2021年5月 仕方ないから肚を括った

文字数 2,267文字

さて、月曜日午前の診察結果を受け、午後からの入院である。1時間で戻ると医者に約束して、無理にでも一度帰宅し荷物を自分でまとめたのは、コロナ対策として入院患者の面会はできないことになっていたからだ。荷物の受け渡しは平日の決められた時間にのみ、職員を介して行われるとのことで、勤め人の家人に仕事を休んでまで荷物を持ってきてもらうことはできない。ばたばたと身の回り品をカバンに詰め込んで、病院に戻り次第またまた抗原検査を受け、陰性判定が出ると即3人部屋の真ん中のベッドを与えられた。
飲み薬だった抗生剤は1日三本の点滴に代わり、朝から晩までほぼ1日中管に繋がれっぱなしの暮らしである。毎朝9時過ぎに診察室へ行くと、若い先生たちと看護師さんがずらりと並んで、入院患者を片っ端から診察している。私も毎日毎日鼻を経由して、喉の状態をモニターで確認するのだが、当然ながらレミセンほどの手練れがいるわけもない。どの先生もこれから上手くなってくれることを信じて、ゲホゲホと咽せ、時に鼻血を垂らしながらケーブルの侵入に堪える日々が続いた。

しかし抗生剤だけでは病状は一向に改善しない。食事も夜はどうにか食べられるが、朝になると水を飲むのもいちいち覚悟を決め、一口飲んでは目尻に涙がたまる有様。おまけに寝起きからたっぷり午前中は声が出せない。夕方になって少し声がでるようになっても、翌朝起きるとまた出なくなっている。しかしスモーキーボイスであってもまだ出るだけマシなようで、となりのベッドに入っていた年配の患者さんは、手術を終えて病室に戻ってきてから、気配はしても声は全く聞こえてこなくなった。筆談を交わしているらしい、コツコツとボードの上を滑るペンの音と、それを読んで返事をする看護師さんの声だけが聞こえている。おそらく声帯を切除したのだろう。

毎朝診察は受けるものの病気の特定には至らず、治療は次第に「実験」の様相を呈してきた。
腫れている部分の組織を詳しく調べてみましょうというので、穿刺吸引術の実施了承書類にサインする。穿刺吸引術、通称ぷすぷすである。これは超音波エコーで探りを入れながら、患部に針をぷすっと刺して中の細胞を取り出して検査するもので、私の場合は喉、つまり首に太っといお注射針を刺すということを意味している。麻酔をするわけでもないので、これまた気合いでエイヤッと乗り切るしかない検査だ。まあまあハードな内容をマイルドに捉えようと「ぷすぷす」なるペットネームを与えてみたりしたが、行われる施術自体に変化があるわけでもない。要は気の持ちようだ。
先生方は3名掛でエコーのモニターを確認する人、針を刺す人、ぷすっといった際に思わず浮き上がりそうになる私の頭を押さえる人で分担している。こちらは診察台で仰向けになり、天井を睨んでいるしかやることがない。耳元で「引け引け」「もうちょっといける」「あー、樹脂針ないの」等の現場の声を聞きながら、ようやく解放されて見せてもらった注射器には血とカフェオレ色の液体がキレイに分かれて入っており、撹拌前のドレッシングのようになっている。どうやらこれが患部に溜まった膿らしかった。

金属の針は形状の自由が効かず、あまり奥まで穿刺できない。そこで樹脂製の針を用意して翌日もぷすぷす、翌々日もまたぷすぷすと続けた。すると症状は少しずつ改善されるのだが、今度は施術している先生が「こんなんじゃ全部取るのに100年かかる!」と悲鳴を上げた。
入院して1週間目、CTを撮るからと朝から絶食を言い渡されて、ようやくお呼びがかかったのが夕方、病室に戻る頃にはすっかりお腹が空いて、食事を待っているうちに医師からお呼びがかかった。診察室に行くと、若手ばかりの大学病院なりにも中堅どころと言った感じの先生がいて、CTの結果を見ながら「これはやっぱり開けてみるしかないのでは」と持ちかけてきた。開けてみる、すなわち切開するということだ。

これまでの治療で症状は多少改善はされたものの、相変わらず病名の特定もされず、穿刺術にも限界がある。採取した組織を検査した結果、特別悪性のものは見つからないが、このまま退院して様子をみても、おそらく病巣が存在し続ける以上は再び膿が溜まって腫れ上がり、同じ状態に戻るだろう。明日手術室の空いた時間で切ろうと思うんですがどうですかともちかける医師は、続けて施術のリスクとして、甲状腺の切除やむなしという判断をした。患部が喉であり、甲状腺という臓器と病巣が複雑に近接しているため、甲状腺の左半分を犠牲にすることになるという。甲状腺は代謝を調整するためのホルモンを分泌するという役目があるが、半分でも残っていれば問題なく機能する、というのが医師の説明だ。これはなかなか、まあまあな博奕である。

ここで可能な限りの穿刺で膿を取り、退院してのちもハラハラしながら経過観察したとする。場合によっては再発し、そこでやっぱり切るかということになれば、自分自身は間違いなく今よりも年齢を重ね、体力が衰えているはずだ。そうなってから手術を受けると、当然ながら回復も遅くなる。今は幸にして他の疾病の持ち合わせはないが、その時に何か別の病を得ていたら、事態はさらに複雑化するだろう。
切るなら今か。そう判断した私は書類にサインして看護師に渡した。括るべき腹は今朝からの絶食のためすっかりカラになっており、早く夕食の時間にならないかと待ち焦がれる私に、看護師は痛恨の一言を放ったのであった。

「明日手術の予定ですから、今夜八時以降絶食です」


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