2021年5月 まんまと本星に逃げられた

文字数 2,429文字

術後の経過は良好で、首から生えた管も一本また一本と外されていく。しかし手術も終えたというのに、その原因となるものが未だ特定されずにいるということは、本星を挙げられずにいる刑事の心持ちになってくるのだろう。担当医は首を傾げながら、ちょっとバリウム飲んで検査しましょうか、と言い始めた。いよいよ犯人の特定にかかりたい、といったところか。
担当医が疑っていたのは「下咽頭梨状陥凹瘻(かいんとうりじょうかんおうろう)」という、あまり一般的とはいえない病気である。

下咽頭梨状陥凹瘻、という病気をがっさり説明すると、喉に梨の形をした凹みのある人がいて、そこに雑菌が溜まって炎症をおこしたりする、ということらしい。これは先天性のもので、胎児の生育過程で通常は塞がってしまうはずの管が、ごく稀に凹みとして咽頭に残ってしまうことがある。その凹みこそが炎症のもとになる梨状陥凹だ。梨状というくらいだから洋梨みたいな形状なのだろう。そのポケット状のくぼみに雑菌が溜まって繁殖しやすく、繰り返し炎症を起こすらしい。どちらかと言うと小児科に属する病気で、喉が腫れるのを薬で治すことを繰り返しているうちに見つかるらしいが、私の場合は経過も違う。歳もトシだし、ある日突然現れた症状だ。しかし症状自体はこの下咽頭梨状陥凹瘻と言う病気によく似ているらしい。担当医はどこかにこの梨状陥凹か、あるいは同等の凹みがあるのではないかと考えたようだ。担当医から捜査令状よろしく検査予約表と、承諾書を渡される。CT検査もぷすぷすも、検査のたびにリスクを説明されて承諾の署名をしてきたが、そろそろこれで終わりにしたいところだ。そうなることを願いながら承諾書にサインをして返したのだった。そうして夕方から入った検査のために病棟を出て、本館へと向かった。

X線を使うためだろうか、検査機材が置かれた部屋はセパレートされ、隣の小部屋とは窓ガラスのついた壁で仕切られている。窓越しに検査機械を操作するオペレーションルームが見えるのだが、ふと見るとその中がすごいことになっていた。狭いところに6人ぐらいの耳鼻科の医師が詰め込まれているのである。小池百合子が見たら「密です!」と悲鳴をあげるだろうレベル。
担当医をはじめ、診察室で見たことのある顔から、執刀してくれた医師、ぷすぷす担当の医師までが揃っているのだから、一人立たされているこちらとしては腰が引けてくる。化粧くらいしてくるべきだったか、という妙な心理になったところで、みんながこちらよりモニターを凝視していることに気づいて安心した。この病気の正体を見極めてやろう、という医師たちの職業的好奇心であろう。ふむ、悪くない。こちらとしても手術という提案に応じた理由のひとつは、若い医師が経験値を積み上げることに寄与できるなら患者冥利に尽きる、と考えたからでもある。いや、ウソっぽく聞こえるけど本当ですって。今は名医と呼ばれる人たちも、皆最初はお尻に殻がくっついたヒヨコちゃんだったのだ。明日の名医を育てるには患者の存在は不可欠だろう。判断に悩むような「珍しい見せ物」に群がる好奇心、大いに結構なことぢゃないか。

だがしかし、捜索は難航した。
スピーカーから聞こえてくる指示に従って体の角度を変えながら、ヨーグルト味の造影剤を一口含んでは飲み下すことを何度か繰り返す。窓の向こうの医師たちは皆、揃ってモニターを凝視したまま首を傾げ、う〜ん、という表情だ。ここだと目星をつけたところにガサ入れするも、証拠になりそうなものは何も出てこないようで、捜索は打ち切りになりそうな気配である。
その時「ついに」と言うべきか。白衣を着た年配の医師がオペレーションルームに現れた。入院して以来、右を向いても左を見ても30代くらいの若い医師しかいない病棟で、ついぞお見かけしたことのない白髪もふさふさとしたベテランの風格。ついに出たラスボス、あ、いや、伝説の敏腕刑事という方が相応しいアレである。
どうにも判断つきかねて、担当医が呼んできたと思われる「先生の先生」が登場したことで、現場は一気に緊張感と期待感が高まった。これで何か新しい所見が見出せるのではないか。私も精一杯期待に応えようと、あまり美味しくない造影剤を繰り返し飲んでみせたが、窓の向こうでベテラン刑事が、他の先生と一緒になって『う〜ん』という表情でいるのが見えてしまった。
どうやら担当医が本星と睨んでいた「梨の形をした凹み」は、どう体の向きを変えて何度ヨーグルト味の液体を飲み下しても、「先生の先生」をもってしても存在が確認できなかったようだった。

検査を終えて病室に戻ると、もうとっくに日が暮れていて、窓からは遠くに爪楊枝くらいのサイズ感ながら、スカイツリーの輝きが見える。数日前、隣のベッドが空いたから良かったら移動しますか、と係員さんが声をかけてくれて、窓際に移動できたのだ。地上18階建の入院病棟は付近に高い建物がないので、私が入った7階からでも見晴らしが良く、西向きの窓からは富士山がよく見えた。
長逗留するうちに同室の患者さんは次々と退院してしまい、また別の人が入ってくる。私の後から入院してきた人も今朝退院された様子で、すっかり追い抜かれた私には入院して3度目の月曜日が巡ってきている。居残り佐平次を決め込むつもりはないのだが、そろそろ請求書の額面が気になりはじめたこともあって、夕方巡回に来てくれた担当医に、私は「早く退院させてくれ」と願い出た。本星を取り逃した無念は重々承知だが、結果的に喉の腫れは治り、水も食事も問題なく摂れるようになったのだから、上々の結果だろう。担当医は「もう2週間経っちゃったもんねぇ」と言ってその翌朝、外来と血液検査の予約を入れることを条件に退院許可を出してくれた。毎朝毎晩投与が続いた抗生剤の影響だろうか。ふわふわと撓んだ板の上を歩くような眩暈を感じながら、ようやっと都合17日間留守にした家に戻って来れた。ふー、やれやれ。
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