2022年7月 一晩中「行ってきます」って言っていた

文字数 2,463文字

飲まず食わずのままフラフラと家の中を彷徨い歩き、疲れては座ったり横になったりしている家人であるが、どうもやっぱり「出勤しなくちゃ」という思いでいるらしく、思い出したように立ち上がっては玄関へと向かうことを繰り返していた。目を離すと本当にそのまま出かけてしまうので、こっちは行動を見張りながら、スキを見て食事をしたりトイレに行ったりしているうちに、次第に状況に眼が慣れてくる。そんな中でタンさんから電話がかかってきた。急ぎの案件があって明後日中にも上げてほしい仕事があるというから、二つ返事で受けることにした。どうせ今夜はイカれてしまった家人につきっきりの「寝ずの番」になるだろう。こちらとしても夜通し仕事をしながら付き合うにはちょうどいい状況だ。

事情を説明し、こんな有様だから今夜は就寝できそうもないので丁度よかったと伝えると、不思議なものでそれだけで気分が少し楽になる。とりあえずこの惨状をお隣さんとタンさんだけはわかってくれている。その事実だけでも十分安心できるというものだ。タンさんは自宅でリモートワーク中らしく、こちらの尋常ならざる気配を察したのか「何かあったらいつでも連絡してくれて構わないから」と申し出てくれたのが本当にありがたかった。

転がり込んできた仕事を夜通しこなしながら、私は時折家人の様子を伺っていた。いつもの就寝時間が近づいたので床を延べて家人を寝かせるのだが、30分も経たないうちにまた起きてきて、リビングを歩き回っている。だが基本的な行動パターンが読めてくると、こちらも次第に余裕が出てくる。仕事しながらたまに様子見をして、あまりに奇妙な行動を見かけるとスマホで動画撮影することにした。医師に状況を説明するのも画像で見れば一目瞭然だろう、というのが表向きの真っ当な理由だが、本音を言えば私のほかに証人がいないこの現象の、証拠が残っていなければすべてなかったことになってしまう。それはあまりに惜しいと思ってしまったのである。
そんなわけで私のスマホには、イカレポンチになった家人がリモコンをしげしげと眺めてポケットに突っ込み、パジャマのまんまで出かけようとする姿と、ノートパソコンのACアダプターのジャック部分を、イヤホンだと思い込んで耳に差し込もうとする姿が動画で保存されている(これは後々酒席の肴として大いに役立ってくれた)。

家の中での奇行はどうとでもなるのだが、問題は出かけようとしてしまうことだ。何にも持たずにうっかり外へ出られたら、それこそ捜索願いを出すことになってしまう。そのうち疲れて寝るかと思いきや、お出かけへの情熱は冷めることがないようで、ちょっと目を離すと玄関ドアのスライドバーを握ってガタガタと動かしている。玄関には鍵が2個ついており、普段は使用していない方の鍵をかけておけば当然ながら開かない。まともな状態ならすぐ気づくであろうこの事実に本人はまるで気づかないようで、普段使っている方の鍵を何度も開けたり閉じたりしながら、一生懸命外に出ようとして奮闘している。防犯のためにつけたつもりの二重錠だったが、まさかこんな形で役に立つとは思ってもみなかった。

しばらくやらせておいて、疲れた頃に「まだ夜だからね。お出かけは明日にしよう」と声をかけると、仕方なさそうにリビングへと戻っていく。明け方までずっとそれを繰り返し、5時ごろになるともうリビングに戻るのも億劫になったようだ。玄関先でそのまま眠ってしまったので、とりあえず毛布を被せておいた。真冬なら寒くてたまらないだろうが、夏場だから綿毛布一枚でどうとでもなる。そのうち体が痛くなってきたのか、自主的にリビングへ戻りソファーで寝始めたのをいいことに、私も軽く横になった。二人揃って仮眠して、眼が覚めたら8時過ぎだったので、よし! 今すぐ病院行くよ! と言うと、少し眠って多少は回復したのか、自分から進んで着替えて身支度を整えた。しかしこれから会社へ行くのだと思い込んでいるようで、カバンも財布も私に持たせていることも忘れて、一緒に出た私についてくるなと言って追い払おうとする。再びタクシーを拾って向かった昨日の病院で、昨日よりは多少まともになった家人ではあるが、相変わらず点滴を嫌がり、昨日に引き続き二言目には「もう帰る」を連発し、PCR検査の綿棒を鼻に突っ込まれては痛い痛いと大騒ぎをした。

ここでなんとか点滴で水分を補給しなければ、本当に干涸びるだろうと思った私はつきっきりで話相手になって、家人の気を紛らわせた。幸にして昨日よりはややまともになり、話しかければちゃんとこちらを見て、少々ピントはずれるものの辻褄の合う応答ができるようになってきている。しかし横で世話を焼いている人の名前も思い出せないようで、何度か私のことを「おかあさん」「姉ちゃん」と呼んでいた。両親と姉の4人家族であるという、自身の基本設定が

されてから10年以上は経っているのにもかかわらず、そこの記憶はすっぽ抜けてしまったらしい。

私が自分の顔を指差して、ねえねえ、私のこと誰だかわかる? 名前で呼んでみてと尋ねると、それが出てこないらしく、うふふふと笑ってごまかそうとしている。ということは、「思い出せない」→「マズい状況」ということはわかっているようだ。昨日はこの程度の会話も成立しなかったし、本当にヤバい状況だったらとっくに「あんた誰?」ってことになっているだろう。多少状況がよくなってきていることに安堵はしたが、万一のこともあるので脳神経内科にも診断を仰いだ方が良さそうだ。医師に相談すると頭部のCT画像撮影をしたのちに紹介状を書いてくれたので、それを受け取って帰宅することにした。

あの紹介状、思えばあれが藪蛇というものだったのだろう。このまま数日様子見でよかったのに、脳神経界隈の異常が残りでもしたら嫌だし、初動が遅かったねと後になって言われでもしたら後悔すると思ってのことだったのだが、まったくもって余計な行動であったと今となっては後悔しきりだ。
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