2022年12月 廊下にはまだあの人が立ってゐた

文字数 2,453文字

新型コロナウイルスに感染して数カ月が過ぎたが、後遺症に悩まされることもなく2022年の秋が過ぎようとしている。9月に入って以降、私の手帳に書かれた超簡単日記に「コロナ」の文字が出ることがすっかりなくなった。それよりも日々悩まされるのは残暑の厳しさと台風の去来についてで、もはやコロナの話はすっかり日常に馴染んでしまい、特筆するトピックではなくなってしまったらしい。ワクチンについての悩みは、罹患してからはすっかり意識することがなくなってしまった。おまけにワクチンはこの秋にはや5回目の接種に突入したようだ。接種間隔が5カ月から3カ月に短縮されたとかで、加速度的に回数が増えたこともあるが、今更1回目もへったくれもあるものか。私はワクチンに対する興味をすっかり失ってしまっていた。

それよりも世間は元総理大臣の葬儀を、国葬として大々的に行うべきかどうかで盛り上がっていた。
7月に衝撃的な事件が起きてその犠牲になった元首相だが、まったくの単独犯によるテロルという、長らく日本政界から忘れられていた手法が使われたことに驚いた。暴力と政治はかつて密接なつながりをもって連動していたが、それも私が子供の頃にはもう下火になっていたはずだ。その多くが学生運動から派生したセクトを基盤とした組織犯罪として行われていた印象だが、まさか令和の世になってから「暴力による異議申し立て」が採用され、それも単独犯によって実行されるとは思ってもみなかった。しかも彼は一定の成果をあげることに成功している。この事件後に旧統一教会と政治家との繋がりが問題視され、二世問題を含めた周辺事情が世の明るみに出ることになったのだから、完全ではないにせよ、本懐遂げたと見るべきだろう。殺人という不正義をもって、新興宗教と政治との癒着という不正義が暴かれることになった。どこかで見たドラマのようなフィクションめいた構図に、虚構と現実の境界が曖昧になった現代を見る思いだ。

「国葬でもしてやったらどうだ」
ソファーに座って日がな一日テレビを見て過ごしている父は、速報された一連のニュースを見るや、鼻を鳴らしてそう言い放ったそうだ。横で聞いていた母は、常々この元首相による政権に批判的だった父一流の皮肉(あるいはかなり無理をして善意の解釈を試みるなら、精一杯の弔意)だと思っていたが、数日後本当に政府がそれを言いだしたので驚いたという。父は時々寸手の先を読む人で、私が気まぐれに実家に電話したりすると、呼び出し音を聞くだけで「アタルから電話だよ」と言うのだそうだ。予知能力の才能どうかはかわからないが、この「国葬発言」は予知というより経験則だろう。
伊達に長生きしているわけではない。戦争という異常な状態に置かれた国家の中に生まれ、軍国教育を浴びて育った小国民であり、多感な年頃になってから「実は負け戦でした」と白旗を振る大人に幻滅させられた世代である。国家に尽くした英霊は国家によって祀られるという「大本営の政治スタイル」をその目で見た記憶がある人だ。こういう時に国が何をしようとするかをちゃんと知っているのである。

まさか今時国葬なんて冗談でしょ。
母も私もそう思っていたが、どうやら本気らしい。国家予算を消費して、大々的に為されることになった国葬であったが、根が貧乏性の私はその予算を聞くたびに「その金で何が買えたか」ばかりを考えてしまう。Wikipediaによれば、国庫負担額は16億6000万円だという。国家予算からすれば些細な出費だというなら、自民党だってそのくらいの些細な資金はお持ちだろう。自分たちの金で仲間だけ呼び集めて執り行ったなら、こんなに批判されずに済んだはずなのに。故人に「最後の最後までお騒がせな人」という印象をつけてしまうことは、かえって不名誉の上塗りになるとは、あれだけ党員がいるのに誰一人考えなかったのだろうか。この底の浅さがいかにも残念な政権与党の振る舞いであった。

時を同じくして行われた英国エリザベス二世女王の国葬は、本邦のそれとはだいぶ趣が異なっていた。人々が弔問に長い列を作ってその死を悼む様子は、テレビ中継で世界に報じられた。その荘厳な儀礼は当初予算13億円と言われ、どうして日本の国葬はこんなに高いのかと批判を浴びたが、のちに公表された実際の費用を見て、まあ、そんなことだろうと納得した。ネットの記事をあたって得た情報によれば総額およそ1億6200万ポンド、日本円にして約278億円がかかったと2023年の5月になって発表されたらしい。英国内務省から約126億円が拠出されたのを筆頭に、各省およびスコットランド、ウェールズ両政府からの拠出金があり、その総計が上記の数字だということだ。当初予算の13億という数字はどこから出てきたのかと不思議になる額面だが、どうやら比較対象にするには貫目が違いすぎる二者だったようだ。

この年の日記に出てくる最後のコロナ関連記述は、12月初旬姑のワクチン接種について「書類にサインをする」というトピックが最後になっている。姑のところに5回目のワクチン接種券が届いたので、それにサインして入所している特別養護老人ホームへ持参したのである。本人は要介護度が高く、自分で書類に署名することができない。それどころか、ワクチン接種について本人の意思を確認することも難しい。結果、家人がワクチン接種について判断し、書類を提出している。それもはや5回目ということになる。
毎回接種後の様子を施設の職員さんや看護師さんたちに伺うのだが、副反応も想定内に収まって大過ない様子なので、お知らせをもらうたびに接種してもらうことにしていた。書類に記入し、代理人として自分も署名しながらふと、いつまでこれが続くのだろうかという思いに至る。これまでそうしてきた以上は、お知らせの届くままに今後も続けるべきなのだろうか。ここにきてもやっぱりワクチンが、廊下の奥からじっとりとこちらの出方を伺っている視線を感じるのであった。
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