第4話 ヒトラー内閣成立前夜・3   ベルリンの屋根の下

文字数 2,933文字

 ベルリン中心の繁華街からやや外れた郊外の『ベルリン動物園駅』は、ベルリン子からは単に『ツォー(Zoo)駅』と呼ばれている。
 文字通り、市立動物園最寄りの駅だ。
 商店も飲食できる店もまばらな住宅地で正直不便だが、夜中に動物園内の獣の吠え声が響く、大都会離れしているところをエミールは気に入っていた。
『ザック・メンホフの館』とプレートが着いた、双峰のとんがり屋根を持つ古めかしいアパート。その最上階の屋根裏部屋が彼の『城』である。
 以前は音楽学校の近くに住んでいたのだが、夜昼となく歌う声がうるさいと追いだされたのだ。

「ミミ、ただいま帰ったよ」

 長い長い階段を昇り、ガタピシいうドアを開けると、エミールは優しく呼びかけた。
 お帰りなさいの声はない。ロドルフォ役に決まってからの、エミールの妄想の恋人『ミミ』への毎夜のラブコールだからだ。
 小柄でまだ少女の面影を残し、長い栗色の髪を小ぶりなシニョンに結い、脛の見えない昔風の長いスカートに小さなエプロン姿の恋人、ミミがアパートの自室で待っていてくれる。
 そして彼の帰りを頬を染めて出迎えてくれる。

「寂しい奴だな、君は」

 ボヘミアンの仲間たちにも呆れられる、哀しい妄想だ。

「ミミは空気が悪いところは苦手だよね」

 エミールは型遅れで小汚いコートとマフラーをベッドに放ると、窓の一つを開けた。
 重い窓が音を立てて開くと、動物園から夜行性の鳥や猛獣の吠え声が聞こえてくる。
 低く響いてくるうなり声はライオンだろうか。

「アフリカから来たライオンの声が聞こえるね。ミミはアフリカに言った事はないよね。僕もないんだ。でも我がドイツはアフリカにも領土を持っているんだよ。僕が偉い軍人か商人か、外交官になったら連れて行ってあげる」

 ベッド脇、小さなテーブルの丸椅子に、健気で可憐な少女・ミミが座って彼の話に大きくうなずいてくれる。
 そんな想像の恋人は彼にいつも忠実だ。時には

「今日の練習の成果を聞かせてあげるよ」

 と愛の歌を歌って聞かせるが、そんな時も動物たちの吠え声の合いの手のおかげか、耳の遠い大家のお叱りは来ない。

 それにしても腹が減った。
 後はベッドに転がって寝るだけなのに、大いに歌い動き回ったので、空腹のため寝付けそうもない。
 ミュンヘンの両親からの仕送りの予定もまだまだ先だし、こんなことならあの金持ちの日本人に頼って奢ってもらえばよかった。
 演じるオペラの配役・ロドルフォばりに寒さとひもじさを呪っていると、窓の外からけだものの吠え声とも違う、小さな声がした。
 最上階なのに泥棒か?
 思わず火かき棒を手に身構え耳を澄ますと、それは若い女の歌のようだった。

「待てよ、なんて可愛い声なんだ……」

 何の歌だろう。
 耳を澄ますと歌詞はフランス語だ。

 Plaisir d’amour ne dure qu’un moment,
 Chagrin d’amour dure toute la vie.
 J’ai tout quitté pour l’ingrate Sylvie.
 Elle me quitte et prend un autre amant.
 Plaisir d’amour ne dure qu’un moment,
 Chagrin d’amour dure toute la vie.

 愛の喜びは一瞬だがその苦しみは永遠に続く。

 誰が歌っているのだろう。
 この声からして、きっと美しい人に違いない。
 透き通る可憐な歌声。
 けして大きくはないのに目に見えない空気の粒を震わせ共鳴させて、すっと耳の奥まで入ってくる。
 きっとオペラ『ラ・ボエーム』のミミという娘が実際に居たら、きっとこんな風に歌うだろうと思える音色だ。

 Piacer d’amor più che un dì sol non dura
 martir d’amor tutta la vita dura.
 Tutto scordai per lei
 per Silvia infida
 ella or mi scorda e ad altro amor s’affida.
 Finché tranquillo scorrerà il ruscel
 là verso il mar che cinge la pianura
 io t’amerò.” mi disse l’infedele.
 Scorre il rio ancor ma cangiò in lei l’amor.

 エミールはイタリア語で歌い出した。
 彼は見知らぬ女の可憐な声に合わせて、出来る限りの優しい音色を出した。
 ふと女の声がやんだ。
 嫌われたかな。怪しまれたのかな。まあ自分は実際怪しいが。
 彼が歌を止めると女の声は続きを歌い出した。
 エミールが声の方向と突き止めたのは錆びついて開かない、北側のクローゼットの奥の窓。
 隣のアパートの屋根裏か、同じ建物の双峰のもう一方にでも居るのだろうか。
 彼は苦労しながらクローゼットを退かせ、半ばかびた埃だらけのタペストリー(大家がイギリスで買ったものらしい)を端に寄せた。
 手を触れただけで繊維がほぐれて崩れ出す布は、みるからに前世紀の細菌の塊だ。
 皇帝ヴィルヘルムの鉄兜のように古めかしい。
 錆びついた金具と窓枠にオリーブ油を吹きかけ、充分に馴染ませて力任せに持ち上げる。
 全てが崩壊しそうな大音響と共に、窓枠が破れて落ちた。
 塵埃とかびた木くずが盛大に吹き上がる。

「ちくしょう!」

 叫んで顔を上げ目を開けると、対面の屋根窓の張り出しから小さな青ざめた顔がのぞいていた。
 乱れた髪、下着姿のような部屋着の肩にほつれかけたストールを引っかけ、獣か泥棒を見るように怯えた目でエミールを見詰めている。

『見つけた。僕のミミだ』

 エミールはとっさに叫んでいた。

「窓を閉めないで! 怪しいでしょうけれど怪しい者じゃありません。ずっと知らなかったけど貴女のお隣です」
「すみません。その窓が開くとは思わなかったんで、そちらに人が住んでいると知らなかったのです」

 たっぷり5分以上見つめ合った後、女がハチドリの羽音より小さな声で囁いた。

「ごめんなさい。こんなはしたない恰好で」
「そんなことありません。とっても良いです。そのお召し物はとても素敵です。できたらずっと見ていたいくらい」

 何を言っているんだ、俺は。

「ともかくはじめまして、です。僕はエミール。エミール・シュナイダー。音楽学校に通っているオペラ歌手の卵です」

 あのう、君を探していました。ずっとずっと探していました。
 エミールは壊れた窓から屋根に降り、瓦が外れて足元がぐらつかないよう一気に女の部屋の窓まで走った。
 余りの勢いにさっと窓から離れる少女に向かって、エミールは叫んだ。

「窓を閉めないで。ずっと探していたんだ。僕の『ミミ』を」

 そして頭から窓の中にとびこんだ。
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