2021年3月 糸が一筋垂れてきた

文字数 1,929文字

年が改まり、コロナと共に過ごす二度目の冬がやってきた。とはいえ去年の今頃は、客船で発生したクラスターの対応でてんやわんやしていたことしか記憶がない。感染の拡大がどこまで広がるのか、打つべき手はどれだけあるのか。何もかもが未知数でいたあの頃よりは経験値が増し、少しずつでもノリが掴めてきた三度目の感染拡大というのが本当のところかもしれない。感染者数は増えては減るの繰り返しで、2021年の年末年始から新年度にかけてやってきた三度目の大波を受けて、二度目の緊急事態宣言が松の取れた1月8日から出され、それが3月21日まで続くことになった。

昨年秋に職を辞した家人は、その後ゆるゆると就職活動をしながら、3月初旬にはドライバー派遣業務の契約社員として内定をもらってきた。今まで路線乗務で培った運転技術を活かすことができるし、勤務時間も9時〜5時ベースのスタンダードタイプ。何より今度の乗務は4人乗りセダンで、乗客も全員着席だから誰も転ぶ不安がない。勤務地の希望もほぼ望み通りになり、ストレスの少ない職を手にしたことは喜ばしい限りだった。
私の方は相変わらずで、細る仕事の依頼をこなす合間に家事をして過ごし、慣れない確定申告に悶絶するうちに朗報が届いた。2月14日バレンタインデー、いよいよ日本でも新型コロナウイルスのワクチンが承認されたという。はやくもその三日後から医療関係者を優先に接種が始まったのだ。

このウイルスの不思議な特徴として『無症状感染者がいる』ということは特筆すべき点だと思う。感染しながら何の症状も出ず、無意識のうちにウイルスを再生産して運び、感染を拡大させるというスパイっぽさは、驚くほど易々と人間が張り巡らせた管理網を掻い潜る。どうやら若年齢層にはそうした傾向があり、高齢者ほど感染時に劇症化しやすいという特性があるらしい。これがもし人工的に造り出されたウイルスなのだとしたら、これほどわかりやすい利用目的はないだろう。そうした「疑心暗鬼」という名の鬼がネット上に跋扈している。
見えざるものの存在を捕捉しようと、人々が街中に点在するPCR検査会場に長蛇の列をなしている。『私は新型コロナウイルス陰性です』という証明を交付してもらわないと、施設そのものへの立ち入りを禁止するという、より積極的な感染対策をする場所も増えていると聞いた。しかしPCR検査は当初即時性に欠けており、結果が出るまでにやたらと時間がかかった。陰性反応が出たとしても、検査直後に感染しているケースもあり得るんじゃないの? とは当然誰もが考えただろうが、だからと言って何もせずにはいられないのが人間というものだ。

そんな状況からすれば、ワクチンの登場は朗報ということになるだろう。これさえ接種すればすべてが元通り、マスクも要らず、何の気兼ねもなく友人や親族たちと交流できる、これまでと同じ日常が戻ってくるのだと誰もが信じて、その効能に与ろうとするだろう。
ペストや天然痘、そしてスペイン風邪で膨大な数の犠牲者を出してきた人類とウイルスとの闘いは、21世紀になり『ワクチンと医療処置で封じ込めることができる災害』になった。SARSもMERSもこの方法で押さえ込み、とっくに克服されたと思っていた疫病というものが、ここにきてまさかの大躍進だ。そんな相手との一年に及ぶ闘いに疲れ切ったカンダタの上に、ふわりと垂らされた一筋の糸が欧米から遅れること2カ月、ついに我らの頭上にも出現したのである。

これで世界も少しは落ち着きを取り戻すだろう。
私はどこか冷めた視線でそのニュースを見ていた。自分自身に関わる事としてそのニュースを聞くことが、どういうわけかできなくなっていたのだ。会社というものに所属せず、世間とは最低限の関わりのみで生きていると、テレビで見るPCR検査会場にできる長い行列も無縁のものに思えてくる。
わたしはとにかくあの行列というものが苦手で、行列に並んで何かをするということを可能な限り避けて生きてきた。TDLには行かなければいいだけのことだし、どうしてもこの店のアレを食べなければ満足できない!というほどのラーメンフリークでもない。避けようもないのは病院の待ち時間くらいのもので、それに準ずるものだと思えばあの行列に並ぶこともできようが、幸いなことに私に「陰性証明」という名の免罪符の届出を求める人は存在しないのだった。
今まで社会の通行手形だった「陰性証明」が、これからはワクチンの「接種証明」に変わるのだろう、ということだけはなんとなく理解できた。しかし自分は『社会人として「通行手形」を持つ必要がない、戦力外の人間』だという現実を、ニュースを見てぼんやりと再認識したのだった。
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