2020年3月 店からマスクがなくなった

文字数 1,835文字

3月になるとマスクが店から消えた。
数枚入りの小袋も、お徳用箱入りも、売り場の棚からすっかり姿を消してしまった。それに伴ってネット上には不織布マスクを洗って再利用する方法だの、キッチンペーパーを利用した手作りマスクの作り方などがアップされ始めた。自宅には幸いにして家人が職場から支給された不織布マスクが一箱あったため、とりあえず当面の間はこれで凌げそうだったが、ふとどこかで遭遇した景色だなと思った。そうか、あれは東日本大震災の時のことだ。
その当時メディア絡みの職場にいた私は、震災の翌週から資材調達に追われていた。職場付近の薬局薬店に片っ端から出向き、不織布マスクを何箱売ってくれるかと掛け合って、とにかく大量のマスクを買い集めていたのである。理由は福島へ行く同僚たちのために、最低限の放射能対策としてマスクが必要だったからだ。

あの頃放射能の影響がどれほど出ているのかわからない福島へ行くのは、自衛隊や政府関係者のほかは、報道メディアくらいだったと思う。当時勤務していた会社はオンデマンドプリンターを搭載した、通称「号外車」と呼ばれる大型車両を所有していた。イベント開催時、主にスポーツの試合等にスタジアムに乗り付けて、試合結果を印刷して配布するというのが主な事業である。今ならSNSが活用されるのだが、スマートフォンが今ほど普及していなかった当時、速報としての価値は現在よりも高く、記事の信頼度も高いことから、緊急時には新聞社から出動要請が来ることがあった。すなわち、災害発生時に被災地に乗り付けて周辺住民向けに、被災者支援のお知らせを印刷して配布するというミッションである。
炊き出しの日時や援助物資の受け渡し場所、医療機関の診療はどこで行われているか、どこに行けば風呂に入れるか。そうした情報はともすればデマや誤認が紛れる危険も伴う。伝播が遅く限定的でも紙メディアの信頼度が、当時はまだ重要だったのだ。おまけに紙なら受信のためのデバイスのコンディション、たとえばバッテリー残量の心配をせず、誰でも簡単に受け取れるという強みもある。かつて新潟で起きた地震の際にも出動した実績のある号外車に、今回もお呼びがかかるのは必定と思われた。だが福島の場合はかつてない特殊な条件が付加されている。福島第一原発の問題についてだ。

社長は厳しい判断を迫られただろうと、今頃になって思いが至る。何しろ情報が少なく、東京電力はパニックに陥っている。社員を伴って被災地に向かうにも、現地での安全性がどの程度保証されているのかわからないのだ。最低限防ぎたいのは放射能に汚染された粉塵を吸い体内に取り込んでしまう「内部被曝」で、物資を現地調達することは不可能な土地に出向く以上、マスク持参が必須条件になる。すでに品薄になりはじめていた不織布マスクを社員数名で手分けして買い集め、号外事業部を送り出すこちらも、全員が無事帰還してくれることを祈ることしかできなかった。幸いにして数十日のミッションの後、誰一人欠けることもなく戻ってきたときには心底ほっとしたことを思い出した。

今回のマスク不足にそこまでの切実さはない。だが品薄については東日本大震災の時よりひどかった。あのときは局地的な現象だったが、今回は日本全国、いや世界中でマスクの需要が高まっている。おまけにあの頃と違うのは、インターネットによる転売行為の出現だ。せどり行為が横行しており、マスクを転売すれば儲けが出るようになってしまっている。入荷の時間にあわせて行列して大量買いされてしまえば、品薄になるのは当たり前だ。3月半ばには消費者庁が転売行為に規制をかけるまでになり、そうなるといよいよ異業種からマスクの生産を開始する企業が出始め、ネットでの抽選販売は大いに盛り上がったようだ。マスクの相場は一箱5千円くらいにまで高騰した。この辺りの狂乱ぶりは皆様も記憶に新しいことだろう。

この騒ぎを案じた実家の母が「ずっと前にもらって、使わずにとってあったのがあるから」と言って不織布マスクを一箱宅急便で送ってくれた。製造年月日は2017年になっており、どことなく実家の戸棚で一緒に保管されていたらしい消毒薬の匂いが染みていたが、使用するには何の不都合もない。この一箱をありがたく頂戴したことで、私はどうにかこの騒ぎを凌ぐことができた。

……それからもうひとつ、同じように姿を見かけなくなったものがある。トイレットペーパーが棚から姿を消しはじめたのだ。
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