2020年4月 収入も、それから支出も減った

文字数 1,998文字

2020年4月の日記は、自分の日記にコロナについての記述はほとんどない。書いてあるのは身の回りのことばかりで、ただ一言「どうするどうなるコロナウイルス」とだけは書かれているが、あとはひたすら仕事についてと、近所に買い物に出歩いて、どこで何を買ったとか、見つけたけど高いから買うのやめたとか、行った場所と消費行動のことしか記述がないのである。それにしても私が通勤をやめて自宅で仕事を請け負うようになってから、世間様にも感染対策として「リモートワーク」というものが普及してきたのは皮肉だった。傍目にはフリーランサーもリモートワーカーも大差なく見えているのだろう。
しかし念願の「晴れた日に洗濯」という、ただそれだけの理想が実現したことが、何より嬉しくてコロナの憂鬱を感じている場合ではなかった。若い頃のように帰宅してから炊事洗濯掃除を圧縮して済ませる、そういう余力がない。だから土日がハウスキーピングの日になる。その土日が曇天だったり雨だったりするともう憂鬱で、すっきりと晴れた平日には職場から恨めしく天を仰ぐ。そうやって1日を薄暗いビルの谷間に溶かすことから解放されたのだ。憂鬱なんぞ感じる暇があるわけない。

収入は減ったが支出も減った。昼飯に外食することもないし、仕事しながら溜まりまくったストレスにまぶして小腹に収めるためのお菓子や、それを流し込むためのコーヒー等の飲料もいらない。何よりそもそも不要だと思っていた化粧もしなくて済むようになった。
不毛だと思いながら毎朝顔にファンデーションを塗りたくり、夜帰宅してクレンジングする。社会人なら当たりだというこの行為が、私にはストレスでしかなかった。今でも化粧は冠婚葬祭や、気の置けない友人とたまに会う際にちょっとシミやらシワを隠す、その程度で十分だと思っている。接客業ならいざ知らず、私は出勤すれば営業担当さんと連絡事項をやりあうくらいで、あとは誰と接するでもなくひたすらモニターと睨み合う職業だ。自分の顔の造作と仕事の出来には一切関連がないはずなのに、社会通念上「女性は家を出る時には顔に何か塗らないといけない」こと自体が苦痛でしかたなかった。

自分の(時には他者の)顔をメイクアップすること自体が好きな人が多数いることは承知しているし、そうすることで自信がついて、明るくなれたという人がいることも理解できる。人類学的にも女性性というものを、そこで認識する場合が多いのもわかる。でも「化粧が好きでない人間もいる」ということもわかってほしいものだが、世間はそういう人間を「常識のない可哀想な人」だと判断するものらしい。人によっては「化粧もしないなんて無礼だ」と怒り出す。面倒なのでドラッグストアでファンデーションを買っては顔に塗って出勤する、そんなことを20年以上、毎朝続けていた。
帰宅すればファンデーションをクレンジングで落としたのちに洗顔して、一緒に流れてしまった皮膚の水分を化粧水で補充すれば、それだけでは足りないとばかりに、メーカーは乳液や美容液を勧めてくる。そして朝起きればまた洗顔、洗顔後は化粧水で肌を整え、それからファンデーションを塗って出勤。帰宅すれば(行頭に戻る)……一度嵌ったら出られない、無限ループの出現だ。ファンデーション、クレンジング、洗顔料、化粧水、乳液。これらは社会が決めた「女性性のコスト」とも言えるだろう。現代日本では髭の手入れをしない男性が事実上社会生活を営むのが難しいのと同じことかもしれない。私は化粧という労力と消費を「社会人として認められるための通行税」だと考えることにした。
そうして毎日繰り返すそれで、私は三十年近くの間、日本の内需を微力ながら拡大してきた。でももういいだろう。これ以上不本意な消費行動はしたくない。かくして毎朝のファンデーションと手を切った私は、財布の負担も減ったし、いい歳をして吹き出物にちょいちょい悩まされていた肌は今やすっかりツルツルになり、過去にないほど絶好調の美肌(※当社比)を取り戻した。

個人的には友人も多くなく、それも会うのは数年に一度、一緒に食事をするくらいの付き合いだから、お互いにメールで「なんだか大変なことになったね」とぼやきあうくらいで十分だった。お稽古事は数年前にみなやめて以来、定期的に会う親類縁者以外の誰か、というものが私の生活には存在しなくなった。通勤すらなくなった今、日々を家人と過ごすばかりである。わざわざ避けなくても私の人生に「三密」に該当する状況は発生しようもないものだ。
誰かと行動を供にすることを制限されるこの状況は、人によっては気が狂うほど退屈で苦痛に満ちたものであろう。しかし私個人はそれほど苦痛に感じないので、妙なストレスにさらされることなく快適ですらあり、しつこいようだがあくまでも(※当社比)ながら、ますます美肌に磨きがかかるのであった。
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