2019年12月 その存在を知らなかった

文字数 2,010文字

メディアで「コロナ」という単語を聞かない日が増えた。増えたというよりほとんど消えたと言っていいかもしれない。5類移行後一年が経過して、すっかり形を潜めた印象の新形コロナウイルスである。
ここNOVEL DAYSにもかつてはタイトルに新型コロナ関連の単語を冠した作品がトップページに並んでいたが、今はほとんど見ることがない。探しに行けばそれぞれの作者のホームに収まっているのであろうが、つまりは新型コロナウイルスのトピックは、もはや過去の出来事として扱われるものになった、ということだろう。

そんな今になって、あの頃のできごとを書き留めておこうかと思い立った。
そんなに昔の事じゃない。今から5年前、2019年の4月には、まだ我等人類の前にそのウイルスは存在していなかった。いや、もういたのかもしれないが、ほとんどの人がその何たるかを知らなかった。後にCOVID-19と呼ばれる存在が初めて確認されたのは同じ年の12月のことだ。
その頃私はまだ会社勤めをしていた。朝起きて飯を食べ、電車に乗って出勤し、夕方まで働いて帰宅する、勤め人としてごく一般的なライフスタイルである。思い起こせば20年くらい、同じスタイルで業界の中を転戦してきたのだが、ふとここら辺で独立しようと考えたのが2019年の夏くらいのことだった。

独立に至る最大の理由は実に些細なことである。近年の酷暑のためか、元々の汗っかきが数年前から異常な汗っかきになり、通勤しただけで水でも浴びたのかというくらいにべしょべしょになる、という夏季を過ごさなければならないのが苦痛になったのだ。それに加えて問題になったのは「冷え性」だ。これは昔からの課題なのだが、この職場では洒落にならない事態に発展していた。
築60年近いというビルの一室に入った私の勤務先は、それはそれはレトロな空間で、ちょっとした映画の撮影にも耐えそうなヴィンテージビルである。歴史的建造物が大好物である私は、こうした場所で働くことを無上の喜びとしている。だが実際のところ、そこで過ごすと色々と不具合が起きてくるんである。見ると住むとでは意味が違うことは、名旅館と呼ばれる古い宿に泊まって、寒ぅ〜い一夜を過ごしたり、廊下や隣の部屋から響く騒音に悩まされたりしたことのある方にはお分かりいただけるだろう(まったく、和建築の旅館に宿泊しているのに、廊下を歩く際に踵からどすどす足を下ろすような歩き方をするのはいかがなものか)。
私の場合は気温との戦いだった。夏は大汗をかいて出勤し、冬は爪先の感覚が麻痺するほどに寒い。おまけに古い建物内に無理くり増設された電源で大量の電気製品を設置しているため、自分の足元に専用のヒーターを置く余裕はない。社長および他の社員はどちらかと言えば夏の冷房出力の低さのほうが苦行らしかったが、私の場合は両方だ。これはいかん。労働環境というものを考えなければいけない。

「もういっそのこと家で仕事したいなあ……」
自宅は数年前に同居の義父が他界して以来、昼間は留守宅だというのも気になっていた。防犯上よろしくないし、家で仕事ができれば、夜中に近所を気にしながら洗濯機を回して、どこかしっとり湿気たような室内干しの衣類に甘んじることもなくなる。お天道様のもとで洗濯してパリッと干すことができるのだ。よって週末を掃除洗濯に削られることも減るであろう。要するに時間を有効活用できるようになるのである。
加えて特養で暮らす高齢の義母、そのさらに上をいく高齢の父を老老介護で支えている、実家の母のことも当然気がかりである。緊急時に職場の人たちに気を遣いながら半休を取得して、義母の住む介護施設や実家へ向かうことも増えていたが、今後はそれがさらに増えるのであろうことは想像に難くない。そもそもそれほど社会的に重要度が高い仕事に従事している訳でもないのだから、今後はこちらの都合も加味したうえで、もっとフレキシブルに構えてもいいはずではないか。

幸い仕事に使う設備の類は、ここ数年で格段に廉価になっている。かつてはハイスペックなPCと一本ウン十万円するソフトウェアを数本揃え、周辺機材を買い集める必要があった。独立するにはそれなりの初期投資が必要になるのが業界スタンダードだったが、今は事情が違う。サブスクリプションという方式の普及により、かつての想定の半額以下で、自宅に職場と同じ環境を用意できるようになっている。私の通帳の数字は切り崩すには心許ない残高だが、どうにかローンを組まずに済みそうな額面だ。もとよりお釣りが出ることは期待できないが、それで生活の自由度が上がるなら決して高くない、むしろお買い得ではないか。

せめて摩擦熱を得ようと、キンキンに冷え切った爪先を自分の足に擦り付けながら、意を決した私は年度内での退職を心に決めた。それが2019年の12月、遠く中国の武漢でウイルスが確認された頃の私だった。
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