2020年2月 いよいよ人が減ってきた

文字数 2,126文字

手帳に簡単な日記をつけることにしている。手のひらサイズの見開きに1ヶ月分のカレンダーが印刷されており、1日分の空間はタテ28mm×ヨコ22mmという、切手サイズの長方形だ。この小さな四角形に収まる日記だから、たいしたことは書かれていない。自分の備忘録だからそんなもんで十分なのだが、ささやかな単語でしょーもないことがぽつぽつと記録されているこの日記に、初めてコロナの文字が出るのは2020年の2月のことだ。

1月に屋形船に乗船した客の集団感染が起き、続いてダイヤモンド・プリンセス号船内での集団感染が起きて、メディアは忙しくコロナのことを報道していたように記憶している。だが自分自身は「退職して独立する」ということに気持ちが集中していたためか、1月の日記にはどこにもコロナの記載がない。そのわりに空欄も多く、要するにコロナがらみのことは、まだ自分事として日記に記載するほどのトピックですらなかったということだろう。そして2月12日、日記には「カミングアウトしました」と書かれている。これがおそらく私が社長に退職を願い出た日だ。社長は少々驚きながらも、今自分が担当している仕事は自宅からリモートで請け負うから、社内の誰にも迷惑はかけないと言うと了承してくれた。
そんな2月も後半になった頃に、ぽつりぽつりとコロナ絡みで感じた日々の雑記が増えてゆく。

日記によれば2月22日、友人夫妻と自宅でモノポリーをして遊び、その後居酒屋へ繰り出している。その時店内が閑散としていたことを思い出した。居酒屋の営業の制限はもう始まっていたのか覚えていないが、会食というものに対する警戒感は浸透し始めていたようだ。広い座敷席の一角を陣取って、鮮魚を肴に酒を喰らっていても、客は一向に増えてこない。この辺りには少なくなった昔ながらのメニューを揃えた個人経営の店で、スタッフのお姉さんは愛想良く高い接客能力で対応してくれる。何を頼んでも安定感のある料理がほどよく盛られた皿が出てきて価格も手頃。よく利用する人気店なのだが三連休初日と思えない客の入りに、私はようやく時勢というものを肌で感じ取った。

その翌日の23日の日記には「コロナの影響で? 町がすいてて快適」とある。
有楽町から日比谷公園を抜け、三宅坂を上がって桜田門から最高裁方面へと散歩していたのだが、普段と違って妙に歩きやすい。いつもならわさわさと走ってくる「皇居ランナー」と呼ばれる人たちが減っているのだ。避ける必要もなくてこちらとしては助かるのだが、ふと気が付くと車道までもがスカスカになっている。交通規制でもしてるのかと思っているとやおら黒塗りのセダンが数台、九段方面に向けて坂を上ってゆく。そのうちの一台が後部座席のウインドウを下げており、中に座った人がこちらに向けて手を振っているのが見えた。私の隣で自転車を押して歩いていた男性が応えるように手を振り返している。ほんの一瞬のことで、ぽかんとしたまま見送っていると黒塗りが通り過ぎたあとはまた車の流れが増えて、気づけばいつもの三宅坂に戻っていた。

自宅に帰ってから夕飯時にニュースを見ていると、今年の天皇誕生日は感染予防のため一般参賀を行わず、皇族のみが御所に集まって内々でお祝いしたとのことだった。どうやらあの黒塗りから手を振っていたのは祝賀を終えて帰宅する弟殿下ご夫妻だったらしい。今頃気づくなんて実にぼんやりした国民である。世が世であれば不敬の罪で捕まるところだが、こっちは独立を控えて頭のネジが数本緩んだアホだ。多少のことはお赦し願うとしよう。
三宅坂上から眺めるお堀の緑、その上には青空が広がり気持ちよく晴れた日の午後だったと記憶している。その長閑さは戒厳令前夜、嵐の前の静けさだったとも言えるかもしれない。2月25日の欄には「新型コロナウイルス絶賛拡大中!」その翌日26日には「いよいよ政府からイベント自粛の要請が出たぞ」と書かれている。

好きなアーティストのライブを生きる糧とする、というタイプの人が一定数いることは知っているし、自分自身が楽器その他で演奏することを糧とする人がいることもわかる。どちらでもない私は「イベント自粛要請」という言葉にも淡々とした気持ちでいたが、ライブハウスで発生したクラスターと、その顛末については恐れ慄いた。誰も好んで感染したわけでもないのに、ライブハウスに苦情の電話とメールが殺到し、犯罪者を吊し上げるようなハッシュタグが乱発されたという。

誰も見たことがない世界的な疫病の流行に、皆がそろってパニックになっているとしか思えない。目下のところ日本政府は、感染対策として「感染者および濃厚接触者を社会から隔絶する」のが有効だとしているらしい。特効薬の開発を待つしかない一般人が、訳のわからない疫病に襲われて、日常を侵食されたことの鬱憤を晴らすように、とりあえず空いている手で誰かを叩きのめしている。のちに営業再開にこぎつけた際、店主はインタビューに「コロナより恐ろしかったのは人間だ」と答えていたのが印象的な出来事であった。そしてこの時はまだ人ごとだったこのセリフは後々、そのまんま私自身の感想として採用されることになるのだった。

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