2022年7月 日本語の通じぬ人になっていた

文字数 2,755文字

さて、翌朝である。よく晴れた日曜の朝、どんな按配かと私が家人の寝ている部屋へと向かうと、どうも様子がおかしい。もうとっくに起きていたという雰囲気なのだが布団の上にうずくまり、声をかけても返事がない。いや、正確には返事をしているのだが、何を言っているのかわからないのだ。ぼそぼそと喋る小さな声を聞き取ろうとするのだが、何を言おうとしているのか、まるでわからなくなっていた。

「貝塚に変わって営業も持ってる」
「山嵐が三笠も消すって」
「運動が来ないからもっと静かに」
「駅が三週間になってる」

もはや『てにをは』どころの騒ぎではない。動詞も名詞も形容詞も、文法自体が日本語として成立していない。ぽつぽつとこぼれる声はまるっきり意味不明になり、目もうつろで問いかけるこちらと視線をあわせようとしない。これは明らかにまずい状態だ。

やおらふらふらと立ち上がった家人はリビングにあるチェストの引き出しをあさり、何かを探す素振りをしている。そこはいつも保険証と診察券とおくすり手帳を保管しているところだ。どうやら病院に行こうとしているらしい。しかしこんな状態では当然一人で病院まで移動できるわけがない。とりあえずソファに座らせて、救急車を呼ぶことにした。

2022年7月下旬、おりしも感染第7波はかつてないサイズ感をもって絶賛到来中である。当然のように医療は逼迫し、119番も繋がりにくいと言われてはいたが、日曜日の朝のうちだったからか、案外すんなりと電話には出てくれた。事情を説明するとすぐに向かいますと言ってもらえて、間もなく玄関に3名の救急隊員が来てくれた。昨夜から発熱していて、今朝から様子がおかしい。辻褄の合わないことを喋り、意識はあるが朦朧としている。抗原検査キットで検査はしたが、新型コロナウイルスの陽性反応は出なかったと伝えた。こちらとしては救急隊員にある程度診断をつけてもらいたいのだが、いざとなると隊員たちは部屋に上がるのをためらう様子を見せた。玄関先で3人が顔を見合わせて、「行くのか」「お前いけよ」「えっ、俺?」と言う感じでもぞもぞしている。感染した可能性のある人間の居住空間に足を踏み入れたくない、という気配がジワリ、というよりアリアリだ。さすがに声には出さないが、サイレント動画にアフレコするならこれ以外のセリフがつきそうもない。

痺れを切らした私は2階のリビングまで駆け上がり、座っていた家人に玄関まで降りられそうかと尋ねると、ふらふらと立ち上がったので、そのままゆっくりと玄関まで降りてもらった。上がり框に座った家人に救急隊員はバイタルチェックを行いながら、お名前と生年月日を教えてくださいと尋ねる。だが何を尋ねても虚な目をしたまま黙り込んでしまって一言も出ないのである。
どうして欲しいですかと言われて病院に連れていって欲しいと言うと、近隣の病院には救急搬送受け入れの空きがありませんと言われた。ニュースなどでよく聞く「病院を探して搬送中に亡くなる」というあの状態はつまりこういうことなのかと理解した。
「ご自身でここまで歩いて来られてましたからね」そう言って「搬送するには当たらない」という意思を示された時にはさすがにイラっとした。隊員は3人いても、誰一人動いてくれないから病人の方を無理して動かすことになったんじゃないのか? という思いがチラリと脳を掠めはしたが「今すぐ対処しなければ命にかかわるというレベルではない」という意味だと思うことにした。そのうち隊員の一人が家からほど近い地域の中核医療病院の名前を挙げ、そこなら休日診療を受け付けていると教えてくれた。そこまで自力で行け、ということらしい。

救急隊員にはお引き取り願い、私は右に左にヨロヨロする家人を支えながら病院を目指すことにした。通常なら徒歩10分ほどでたどり着ける場所だが、朦朧としてまっすぐ歩けずにいる家人を炎天下そこまで歩かせるわけにもいかない。とりあえず広い道に出ると流していたタクシーを拾えたので、どうにか病院には辿り着けた。
休日診療の受付にいた係員氏が、家人の状態を見るなり車椅子を持ってきてくれたので助かった。とりあえず座らせて診察を待つのだが、夢でも見ているのだろうか。突然立ち上がってふらふらとどこかへ行きそうになってしまう。なだめすかして座らせて待つのだが、日曜日とは言えそこそこ患者はいるようで、なかなか順番が回ってこない。そのうちに家人は「もう帰る」とゴネはじめるので見かねた看護師さんが診療室のベッドを提供してくれた。ここで横になって待っていてくださいねと言われて、お言葉に甘えて寝かせてもらうのだが、落ち着かないのかしばらくすると起きて「もう帰る」と言って身支度を始める。行動はまるで5歳児、あるいは認知症の徘徊老人というべきか。理性のタガというものが外れ、まるっきり本能の赴くままだ。

もうちょっとしたら先生が診てくれるからねと宥めすかすのだが、視線は合わないしふらふらと動き回るし、問いかけに返答しない様子を見るに、言葉が通じているかどうかも怪しいもんで、こうなるともはや動物に近い印象だ。ようやく来てくれた医師は家人の様子を見るなり「いつもこんなですか」と言うので、認知症でも患っていると思われたのだろう。一昨日までは普通に会社に通っていたし、昨夜就寝するまではいつも通り会話も成立したと訴えると、医師は「子供はたまにあるんだけど、成人では珍しい」と言い、それからふとワクチン接種について尋ねられたので、していない旨を伝えた。すると「1回も打ってないの?」と驚かれ、接種しておいた方がいいとおススメしてきた。はぁそうですねと受け流しつつも、こちらとしては今必要なのはそれじゃないよとしか思えない。なんとかしてこの状況を脱するに有効な医療措置というものを施してほしい。そのためにここまで来たのだ。意思の疎通もままならないこの状態が続けば、通勤はもとより日常生活そのものがたちゆかなくなる。ことによっては要介護認定を受けて介護保険を使用する立場になるかもしれない。

医師はとりあえず点滴で水分補給と解熱剤を投与してくれた。しかしその点滴の間中も、家人はウロウロと動き回ってしまうのである。まるで檻の中を右へ左へと歩き回る動物園の獣のようだ。ベッドの周辺を歩き回って、点滴針が抜けそうになってしまうので、私が点滴を吊るす台を押して家人の後を追いかける、ということをどうにか小一時間続けた。本当なら全部終わるまで1時間以上はかかるのだが、「もう帰る」と言いながら勝手に動き回ってしまうので、続けることができない。とりあえず解熱剤の小さい点滴パックが空になった時点で、看護師さんにお願いして処置を終えてもらうことにした。
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