを彼女に押し付けて部屋から出た。
 どうにもやり切れない気分だった。その日は自分の部屋に戻る気にはなれず、勤務時間の後も将校集会所で強くもない酒を飲んだりして過ごした。
 消灯時間になってから部屋に戻ると、石鹸と綺麗に洗われたタオルが私の机の上に置かれていた。そしてそれが、私を更にやり切れない気分にさせた。

 数日後、部屋に戻った私は再びあのユダヤ人の少女と顔を合わせた。手に雑巾とバケツを持ったまま頭を下げ、少女は私に声をかけられるのを待つ。
「部屋の掃除か?」
「はい、隊長さま」
 何の感情もこもらない、硬い声だった。
「私の部屋をいつも掃除していたのは、お前か?」
「はい、隊長さま」
 少女は狼の前の羊のように居心地悪げで、体を強ばらせたまま顔を上げようともしない。
「お前、名前は?」
 少女は震える声で六桁の数字、囚人番号を言った。
 私が期待していたのはそんな答えではなかった。しかしその答えが、私と彼女の立場の違いを嫌でも思い出させた。
「そうではない、親が付けた名前だ」
「レーナ・フェスマンと申します、隊長さま」
 私はその少女、レーナと話をしてみようと試みた。しかし私が何を話しかけても、彼女は二通りの返事しかしなかった。
 はい、隊長さま。
 いいえ、隊長さま。
 そして一方的な会話が暫く続くと、レーナはこう言った。
「掃除を続けてもよろしいでしょうか。仕事は他にもありますので」
 しかし私は諦めず、戸棚の引き出しから缶入りのキャンディを取り出した。
「ちょっと、こっちへ」
「はい隊長さま、何でしょう」
 目を合わせぬよう床に視線を落とし、肩を小刻みに震わせながら彼女が近寄って来る。
「これをやる。持って行け」
 私はキャンディを缶ごと差し出した。
 飢えている囚人の心を、甘い食べ物で釣る。姑息な手段とは思ったが、私にはそれ以外の方法が思いつかなかった。
 しかしレーナは凍りついたように動かず、手を出そうとしなかった。彼女の顔に浮かんでいたのは、ただ恐怖だけだ。
 わかっている、悪いのは私を含めたSS髑髏部隊なのだ。しかし私は無性に腹立たしくてならず、近くの屑籠を思い切り蹴飛ばした。
 奇麗に掃除されたばかりの床に塵芥が散らばり、屑籠が部屋の隅まで転がって行く。
 青ざめた顔で立ち尽くすレーナの目の前で、私は散乱した塵芥の上にキャンディの缶を放り投げた。
「さっさと片付けろ。こいつも塵芥と一緒に捨てちまえ!」
 私はレーナを残して部屋を出た。そしてまだ日のあるうちは鞭を手に収容所内をうろつき回り、夜は将校集会所に居座って不味い酒を飲み続け、部屋には遅くまで戻らなかった。
 再び戻った時、部屋は奇麗に片付いていて、塵芥も一つ残らず処分されていた。そしてキャンディの缶も無くなっていた。
 そのまま塵芥と一緒に捨てたのか、それとも持って行って食べたのか。
 キャンディがどうなったのか、私は知らない。

 私はその後も時々、部屋の掃除に来たレーナと顔を合わせた。
 私はレーナに何も話しかけなかった。
 もちろんレーナが私に話しかけてくる筈もない。
 沈黙が支配する中で、私はカメラやラジオや蓄音機などの分解と組み立てに取り組み、レーナは部屋の掃除を続けた。
 ただ私は部屋の屑籠に、毎日何か食べる物を入れておいた。一目でそれとわかるよう、他の塵芥の一番上に。そしてレーナはその屑籠を黙って持って行き片付けた。

 そんなある日、私が部屋に戻ると中でレーナが待っていた。
 部屋の掃除は既に終わっており、床や家具は光るほどに磨き上げられていて、屑籠も空になっている。そしてレーナは部屋の真ん中で、目を落とし直立不動の姿勢をとって待っていた。
 規則だから、囚人のレーナの方からSS隊員に話しかけることは出来ない。しかし是非話したい事があるのだという彼女の思いは、私にも伝わってきた。
「何か?」
 私は穏やかに声をかけたつもりだったが、レーナは肩を震わせ唇を強く結んだだけだった。
「言いなさい、話があるんだろう?」
 促されて、あの……と言いかけはしたものの、その後の言葉が続かない。
 私はさりげなくホルスターの付いたベルトを外し、ベッドの上に放った。お前に危害を加えるつもりはないと、私なりに態度で示したつもりだった。
「いきなりこんな事を言い出したりして、お怒りにならないで下さい。アスピリンでも何でも構いません、お薬をいただけないでしょうか」
 私を見上げるレーナの黒い瞳には、必死の思いが溢れていた。
「どうした、具合でも悪いのか?」
「いえ、私ではなく……」
「家族の誰かか?」
 レーナは答えられずにいる。しかし否定しないということは、おそらく親か姉妹か大切な誰かが病気なのだろう。
 病気が何を意味するのか、私にはよくわかっていた。強制収容所では、働けなくなった囚人はごくあっさりと処分される。そして処分とは、ガス室送りに他ならない。
 病人が誰なのかは詮索すまい。私はそう決めた。
「で、頭が痛むのか? それとも熱が出ているのか?」
「胃です。元々胃が弱かったんですが、ここに来てすっかり……」
 レーナはその先を言いかけて慌てて口を閉ざす。
「わかった」
 私は引き出しの中から錠剤の胃薬が入った小瓶を捜し出し、そのままレーナに渡した。
「そのまま全部持って行け」
 受け取るとレーナは深々と頭を下げ、巣へ急ぐ小鳥のように駆けて行った。

 レーナはその翌日も私を待っていた。それまで私が一度も見た事の無かった、春の野の花のような笑顔と一緒に。
「病人は?」
「ありがとうございました。とても楽になったと感謝しています」
「それは良かった」
 レーナの笑顔が少しだけ陰った。
「でも私、何もお礼が出来ません」
「気にするな。欲しい物があったら、また言えばいい。私に出来る事なら何とかしよう」
 それで話は終わったものと思い、私は読みかけていた機械工学の本を広げた。
「あの……」
 声をかけられて、私は本から顔を上げずに生返事をした。
「ん?」
「ちょっとだけ、一分だけお時間を下さい」
 そう言うと、レーナは身振り手振りも交え、声色も使って話し始めた。

 あるうららかな春の日に、モシェは散歩をしていました。天気は良く暖かく、野や山は若緑に染められ、小鳥が囀り、牧場では牛が草を食んでいます。
 神様は偉大だなあ、とモシェは思いました。近くで見れば小山のように大きい牛も、元はと言えば小さな子牛で生まれ、空を飛ぶ鳥も初めは小さな卵だったのですから。
 でも、モシェには一つだけ納得できないことがありました。
「鳥は小さいから、食べ物もほんのちょっとしか食べない。けれど牛は大きいから、ものすごくたくさん食べるよな。なのに鳥にはどうして遠くまで飛んで行ける羽根があって、とてもたくさんの食べ物を探さなければならない牛には羽根がないんだろう? とても不思議だ。これだけは神の意志がわからない」
 モシェがそう呟いていると、小鳥が彼の上をかすめるように飛んで、彼の頭の上に糞を落として行きました。
 その瞬間、モシェは大声で叫びました。
「ああ、やっとわかったぞ、やはり神は偉大だった!」

 いつの間にか話に引き込まれていた私は、落ちを聞いた瞬間笑い出してしまった。
「品のない話ですみません」
 顔を赤らめながらも、レーナもほほ笑んでいた。
「私、隊長さまが笑ってらっしゃるのを一度も見た事がありませんでした。何故なんだろうって、ずっと不思議に思っていました。親衛隊の隊長さまですし、ここでは何でも思いのままに出来ますのに、いつお見かけしても少しも楽しくなさそうで、お寂しそうで。それで……」
 そうか、小咄と笑いが、彼女なりのせめてもの礼というわけか。
 それから一日中、私はレーナが語った小咄を繰り返し思い出しては頭の中にその情景を描き、何度となくにやついていた。小咄そのものは他愛のないものだったが、レーナが私に示してくれた気遣いが妙に嬉しく、私は幸せに近い感情を味わっていた。
 その日以来、私とレーナはしばしば言葉を交わすようになった。わざわざ屑籠に放り込んだりしなくとも、レーナは食べ物も笑顔で受け取ってくれるようになった。そしてそのせめてものお返しにと、レーナは私を小咄で笑わせる。
 レーナはとても頭の良い娘だった。彼女を深く知るようになるにつれ、私はますます感心させられる事になった。
 レーナの小咄は、最初のうちはほんの他愛もないものや、ナチが喜びそうなユダヤ人の悪い面をねたにしたものが多かった。

 洋服屋の主人のコーエンが、重い病気にかかって臨終のベッドに横たわっていました。
「ベラはいるか?」
「あなた、ここにいるわよ!」
 妻のベラが答えました。
「ライザートはいるな?」
「パパ、ここにいるよ」
 長男のライザートが答えました。
「レオンはいるか?」
「もちろん、ここにいるよ!」
 次男が答えました。
「エルザもいるのか?」
「パパ、ちゃんとみんないるわよ!」
 末の娘がそう答えると、コーエンはいきなりベッドから跳び起きて怒鳴りました。
「この馬鹿者ども! いったい誰が店番をしているのだ!」

 しかしレーナはただの甘い小娘ではなかった。時には、笑いの中に鋭い棘をそっと忍ばせたりもする。

 ある国の王様に仕えていたピエロが、あることで王様のご機嫌を損ねて、死罪を命ぜられてしまいました。
 王様はピエロにこう言いました。
「ただし、そなたはこれまでよく儂を笑わせてくれた。それに免じて、死に方はそなたに選ばせてやろう」
 するとピエロは、落ち着き払ってこう答えました。
「ありがたき幸せに存じます。では、私は老衰による自然死をお願いします」

 この小咄は痛かった。
 老衰による自然死。それは強制収用所のすべての囚人が願い、しかし決して叶えられずにいる事だ。
 強制収容所の髑髏部隊の将校として、私はレーナを厳しく処罰すべきだった。しかし私はそうする代わりにここで自分達が犯している悪行を思い起こし、曖昧な笑みでごまかしながら罪の意識に胸を焼かれた。
 そうした私の精神的な弱さを、レーナはたちまち見て取ったようだ。私の本心を試そうとするかのように、彼女は私に次々に痛い小咄を聞かせた。

 ある行商人が、道端にカーペットを広げて売っていました。そのカーペットはどれもとても綺麗だったので、間もなく一人の客が足を止めて値段を尋ねました。
「これは三百マルク、そしてこちらはとびきり上等なものなので五百マルクになります。何しろ、織りあげるのに三カ月はかかっていて……」
 客は商人の説明を途中で遮って、顔をしかめて言いました。
「いや、買うのはやっぱりやめにするよ。何だかいやな臭いがするからね」
 すると商人は顔色を変えてこう言いました。
「カーペットじゃありません、臭ってるのは私の方なんです」

 商人のヤコブは、ある取引のために旅行に出掛けました。そしてある安宿に泊まったヤコブは、まだ朝も明けないうちに起きだして、宿屋の主人を叩き起こして文句を言いました。
「何てひどい宿屋なんだ!」
 ふくれっ面のヤコブと同じくらい、宿屋の主人も不機嫌な顔をしています。
「いったい何なんです、こんな時間に」
「ベッドで虱が一匹死んでいたんだよ」
 宿屋の主人は声を荒げて言い返します。
「そんなつまらない事で文句を言わんで下さいよ、死んだ虱は人を噛んだりしないじゃないですか」
 するとヤコブはこう怒鳴りつけました。
「最後まで聞け! その死んだ虱の親戚一同や友人どもが集まって、一晩中盛大に葬式をやっていたのだ」

 垢と虱だらけの、臭くて不潔なユダ公め。
 初めて出合った時、私はレーナのことをそう思った。
 しかしレーナは自ら好んで不潔にしていたわけではない。彼女をそのような状態に追い込んだのは、そもそも私達SSなのだ。年頃の少女にとって、動物以下の不潔な暮らしを強いられるのはどれほど辛い事だろう。
 だが、私がどれだけ罪悪感を抱き胸を痛めたところで、私一人でナチを倒し強制収用所を潰す事など出来ない。
 私はレーナに石鹸と清潔な衣類を与えた。
 私に出来る事と言えば、そのくらいしか無かった。

 強制収用所のSS将校達の中には、妻子を連れて赴任して来ている既婚者も少なくなかった。オステルマン所長もそのうちの一人で、夫人は何人もの囚人の召し使いにかしずかれ、女王のように振る舞っていた。
 しかし独り者の私には、身の回りの世話をしてくれる者はいない。そこで私はブリュックラーに頼み、レーナを私専属の召し使いに貰い受けた。それでレーナは重労働から解放され、私の身の回りの世話だけをすれば良い事になった。
 私の身の回り世話と言っても、たかが知れている。半日もあれば部屋の掃除も洗濯もアイロンがけも完璧に片付いて、後は私と話をするなり本を読むなりして、作業終了の点呼の時までのんびり過ごす事になる。
 レーナはベルリン育ちのユダヤ系ドイツ人でもあり、私と共通の話題も数多く見つかった。ただ違うのはレーナは理数系より文科系の教科が得意な文学少女で、私はその彼女にケストナーなど数々の小説の面白さを教えられた。
 ナチが支配するドイツでは、エーリヒ・ケストナーの本は禁書だった。しかし発行を禁じられ火中に投じられた後もなお、ケストナーの本はレーナの頭の中に生きていた。
 レーナは『飛ぶ教室』に出て来る少年達の人間像や数々の場面を、例によって身振り手振りと声色を駆使して私に話して聞かせてくれた。
 ナチが禁じた小説のストーリーを語るユダヤ人の少女に、それに熱心に聞き入るSS将校。傍から見れば異様な光景だが、いつしか私達にはそれが当たり前の事になっていた。私にとって彼女はもはや六桁の囚人番号で表される汚らしいユダヤ女ではなく、レーナ・フェスマンという尊厳を持つ一人の人間だった。
 短い間に、レーナは急速に変わった。私は彼女に襤褸の囚人服と木靴を捨てさせ、短く刈り上げられていた髪も伸ばさせた。私がまともな食べ物を与えると、彼女はたちまち血色が良くなり、肌も薔薇色に輝いて、痩せこけていた体も少しずつ女らしい丸みを取り戻していった。
 流行のファッションとは程遠いものの、よく洗濯された清潔な衣類に、女らしく伸びつつある髪。レーナ自身も清潔で垢一つ無く、近くに寄るとほのかに石鹸の匂いがした。
 私は何もレーナをお姫様のように飾り立てたわけではない。私はただ、彼女を同じ人間として普通に扱っただけだ。服や肌が清潔に保たれているのは、人として当然のことではないか。
 だが強制収用所では、それだけで選ばれた特別な囚人である事を意味した。
 色は地味だが体に合うよう仕立てられたスカートをつけ、ブラウスの上にはカーディガンをはおる。足にはブーツを履き、髪は丁寧に櫛を入れてある。レーナはいつしか収容所の幹部将校に気に入られた、特権階級に属する囚人の一人になっていた。
 その特権を、レーナは自分の為だけに利用しようとはしなかった。食べ物なり薬なり、あるいは比較的楽な仕事への配置転換なり、彼女が私に何か頼み事をする場合、それはすべて親族や友人など他の誰かの為だった。
 所内の巡回に出ていて、私は囚人達の態度が少しずつ変わってきた事に気がついた。少数ではあったが、私に感謝を込めた眼差しを送る囚人が居ることにすら気付いた。
 その中にはレーナと同年代の少女もいれば、レーナの親世代の中年の男女、そして老人に近い年齢の者までいた。レーナが私に聞かせてくれる数々の小咄は、おそらくそれらの中の年配の者たちが教えたのではないだろうか。

 他の特権を得た囚人達とは違い、私という庇護者を得た後も彼女の内面は以前と少しも変わらなかった。しかしレーナの存在は、次第に人目を引くようになっていった。
「ほう、こいつがお前のペットか。なかなか可愛いのを見つけたじゃないか」
 ブリュックラーSS中尉はわざわざ私の部屋まで見に来て、怯えるレーナの全身を無遠慮に眺め回した。しかし長居はせず、私達に冷やかすような目を向けて帰って行った。
 ただその帰り際、ブリュックラーは私にそっと耳打ちをした。
「あまりやり過ぎるなよ、何しろ人種法ってやつがあるからな?」
 ドイツ人がユダヤ人などのいわゆる劣等民族と性交渉を持つ事を、ナチ党は法律で厳禁している。
 しかしその忠告は、余計なお世話というものだった。その時私達は、まだキスすらしてなかったのだから。
 以前から私は、ナチ党の言う人種理論など馬鹿らしいと思っていた。レーナを抱き寄せ、そしてキスしたい。本音を言えば、そんな衝動に駆られることも度々あった。しかも私は、収容所の幹部将校という絶対的な立場にいる。
 それでも私がレーナの手も握らずにいたのは、私が自分の立場を自覚していたからだ。
 私がどんな行動に出ても、彼女は拒まないだろう。だがそれは、私がSS将校だからだ。そのような形ではなく、レーナには私を一人の人間として見て、その上で彼女自身の意志で私を受け入れて欲しかった。
 そこまで考えて、私は愕然とした。
 私のその感情は、愛に異ならなかった。
 強制収容所のSS将校と女囚の愛など、上手く行く筈もない。その事は、私自身が最もよくわかっている。しかし私はいつの間にか、朝から晩までレーナの事を考えているようになっていた。
 その年の春から夏までの数カ月間、私は幸せだった。鉄条網に囲まれた狭い世界の中の、倉庫とさして変わらない薄暗い私の部屋で、私とレーナは平穏な日々を過ごしていた。
 しかし私達にハッピーエンドなどあり得ない事は、私は勿論、そしておそらくレーナもわかっていた。
 ドイツが戦争に勝てば、レーナはいずれここで囚人として死ぬしかない。そしてドイツが負ければ、私は戦犯として処刑されるだろう。戦争の帰趨がどうなるにしても、結局はどちらかが死ぬのだ。
 私もレーナもそれをわかっていたから、二人の未来など語り合う事もなく、ただその一瞬一瞬を寄り添って過ごした。
 その頃、白ロシアのクルスク付近の平原では、ドイツとロシアの両軍が総力をあげた大決戦を繰り広げていた。
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登場人物紹介

 ペーター・ドレシャー……ただ機械が好きなだけの、大人しく心優しい青年。興味があるのはナチスの政治的な主張ではなく、ナチスが作らせた戦車や装甲車。それで戦争が始まると、一兵卒として召集される前に戦車の整備をする技術将校を目指して士官学校に入学する。

 杉村史生……ペーターと同じく、機械が大好き。ベルリン工科大学に留学し、ペーターと親しくなる。第二次世界大戦が始まった為に帰国できなくなり、ベルリンで機械工学の勉強を続ける。そして大戦末期のロシア軍に包囲され陥落寸前のベルリンで、旧友ペーターと再会する。

 ヨーゼフ・ヴェーゲナー……ペーターの従兄でナチスの若きエリート。ナチス思想に心から染まっているわけではなく、第一に考えているのは己の出世。愛想は良いが心は冷たい。だが従弟のペーターのことは彼なりに大切に思っており、親衛隊に誘ったり、ペーターが窮地に陥ると救いの手を差し伸べたりする。しかしその為、ペーターはますます悪の道に堕ちて行くことになる。

 ケーテ・レンスキ……ポーランド国境に近いポメラニアに住む少女。略奪や暴行をしながら進撃するロシア軍の猛攻に追われ、撤退するミュンヘベルク師団と共にベルリンまで逃げる。その間、師団の看護婦の役目を務める。

 ユーリ・アレクサンドロヴィチ・スミルノフ……ロシア軍の大尉で正義感あふれる熱血漢。政治将校だが、ナチとドイツ軍は憎むが、ドイツの民間人は守ろうとする。

 ステパン・グレゴリオヴィチ・フョードロフ……ロシア軍の上級中尉。NKVD(後にKGBとなる国家保安人民委員部)の職員。

 花井孝三郎……表向きは駐独日本大使館の旅券課員だが、実は陸軍中野学校で教育された特務機関員。杉村史生に総統官邸に潜入しヒトラーの動向を探るよう命じる。

 ハンナ・ベルツ……ベルリンに住む少女。父親が反ナチ思想の持ち主で、「ナチスよりロシア軍の方がマシ」と教え込まれている。

 エルナ・ウルマン……ハンナの友達。父親がドイツ軍の将校である為、ロシア軍をとても恐れている。

 アントン・ブリュックラー……SS中尉で強制収容所の副所長。楽をして生きている要領の良い男。ドイツ軍の敗戦を見越し、収容したユダヤ人から略奪した金品を横領している。

 レーナ・フェスマン……強制収容所に収容されているユダヤ人の少女。頭の良い文学少女で、ふとしたことから知り合ったペーターと親しくなる。しかしそれは決して許されない恋だった。

 バウル・リッター……ベルリン郊外で退却しながら戦うドイツ第九軍の少年兵。故郷の東プロシアはロシア軍に占領され、絶望しながら西へと逃げている。

 マックス・シュペート……第九降下猟兵師団の伍長だが、本来は空軍の整備兵。兵力不足で東部戦線に駆り出された際に、ロシア兵の残虐さを目にした為、ロシア兵の捕虜になることを死ぬより恐れている。

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