第9話 一九四二年夏(パリ、ペーター)
文字数 2,456文字
ヴァイゼルSS少尉の鋭い声が響く。
「撃て!」
ライフルが一斉に火を吹いた。
地の底が抜ける。そんな感じだった。両足の力が抜け、私は自分で掘った穴の中に転がり落ちて仰向けに倒れた。
しかし痛みは何も感じない。意識もある。
……何故だ?
目を開けてみる。
一緒に連れて来られた、見覚えのあるフランス人の顔が間近にあった。彼も目を開けて私を見ている。しかし瞬きひとつせず、その茶色の瞳には何の感情も浮かんでいない。
死んでいる。胸には二つの大きな赤い染みが出来ていて、手足は妙な角度に曲がっていた。
「起きろ、ドレシャー」
声がした方を見上げると、墓穴の縁にヴァイゼルSS少尉が立っていた。
「さっさと出て来い、お前は撃たれちゃいない。誰が思いついたか知らんが、とんだ茶番だ」
墓穴から引き出された私は、オペルの荷台に乗せられてソセー街のゲシュタポ事務所に戻された。そしてまたあの独房に放り込まれた。
わからない。なぜあんな真似を?
答えが出ないうちに、ヨーゼフ・ウェーゲナーがやって来た。一番苦しかった時には来てくれなかったゼップが、今になって私の独房に現れた。
「よう、馬鹿な事をしでかしてくれたそうじゃないか」
付き添ってきた看守を追い払うと、ゼップは優しい兄貴さながらの口調で切り出した。
「上官の命令は、ヒトラー総統の命令と思え。お前はそう教わらなかったのか?」
「わかってる、わかってるよゼップ。でも、どうしても出来なかった」
どうしようもない甘ちゃんだ。ゼップはそう言いたげに、苦笑いしながら首を振る。
「俺達は戦争をしてるんだぞ、ペーター。甘い顔を見せたら、レジスタンスどものテロは抑えられんよ」
「でも、だからって……」
「でももへったくれもない。上官から命令を受けたら、喜んで熱狂的に実行する。それが親衛隊のルールだろ。自分に下された命令が正しいとか間違ってるとか、そんな事はいちいち考えるな。命令の妥当性を考えるのは、上官の仕事だ。そして責任も、命令を下した者がすべて負うんだ」
ゼップはホルスターからルガーを引き抜き、私の胸に銃口を向けた。
「今、俺がお前を撃ったとする。その場合、お前を殺したのは引き金を引いた指か、それとも拳銃の弾か?」
ゼップの顔から笑みが消え、目が針のように尖った。本当に撃たれるような気がして、私は身を固くして返事もできないでいた。
「どっちも違うだろ? 俺の頭が判断して、指に引き金を引かせる。だから弾が飛んで行くんだ。人を殺すのは直接には弾だが、その責任を負うのは拳銃の引き金を引けと命令を出した頭だ」
銃口が下がってルガーはホルスターに戻り、ゼップの口元にもいつもの笑みが戻った。
「いいか、クノッヘン支局長が頭で、お前はただ指でしかねえんだよ。支局長が撃てと命じたら、お前は引き金を引いて撃つしかないんだ。例え相手が何者であってもな。引き金を引く指でしかねえお前が、頭に逆らったり出来ねえんだよ」
ゼップは葉巻の端を噛み千切って唾と一緒に床に吐いた。狭い独房に、間もなく濃厚な甘い匂いの煙が充満する。
「頭を冷やせ。考えてもみろ、お前が下らん正義感から命令を拒否して、それでどうなった? お前と一緒だった死んだフランス人どもだが、あれはお前が銃殺する筈だった連中だ。つまり銃殺隊の指揮官が、お前からヴァイゼルに変わった。ただそれだけの事さ」
あの時、ヴァイゼルは明らかに不機嫌だった。不安で恐ろしくて藁にもすがりたい心境だった私は、ヴァイゼルの冷淡な態度を恨みさえした。
「なあ、ヴァイゼルが好きで銃殺隊を指揮したと思うか? 奴だって、お前と同じで嫌で仕方がなかったんだよ。ただお前は逃げて、奴は命令に従った。二人の違いは、ただそれだけなのさ。お前だけが良心の持ち主で、ヴァイゼルは平気で人を殺せる冷血漢だなどと思い上がるなよ」
言いながら、ゼップは頭を振って苦笑した。
「お前はドン・キホーテか? お前一人がどう頑張ったところで、世の中は何も変わらないのさ」
返す言葉がなかった。私がどう足掻こうと、現実は何も変わらなかった。人質は予定通りに処刑され、ただ私が檻の中に放り込まれただけの事だった。
私を叱り諭したゼップの制服の階級章は少佐のものになっており、左袖にはSS長官ヒムラーの幕僚であることを示すRF-SSのカフタイトルが飾られていた。
「また偉くなったんだな」
「まあな、でもまだまだだ」
前からゼップは口癖のように言っていた。年は俺と幾つも違わないのに、クノッヘンはSS大佐でシェレンベルクはSS准将だ、と。
三十代のうちにSSの将軍になる。それがゼップの望みだった。そしてその時、ゼップはまだ二十七歳だった。
「迷惑をかけて悪かった。君の経歴にも傷をつけてしまったな」
「なあに、どうって事はないさ。こう見えても俺は打たれ強いんでな。お前は、お前のケツの方を心配してろ。抗命罪は重罪だ、銃殺されても文句は言えねえんだぞ?」
言われて、私は身震いした。
真っすぐ私に向けられた銃口、一斉射撃の轟音、そして血を流して倒れている死体。あの瞬間の光景が、生々しく脳裏に蘇ってくる。
殺すなら殺せ、さっさと銃殺すればいい。いっそ、早く殺してくれればいいのに。独房に閉じ込められて放っておかれた時、最初はそう思いもした。だがもう駄目だった。自分の額の真ん中に向けられた銃口から弾が飛んで来る、その瞬間の恐怖を私は身をもって知ってしまったのだ。
銃殺隊の前に立たされるのは、もう絶対に嫌だ!
身震いする私の肩を、笑いながらゼップが軽く叩いた。
「安心しろ。俺がいる限り、お前を殺させたりしねえよ。軍刑務所にも行かせねえし、ロシアの最前線にも送らせねえ。このままここで仕事を続けるのは無理だが、必ずお前の身の立つようにしてやる。今の俺にはそれくらいの力はあるんだ、任せておけ」