第17話 1933年5月 ボヘミアンたち

文字数 3,960文字

 みんな行ってしまったの? わたし、寝たふりをしていたの
 二人きりになるのを待っていたのよ。
 とても大事なことを言っておきたかったから
 話したいことがたくさんあるけど
 たった一つ、海みたいに大きく深く、限りないのよ
 あなたは私の愛 私の人生の全てなの

 痩せこけた少女ミミがベッドの中から手を伸ばし、恋人をその手に抱く。
 だが不甲斐ない恋人は死にゆく女に為すすべもなく、愛を歌うばかり
 オペラ「ラ・ボエーム」のラストシーンだ。
 貸し切りのカバレットにしつらえた簡単なステージには、パリの下町の貧しい屋根裏部屋……ベルリンの貧しい人々の『現在』がそのまま再現され、病身の美少女ミミが、今まさに恋人に愛を告げながら息絶えようとしている。
 うろたえるロドルフォに、親友マルチェッロ役のイヴァンが叫んだ。

「勇気を持て」

 ふと目を離した隙に、ベッドの中で恋人が冷たくなっている。
 激しい後悔に襲われ、泣き崩れる恋人の詩人・ロドルフォ。
 ピアノと少人数の楽団がクライマックスの旋律を盛り上げる中、ロドルフォ役のエミールが絶叫した。

「ミミ ! 」

 その叫びはもちろん楽譜に指示されている。テンポも長さもタイミングも綿密に決まっているのだが、エミールはその瞬間、演じてはいなかった。
 恋人の死に気付かなかった詩人・ロドルフォを、演じるのではなく生きていた。
 ミミが、マリーが、自分の手の届かないところに行ってしまう。
 自分が気付かない間に繋いだはずの手をするりと抜けて、行ってしまう。
 役と自分と薄皮一枚を隔てながら、楽譜にある二度目の絶叫が会場に響く。

「ミミ!」

 悲しいミミのテーマが盛り上がるなか、ボヘミアン達はみなベッドに背を向け、ミミをかき抱くロドルフォのため嗚咽をこらえる。
 それは若い芸術家たちの、自由気ままにふるまえた「青春」の終わりだ。
 同時に、暴力と政治力の中に飲み込まれるドイツの「青春期」の終わりなのかもしれない。
 この公演会場にも、フライコール(自警団)の制服を着た荒んだ目つきの男たちが入り込んでいるし、店の内外にベルリン131警察管区の保安警察官もいる。
  ウクライナ、セルビア、日本、フランス、朝鮮。
 世界各地から集まってきた多国籍の演奏集団、おまけに指揮者はユダヤ人。
 当局から見ればすぐにでも演奏中止にすべき演目だろう。
 だが、一回だけの公演は最後まで行なわれた。

 弦楽器と金管の余韻が消えると、エミールは堰を切ったように泣きだした。
 ベッドから起き上がろうとするミミ役のマリーを抱きしめたまま、衣装が涙で濡れてしまうほどに。

「大丈夫よ、エミール。私はちゃんといるわよ」

 きつく抱きしめられたマリーが、エミールの耳元で囁く。
 やや遅れて拍手の輪が静かに広がる。
 オペラはここで終わった、と満員の聴衆全てが分かっているが、ロドルフォ役エミールの、あまりにむき出しの演技に押されていた。
 これは真実なのだろうか。演技ではないのだろうか。主役の二人は本当に『できている』のだろうか。
 劇場慣れした観衆は現実を舞台に持ち込むのを嫌う。
 反対にゴシップ好きな聴衆は、楽屋裏が透けて見えるのも大歓迎だ。
 まずい。このままでは余韻が台無しだ。

 ヅィンマン先生が指揮棒を置き舞台に上がった瞬間、エミールが起き直り笑顔を見せた。
 ミミ役のマリーはマルチェッロのイワンが手を取り、エミールはムゼッタ役のアンナの手を取って、舞台の前に並ぶ。
 そして深々と一礼。
 ここで安心したように一際大きな拍手が響いた。
 燕尾服のヅィンマン先生も加わり、一礼。
 そして楽団の皆が立ちあがり、また一礼。
 最後にヒロイン二人が前に出て、深々とお辞儀。
 初めはおずおずとしていたマリーも、アンナに背中を支えられて満足げな微笑みを浮かべている。
 ブラボーの声がいくつも響いた。
 一際大きく、腹の底から響く野太い声援。それは舞台真ん前かぶりつきの席に陣取った突撃隊(SA)たちだった。

 舞台がはねたカバレットでは、そのまま帰る者たち、帰り支度の楽団員に話しかける者たち、食事を続けビールで気勢を上げるグループと様々な輪が出来ていた。

「オイゲン、お前は歌姫の所に行くんだろう?」
「もちろんだ。最高の女のために、最高の花も買って来たんだからな」

 仲間の荒くれ男達に冷やかされながら、金髪の青年はコートに袖を通し、大きな薔薇の花束を両手で抱えた。

「親愛なる歌姫、入ってもいいかい」

 楽屋口から控室になっているロビーに歩いて行ったオイゲンに、応える声はなかった。
 半分演奏会式の抜粋オペラである。
 いつもアンナが歌っているビヤホールよりやや大きい程度。フリードリヒ通りのセントラルホテルの中にある歴史ある劇場レストラン「ヴィンターガルテン」( wintergarten )などとは比べぶべくもない。
 上演楽屋口と言っても受付が立っているわけではない。従業員の出入りするバックヤードへのドアと変わらないのだ。

「アンナ、面会の申し込みもないけど、入るよ」

 ロビーと言う名のスペースは食材の木箱や酒の樽、ワインの瓶が無造作に積まれ、対角線に渡された洗濯ひもには従業員の制服がぶらぶらと下がっている。
 ペチコートやシャツ、ベスト、帽子の類をかいくぐりながら、花束を抱えた突撃隊の若者は歩いた。
 持ち込んだ小道具を仕舞い撤収にかかる美術部、照明に使った古いライトを回収して運び出す演出部。

「お疲れ」「お疲れさん」
「おやすみ。パーティーに顔を出せずに悪いね」
「掛け持ちやってるのはお互い様だよ。気にするな」

 声を掛け合い、後生大事に楽器ケースを抱えて出ていく楽団の若者たち。

「お疲れさま。素晴らしかったよ。ありがとう。気を付けて、次のレッスンには遅れるなよ」

 燕尾服に丸眼鏡、もじゃもじゃの髪を無理やり梳かしつけた小柄な男が、肩を叩いて楽団員を見送った。

「イサーク・ヅィンマン」

 若者は胸に抱えた花束をスッと下げ、小男に呼びかけた。ぞっとするほど冷たい声だ。
 誰、と振り向くヅィンマンの怯えた顔に吹きだし、オイゲンは朗らかに笑いだした。

「マエストロ・ヅィンマンだったな。俺はアンナに会いに来ただけだ。楽屋に通してくれ」
「驚いた。君は僕を知っているのかい?」
「あんたは俺を知っちゃいないだろう。アンナに迫った時あんたはいなかったからな。あんたの生徒たちが邪魔しただけだった」
「すまんね君。事情がよく呑み込めないが、僕の生徒たちが君の恋路の邪魔をしたってわけかい」
「ああ、そういう生意気な学生たちの動きには敏感なんだ。突撃隊という仕事がらね。ユダ公のマエストロ」

 そのときムゼッタの衣装を脱いで薄手のローブに着替えたアンナが、弾む足取りで現れた。

「オイゲン、来てくれたのね、嬉しいわ。あんたとお仲間たちがお行儀よく最後までいてくれるか、内心ひやひやだったのよ」

 跳ぶように走り寄り、恋人の広い胸に抱き着くアンナは、舞台メイクを落として清楚で素朴な娘然としているが、はた目から見てもとても幸せそうだ。
 その彼女をしっかり抱きしめる、とっておきのパリッとしたスーツ姿の男が、レーム親父の手勢の『突撃隊員』だという事を除けば。

「すごくきれいで、そそる女だったよ。もっともいつも君は、食べてほしそうに俺を見つめるけど」
「言うわねえ、この可愛い顔をしたブーコップフ(少年面)が。何それ。赤いバラの花束…私のためなのね」
「そうだよ。俺の世界最高の歌姫に」

 少年面、と年上のアンナに言われたように、まだティーンエイジゃーのオイゲンは背伸びした少年に見える。
 だが2人の周囲でヒューヒューと口笛を吹きはやし立てる、成功の喜びに酔った歌い手たちに冷やかされても、笑ってやり過ごす余裕はあった。

「おめでとう、将来のオペラスターの皆さん。これは皆さんに。つまんで疲れをとってくれ」

 私服に着替え、楽屋を片付けた出演者たちが、荷物を抱えてわらわらと集まってきた。これから先ほどまで歌っていたホールで簡単な打ち上げだが、その前に皆で気勢を上げようというのだ。

「俺の故郷のケーキだけど、アパートの管理人の婆さんに作ってもらったんだ」

 オイゲンは脇に置いておいた箱を開けた。
 小さなタルトのような焼き菓子がぎっしり詰まっていた。
 固く厚い皮の中に、アーモンドの香ばしい香りのケーキ生地。練り込まれたバターの下にはキイチゴのジャムが潜んでいる。
 疲れ切った歌い手たちは歓声を上げておそいかかった。

「リンツァートルテに似ているね。同じようにジャムが詰まってる」
「 ライプツィガー・レルヒェ (Leipziger Lerche)だよ。俺の故郷、ライプツィヒの名物菓子だ。」

 金髪を揺らしてアンナのキスを顔いっぱいに受けながら、オイゲンは自慢げに胸を張った。
 打ち上げパーティーまで待ちきれない。
 若者たちはお喋りしながら瞬く間に土産の菓子を平らげて行く。
 指揮者のイサーク・ヅィンマン先生だけが浮かない顔をしていた。

 喧騒の中で、次の上演演目が決まった。
 エーリッヒ・コルンゴルトのオペラ『死の都』だ。
 極めて複雑で分厚い楽曲構成、しかも甘く抒情的なこのオペラは難曲ぞろいで、演奏会形式で挑むにしろ、学生たちには極めて高いハードルである。
 それだけに1920年の初演では、若干23歳の作曲家はセンセーショナルな成功をおさめ、ワイマール時代はヨーロッパの一流歌劇場でレパートリーとして常に演奏されてきた。

「いいね」
「頑張ろう」

 はしゃぐ若者たちと逞しい突撃隊員・オイゲン青年を凝視しながら、指揮者のイサーク・ヅィンマンが暗い顔をしていたのは訳があった。

 作曲者のコルンゴルトは、自分と同じユダヤ人だったのである。
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