2020年3月 それでも辞めることにした

文字数 1,910文字

2月12日、私は社長に3月一杯での退職を願い出た。それと同時にいつも私に仕事を出してくれる制作会社の担当さんにもその旨を連絡したのが2月のことだ。担当さん(以下タンさんと呼ぶ)とは古い付き合いで、以前にいた会社の同僚でもある。担当している定期の仕事は今後も自宅で対応する旨を伝えると納得してくれていた。……のだが、突然そのタンさんが3月に入ってプライベートで電話をかけてきたのである。
これはわりと珍しいことで、小さく驚きながら電話に出ると、タンさんは仕事の時とは微妙に違う重い口調で『今会社を辞めるのは危険だ。御社の社長には自分からもお願いしてみるから、退職を撤回した方がいい』と言うのだった。

聞けば職場の後輩たちが、短い社会人経験で初の事態に直面して不安に駆られ、タンさんに『僕らこれからどうしたらいいんでしょう』と尋ねてきたらしい。
いつもなら新年度に向けた企画のために繁忙期に入るはずのタンさんの会社では、あらゆるイベントの類が開催中止や延期に追い込まれていた。こうした企画に絡んで発生する単発仕事を私に出してくれていたタンさんからの発注は、3月に入って確実に目減りしている。つまり、彼らの仕事も平常ではありえないほどに減っているということだ。不安になるのも無理はない。
面倒見のいいタンさんの元には数名の新人たちがおり、実際私も何度か顔を合わせたことがある彼らの顔を思い浮かべた。みんなまだ大学生に紛れても何の違和感もない年頃である。メディアからながれてくる「緊急事態」「まん防」などのキーワード。若い彼らは出会ったことのない状況、すなわち「世界規模での疫病流行」の入り口に立っていることに気づいて慄いているのだ。

彼らが怯えるのも当然だ。私も、おそらく私の親の世代も見たことがない疫病が蔓延する世界。歴史的にはペストやコレラ、スペイン風邪が世界で猛威を振るったことは知識として知ってはいても、それが社会にもたらすものを予測することは難しい。頼れる先輩にこの状況の乗り越え方を聞きたくなるのが道理というものだ。
私は自分がタンさんでなかったことに安堵した。自分自身どうしたもんかなと思っている事態について、後輩にアドバイスを求められるというピンチに遭遇しなくて済んでいる。かたやタンさんはここでわずかでも彼らに非常事態を乗り切る知恵と心構えを授けなければならない立場だ。
なんという重責。私がタンさんだったら何と答えただろう。「こんな時代に遭遇するなんて滅多にないことだから、よ〜くいろいろ見ておけよ」そんな程度のことしか言えないだろう。タンさんは厳かな声で私にその答えを教えてくれた。

「だからね、今はとにかく少しでも貯蓄して、大きな流動を控えるように言ったんです」

何が起きるかわからない今、世情が落ち着くまでの間は、大きく動かないのが身の為だ。リーマンショック時並みの不況が控えているかもしれない今、持っているものを手放すな。タンさんは後輩たちにそうアドバイスした後、ふと私のことを思い出して電話をくれたという。
フリーランスと言えば聞こえはいいが、フリーの「ふ」は不安定の「ふ」だというのは誰でも知っている。タンさんには私のことが「よりによってこんな大時化に本船を離れ、漕ぎ出そうとしているバッテラ船」にしか見えないらしい。

私はタンさんに丁重に礼を言って、退職を撤回するつもりはないと伝えた。自宅はもうすでに部屋の一角を仕事場に改造すべく片付けを始めていたし、家人が使っていないデスクとラック、照明スタンドを譲り受け、あとは機材を置くばかりになっている。
電話をもらった数日後、今度は帰り際に社長から「本当に今退職で大丈夫? 別に撤回してもいいよ」と声掛けがあった。きっとタンさんが連絡してくれたのだろう。こちらにも丁重に礼を言い、翻意はないと明言した。

3月28日の日記には「実質の首都封鎖」と書いてある。東京から出るな、東京に来るな、という都知事のメッセージを受けての記載だろう。すると職場からの帰宅前に寄ったイトー◯ーカドーでは、首都圏周辺の農産地からの仕入れが危ぶまれるという判断からか、生鮮食品、特に野菜が消えていた。肉類、カップ麺、サ◯ウのご飯も消えていた。29日には人気者のバカ殿様がふっつりとこの世から消えた。この国民的コメディアンの死の直後から街を歩く人影がさらに減ったところを見ると、いよいよみんなが非常事態だと肌で感じ始めたきっかけになったのだろう。感染対策を訴える為政者の、あの手この手の警句よりも、よほど強いインパクトを残して巨星がひとつ堕ちた。そして私も7年勤めた渋谷の街から消えることになった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み