2020年5月 春はきちんとやってきた

文字数 1,922文字

4月も数日過ぎた頃、「発令」だとさすがに大仰だと思ったのか、総理大臣が「緊急事態宣言」を「発出」したあたりから、ますます人の気配が町中から消えた。市街地に関して言えば歩きやすくなったとも言える。観光客のいなくなった銀座を歩いていると、いつもは人が溢れているカフェの店員さんが、通りを歩く人に呼び込みをかけるという、普段ならありえない姿も見られた。
住宅付近はステイホームの人々で、平日なのに休日のような賑わいのある日が増えた。ドラッグストアでは相変わらずマスク不足が続いていたが、普段はそういったものを扱うことがないはずの食品スーパーや、時には露店でゲリラ的にマスクが販売されるのを散見するようになっており、一時の絶望的な品薄感は徐々に解消されている様子だった。そんな頃になってから、あの有名なマスクが自宅にも届いた。マスクの不足を解消すべく、政府が大急ぎで各戸に2枚のあてがいぶちとして用意した「ア◯ノマスク」である。

うちは構成員が2名だからいいのだが、世帯人数に関わらずどの家も一戸につき2枚だというからその「取り急ぎ」感は察するに余りある。加えて感染症対策には不織布製ほどにも効果がないと常々言われているガーゼマスクは、ここ数年は街中で見かけることも減っている、まさに時代の遺物が届けられたわけだ。私にとっては給食当番の必需品であり、白衣を着てパンや牛乳パックを配ったあの頃を思い出させる、そのノスタルジックなたたずまいに痺れた。つられて「クジラの竜田揚げ」の退廃的とも言うべき歯触りを思い出し、小学校の校庭にあるジャングルジムから、青空にぽっかりと浮かんだ白い月を眺めたことを思い出しながら、医薬品を保管しているチェストの引き出しに投げ込んで、今もそのままになっている。2020年6月の時点で、総額260億円が費やされ、その後余ったマスクを保管するために6億(2021年3月時点)を消費したこの施策を、肯定的に捉えた人はどのくらいいたのだろう。この国の官僚は緊急事態だからと財布の紐と一緒に頭のネジまでユルユルになってしまったようだった。

やがて訪れた5月半ばの母の日は、いつもなら電車に乗って実家へ出向くのだが、それも今年は取りやめにした。各県知事が感染リスクをイタズラに上げない為に「県境を跨ぐ移動を控えてくれ」とやかましく、今はステイホームだと訴えているのを素直に受け入れる事にしたのだ。
今年は通販の花を注文して、実家に届けてもらうことにしよう。そう決めた私がネット上で見つけたのは、仕入れの状況に合わせてリーズナブルにアレンジメントを作ってくれるというお花屋さんで、こちらで注文してみることにした。

今年は私と同じように通販で花を送る人が多く、どの花卉店も大変繁忙しているらしい。この業界も感染対策のために多くのイベント、殊に結婚式が延期され、花の需要が大きく落ち込んでいる。ニュース映像などで大量のバラが出荷できないまま廃棄される様子が報じられる中、せめて母の日は販売の拡張に努めたいところだろう。だが母の日の集中的な繁忙は、花の出荷作業に携わる従業員さんの『3密』を呼ぶリスクを高めてしまう。そこで日本花き振興協議会からメッセージが発せられた。「今年は母の日ではなく、『母の月』で」というものだ。母の日需要を分散して、今月いっぱいを「母の月」として、受注が集中するのを避けるというアイデアである。賛同した私は、配達日の指定はできない代わりに割安になるというアレンジメントの商品を選んで注文してみた。プレゼントの目的や好みの色合いなどを選ぶボタンを押し、あとは皆お店の方のセンスにおまかせである。すると後日、お店の方が出来上がったアレンジメントの写真を、メールに添付して送ってくださった。

拝見した写真にはピンクのリボンでまとめられたフラワーアレンジメントが写っていて、その華やかな色彩を見ていたらなんだか泣けてきた。街から人が消え、会いたい人とも会えず、誰もがウイルス感染の不安に怯えながら右往左往している。それでも花はちゃんと咲き、春は間違いなく来ているのだと教えてくれている。丹精込めた農家さんのもとで咲き、運送する人たちに運ばれ、お花屋さんにまとめてもらって、ちゃんと季節は廻り春がきているのだ。
我と我が身を見返せば、写真の中のそれは自分が自分に送った祝花のようでもあった。花束を送られるような退職ではなかったけれど、思いを果たした私に、春がエールを送ってくれたような気がしたのだ。もちろんアレンジメント本体は母のためのものであり、喜んでもらえたのだが、まさに一つで二度私を励ましてくれた花の写真は、今でも大切に保存してある。
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