2021年7月 緊急事態宣言と五輪が一緒にやってきた

文字数 2,289文字

「俺はそういうの必要ないと思ってるから」
兄がそう言っていきなり全否定したのは新型コロナウイルスのワクチンについてである。
同じ人の腹から生まれていても体質というものは全く別モノらしく、子供の頃から兄はその手の病気にとんと弱い。母はいつも「タケル(兄)は熱を出せばぐったりとして動かなくなるからすぐにわかるのに、アタルは平気で走り回ってるからかえって始末に負えない」とこぼしていたのを思い出す。実際のところ私は熱を出すことはあっても食欲は変わらずバクバク食べるし、フラつきながらも平気で動き回る。むしろいつもよりはしゃいでハイになっている時が怪しいと気づいた母は、私が遊んでいるのを捕まえて体温計を差し出すのが恒例になっていた。ところが兄は風邪でもインフルエンザでも、少しでも熱が出ると途端に動きは鈍くなり食欲は失せ、すりおろしたリンゴしか喉を通らなくなるタイプである。

兄は数年前にインフルエンザのワクチンを接種して体調を崩し、数日間ほぼ寝たきりになったのを心底後悔しているらしく、ワクチンと名のつくものに対して嫌疑の目を向けている。それはもちろんこの度一般接種が始まった新型コロナウイルスについても同様だった。
インフルエンザに罹った時よりも、ワクチンの「副反応」の方が酷かったという記憶はそれほど古くない出来事だったようで、接種券は届いた瞬間郵便受けから即ゴミ箱行きになったらしい。
「急拵えで作ってろくな治験もしてないのに認可されてんだぜ? 同僚にワクチン打たないって怖くねえのかって言われたけど、俺に言わせりゃあんなもん身体に入れる方がよっぽど怖いよ」というのが兄の言い分である。要するに「自分には合わないと判断した」ということだった。

接種券を封入した封筒にも「接種は任意です」とわざわざ書かれている。そうしないと役所から送られてくる封書を見て反射的に「全員打たなきゃダメなのか」と思ってしまう人が多いからなのだろう。当然兄の意思は尊重されるべきなのだが、どうやら両親にもあんなもの信用するなと吹き込んでいるらしく、母は「そうは言ってもねえ」と困惑している。かかりつけの町医者で接種の予約をやっとこさ済ませたばかりで、兄の持論を理由に今更予約を取り消すのもどうかと思ったらしい。結局両親とも7月1日に一回目、22日に二度目の接種を受けてきた。幸いにしてたいした副反応もなく、念の為にと予定を空けておいた私の出番はなくて済んだが、世間では感染者数がまたまた増加している。
7月9日の日記には「やっぱり12日から緊急事態なんだってさ」と書かれていて、それは四度目の緊急事態宣言のことを指している。8月22日までの間を対象期間とする予定だというから、例の行事をすっぽりと内包する形になる。例の行事とはつまり7月23日に開幕する東京オリンピック2020大会のことだ。

「集まるな騒ぐな家にいろ」という緊急事態宣言をしたその同じ口が「お祭り騒ぎをはじめるよ」って言うんだから、まったくもって手に負えないダブルスタンダードぶりには呆れるばかりだ。もはやこの国に何かを期待する方がバカだと思うしかない。
感染者数は毎日のニュースで報道され、天気予報のような関東地方の略地図には、お日様マークや傘マークのかわりに感染者数と重症患者数が各県の図に表示されている。毎日のように新規感染者数が先週を、そして前日を上回り、18日の日記には「感染者数が日曜なのに千人超えた」と書かれていた。通常週末には医療機関が休診するので新規感染者数は日曜と月曜には少なく報告されるのだが、その少ないはずの日だというのに1日千人の新規患者が確認されていることになる。

そんな中で開催されたオリンピックは一部海外メディアから「葬式のような開会式」だと酷評されたらしいが、それでもテレビで見る限り、精一杯のクリエイティビティを発揮していたと思う。個人的には各競技ごとに設定されたピクトグラムを、パントマイムというアナログな手法で紹介してみせた会場でのパフォーマンスおよび映像は秀逸だと思えたし、ロトのテーマで迎えた各国選手団の入場行進はそれなりに楽しめた。コミックやゲームといったサブカルチャーを随所に取り込む手法は、確かに現代日本を象徴している。「みんながコミック世代、みんながゲーマーの時代」だという認識に基づいて構成されたプランなのだろう。だがしかし、すでにこの毒に侵された身である私には、この演出がそれらと縁の薄い人たちの眼にどう映ったのか、もはや推し測ることしかできない。

それにしても、である。
競技自体も古典的な種目は存続の危機にさらされ、代わりに今大会はスケートボードやサーフィンといった一般にも人気のある競技が採用された。このまま行けばそう遠くない将来、マリオカートもモンハンもe-Sportsと称して正式種目に採用されるだろう。路上の遊戯という、言わば「在野」に始まって発展し、メインカルチャーの持つ権威から一線を画していたはずのストリートカルチャーを正式種目として呑み込むことで、老獪なもののけが回春を図ろうとしている。サブカルチャーを喰らって命脈を繋ぐメインカルチャー。スポーツ界の権威を象徴するこの怪物は、とうとう「オタク」におもねって擦り寄らなければもはや二本足では立てないほどに老いた。この入場行進はその証であり、もののけの壮麗な断末魔にも聞こえた。

開会式から約6日後の7月29日の日記は「コロナ感染者数3千人超え」その二日後には「コロナ4千人感染だってさ」という、我ながら投げやりな記録が残されている。
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