第51話 『死刑執行人』の弟

文字数 3,228文字

「ハインツ氏はいい奴だよ」
「彼は単純でさっぱりしていて、分かりやすい男だよ」

 そういった話は、支局に出入りする他社特派員の会話でしばしば聞く。
 SD(親衛隊情報部)中尉で、前線に出たがる根っからの現場主義者。仲間と居るのが大好きな男。
 それが彼ハインツ・ハイドリヒの評判だった。そして必ず『もう一言』が付く。
「兄のラインハルト・ハイドリヒに比べて」という一言が。

 ナチの建造する建物は、どれも過剰なまでに壮麗だ。
 美術史の授業で習った古代ギリシャの建築様式、ドーリア式やイオニア式、コリント式といった意匠が随所に取り入れられている。
 建築相シュペーアの意向なのだろう。
 だが今入ろうとするゲシュタポ本部は、元々ホテルとして建てられたので、昔ながらのプロシアの上流階級の邸宅といった風情が漂っていた。
 しかし、中身は「ハゲタカの巣」である。
 受付で身分証を提示し、ハインツ・ハイドリヒ氏に面会の旨を伝えた。
 日本の通信社の信野善次郎という身分に嘘はないが、若い頃突撃隊やゲシュタポの乱暴狼藉に晒された身にとって、胸の辺りがざわつき背中が冷たくなる。

 僕は広い一階のホールで待たされた。
 正面の目立つ位置に誰か知らない男の胸像が鎮座し、壁の至る所からハーケンクロイツの垂れ幕が下がっていた。
 ドーム型の広く取られた窓からは明るく陽光が差し込んでいるが、波型の格子がその光を細かく裁断している。
 窓の下の木造りのベンチには、長いコート姿や、目立たない地味なスーツ姿の男たちが座り、また小さな集団になって話し込んでいた。
 僕はそれらを見ないように、腕に抱えた書類とヴァイオリンケース(先ほど受付で中身を改められた)を抱きしめていた。
 やがて若い係官が迎えに来た。まだ少年と言っていい、巻き毛にそばかすだらけのピンクの頬をした青年が、元気よく靴音を響かせて、ハインツ・ハイドリヒ突撃隊中尉の元へ案内するという。
 いくつもの廊下を通り、角を曲がり、階段を昇りまた下ってと、僕は建物の中をぐるぐる歩かされた。
 外から見た印象と違い、建物の中の導線は複雑怪奇だった。もっとも部屋を特定できないよう、わざとぐるぐると遠回りに歩かされていたのかもしれない。

「ハイルヒトラー」

 若者が部屋の中に到着の旨を伝えると、中から警備がドアを開け、入るように促された。

 小さな控室の奥に続く広い執務室。
 その中に彼はいた。
 親衛隊中尉ハインツ・ジークフリート・ハイドリヒ。
 ゲシュタポ・親衛隊諜報部(SD)長官ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒの一歳違いの弟である。

「やあ君が突撃隊と武勇伝を残した日本人の音楽家か」

 短く刈り込んだ金髪の巻き毛に眼鏡をかけたハインツ氏は、そう言って僕を手招きした。
 数年前、イザーク先生を庇って突撃隊員と殴り合いになった件を、彼は既に知っている。
 僕は背中に強烈な寒気を感じた。

「シンノゼンジロウと申します。支局長に命じられ、こちらの記事の複写をお持ちしました」

 ハインツは若い副官に手で指示し、僕の抱えてきた書類の束を受け取らせた。

「君たち日本人記者は、ドイツ語が不得手だからと他国の記者と翻訳記事のやり取りをしているそうじゃないか」

 僕は必死に記憶を巡らせた。
 そういえば、英語は出来るが早口のドイツ語のヒヤリングに不得手な記者が、他国の記者と記事の融通をし合っているのを見たことがある。
 そんな些細なことまでこいつらは掴んでいるのか。

「自分は存じ上げません」
「まあいい。臨時職員である君を追いこもうとは思わないさ。でもいざとなったら大使館を通じて強めの要請を出すかもしれない」

 僕は居心地悪く立ち尽くしていた。
 小脇に抱えたバイオリンケースだけが、激しい動機を多少なりとも落ち着かせてくれる。
 ハインツ氏は眼鏡の奥の目をぎょろりと動かした。
 ゲルマン的美男子とされている兄のラインハルト氏よりは、親しみやすい容貌をしている。

「よしよし。言ったとおりに楽器を持ってきたね。善い事だ」

 彼はまた副官に指示を出し、奥の棚から大きめの楽器ケースを持って来させた。
 チェロだ。
 音楽家の家系に生まれたハイドリヒ兄弟は、2人共、楽器を巧みに演奏することで知られていた。
 弟のハインツはチェロ、兄のラインハルトはヴァイオリンである。

「君、せっかくだから何か弾いてくれたまえ。短めのものが良い。ただし、ユダヤ人の作った曲や『ツィゴイネルワイゼン』はお断りだよ」

 僕は少し考えた。
 スペインのヴァイオリニスト、サラサーテの難曲ツィゴイネルワイゼンは、流浪の民の旋律を元にした名曲中の名曲だが、ナチスはシンティ・ロマを嫌い、ゲットーに移住させているという。
 だから彼は「お断り」と言ったのだ。
 ケースからヴァイオリンを取り出すと、なおも暫く目をつむって考えた。
 その間ハインツ氏はチェロをケースから取り出し、こちらを見つめたまま椅子に掛け身構えていた。
 曲によっては即興で重奏をする気満々だ。
 僕は心を決めて弾き始めた。
 物悲しい旋律が弓の先から走り出る。ハインリヒ・イグナツ・ビーヴァーのヴァイオリンソナタ5番だ。

 ハインツ氏は僕の選曲に少し驚いた様子だった。
 バロック初期の、バッハより古い時代の音楽が、アジア人の手から奏でられるとは思わなかったのだろう。
 でもすぐに、にやりと笑って弓を動かした。
 チェロによる通奏低音を完璧に弾き始めたのだ。
 これには僕も驚いた。
 ビーヴァーはけして大衆的な意味で有名な音楽家ではない。なのに僕の演奏にぴたりと合わせ、温かい音色で低音部を奏でている。
 しかも暗譜だ。
 親が高名な音楽家・教育者であるとはいえ、このセンスと記憶力は大したものだ。
 兄のラインハルト氏も巧みにヴァイオリンを弾くと聞いているが、幼い頃から兄弟参加のホームコンサートなど催されたのかもしれない。

 緊張と動揺を押さえつつ弾き進めるうち、僕は早いパッセージで指を外してしまった。
 あっと心乱し演奏が止まってしまった僕の背中を、ハインツ氏は立ち上がり、微笑みながら軽くたたいた。

「記者として働くよりヴァイオリニストとして活動した方が、君は向いているぞ。ただしワイマールの放埓な時代のように、カバレットで弾くのはお勧めしないがな」

 うまく言葉を返せなかった。ゲシュタポに勤める彼は、僕の学生時代の警察沙汰の乱闘の記録を読んだに違いない。

「僕たちはこんな風にうまくやっていけるよ。ドイツと日本の絆のようにね。大島大使にも君のことは言っておこう」

 有り難いがそれはかなりの迷惑だ。
 僕は静かに目立たず、このベルリンで過ごしたい。
 通信社の下働きでいるということは、それだけで日本では到底味わえない、他の国々の人と交わる可能性を帯びている。
 現にベルリン支局には、支局長以下職員が足と人間関係で得た情報が、日々入ってくる。
 軍人の大島大使にしゃしゃり出てこられては困るのだ。

「今度は君、是非我が家へ来たまえ。また一緒に楽器を弾こう。でも今度はチェロソナタも弾かせてくれたまえよ」

 金髪のカールのきつい短髪を揺らして、眼鏡の親衛隊将校は笑った。
 その笑顔は『金髪の野獣』と呼ばれる兄ラインハルト氏より、よほど無防備で親しみやすく感じた。

 あわてて礼を言ううちに、僕は無性に学生時代の友人達と会いたくなった。
 特に、ベルリンの学校で二人きりの日本人だった、釜山出身のキムに。
 彼はここベルリンに留まっているはずだが、昔の住所にはもう住んでいないし、日本人界でも彼の居場所を知る人はいないようだ。
 どこでどうしているのだろう。

 久方ぶりにこんな感情に見舞われるのは、きっと真剣に楽器を弾き、音楽に心身をゆだねたからに違いない。
 僕はまだ、音楽に向き合う事が出来る。
 そのことが自分でも意外で、新鮮だった。
 たとえ相手が死の部隊と言われる親衛隊の、将校だとしても。
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