第14話 裸足のマリア

文字数 2,489文字

「また留守か…」

 帰宅したエミールは、暗い部屋に灯りをともした。
 真冬の下宿の屋根裏部屋は、水差しの中の水が硬く凍るほどに寒い。
 ストーブの中では燃え尽きた薪が、朝のままの形で残っていた。

 ベルリン、ツォー駅近くの安下宿。
 このところ、帰宅してもマリーが不在な事が多い。
 エミール自身は大学の授業が終わった後、教授陣の雑務を手伝い、ささやかな小遣い稼ぎをしてくるのだが、年が明けてから、マリーがいない日が増えた。

「お針子の仕事がうまくいっていないの?」

 不安を紛らわすようにベットで激しく抱いたあと、大きく上下に喘ぐマリーの小さな胸に顔をうずめた。
 他の男の匂いはしない。

「そうね。最近めっきり縫物の仕事が減ったから、副業をしているの」
「なにを? アンナみたいな盛り場勤めだったら許さないよ」
「まさか。お年寄りのお話し相手よ」

 マリーはすり寄ってくるエミールの髪をクシャッと撫でまわした。

「話し相手といったら、昼間の仕事じゃないのか」
「それが夜なの。旦那様に先立たれた体の弱いお屋敷の奥様のお相手。前の戦争で息子さん達がみんな亡くなって身寄りがないの。不安で寂しくて眠れないんですって。
 だから彼女が寝付くまで、ベッドの脇で本を読んだり、お話し相手になったり。そういう仕事」
「それならまあ、いいけどさ」

 エミールは頭をもたげて、自分を受け止めるマリーの細い体を隅々まで眺めまわした。
 他の男と寝た形跡はない。

「このところ街はとても物騒だから、なるべく早く帰れるように、その奥様にお願いしなさい。でなければ他の仕事を探すこと。いいね」
「分かったわ、エミール」

 再び唇で塞がれながら、マリーはかすれた声で囁いた。


「こんばんは」
「おおマリア、今日もよろしく頼むよ。ご機嫌を損ねないようにな」
「分かっています。大丈夫です」

 ベルリン国立劇場のある、ジャンダルマン広場。
 大勢の人が行き交うロータリーに面したルッター・ウント・ヴェゲナーは、歴史を誇る大箱の酒場だ。
 かつてロシアの中に食い込んだ沿海の古都・ケーニヒスブルクからやって来た小説家・ホフマンが夜ごと役者たちを連れて来ては、夜通し演劇論や文学論、果ては女の攻略について激論を戦わせた店でもある。
 その暗い石造りの建物の脇を入ると、酒場の地下ケラーに通じる、いかにも秘密めいた階段がある。
 そこはもう一つの店に通じているのだ。

 定期的にケラー内をレストランとして営業をする食堂。
 その受付に声をかけたマリーは、階段をトントンと下りた。
 重い扉を開けると、中は四角いテーブルを2台並べた小さな舞台に、ぐるりと丸く取り囲むよう配置された椅子。
 スケッチブックに鉛筆、削りだしナイフ等を抱えた男達と、ごく少数の目の鋭い女性画家たちが椅子の間をうろうろ歩き、いい位置を品定めしていた。
 その間を縫って倉庫番室に入るマリーは、いかにも貧相な体つきに粗末なコート、目深く被った灰色のストールで、誰も注意を払わない。

「さあ、そろそろ始めますよ」

 コートと靴を脱ぎ裸足になったマリーは、セーターとスカート姿でテーブルの上にのぼり、そこで衣服を脱いだ。
 下着は元より着けていない。
 ほの暗いワインケラーの灯りの中で、小さく骨ばった、子供のような裸体が浮かび上がった。


「テーブルの上で膝を抱えて座り、顔を上げてくれ」

 豊かな金髪を下したマリーは、頷いて顔を上げた。
 真正面に回り、膝と膝の間から見える女性器を凝視している老人がいる。

「もう少し腕を下げて、おっぱいを見せて」

 堂々とポーズの注文をする中年男。

「髪をかきあげて、背中に垂らして。顔がよく見えない」

 男のように短く髪を刈りこみ、色彩豊かなマフラーを巻いた女の画家が注文を付ける。
 マリーはその都度小さくうなずいて、注文通りにした。
 10分経つと少し休憩、そして次のポーズに移る。
 背中を見せて四つん這いになり、髪を顔の前に垂らし、露わな首筋と背中を見せる。
 また、立ち上がり手を後ろで組んで胸をそらし、乳房をピンと尖らせる。
 彼女の体に粘っこく視線を這わせるだけの者もいれば、真剣にスケッチに打ち込む者もいる。
 この秘密の集いに来る客層は様々だ。

「モデルさん、こっちに目線をくれ」

 先ほどまで股間に目を凝らしていた男が背後から声をかける。
 ここ3回ばかり、かならず正面に回って彼女の裸を堪能し、ろくに鉛筆を走らせない奴だ。
 まあいい。色んな人間が色んな目的で、この秘密の『全裸モデル嬢写生会』には来る。
 自宅への出張仮縫いの際自分を強姦した男が、口止めを兼ねてこの会のモデルに推薦してくれたのだ。
 自分は書き手の要望に応じて、ポーズをとっていればよい。
 それで縫製工房で働く倍、破格の賃金がもらえるのだ。

 同棲相手のエミールはからきし生活能力がない。
 飲食店や食料品店、家賃の借金が増えるばかり。
 自分が金を稼げばそれらはすべて解消する、とマリーは考えた。
 それには『体』が一番効率的だ。

 全裸のマリーは2時間のポージングの後、また衣服を着て路地に出た。
 先ほどの、自分を凝視する男が声をかける。
 返事をする前に建物の間に引き込まれ、コートの前を開かれた。
 暴力の前に抵抗など意味がない。弱い者は蹂躙されるのだ。
 体を広げ、裸足にヒールをひっかけたまま、高々と足を持ちあげられ、乱暴に突っ込まれる。
 押し付けられた建物の石の壁が、突き上げられる度に背中に擦れて、痛い。
 ろくに濡ずに引き裂かれた陰部も、きしんで痛い。
 ものの5分程度で男は果てると、自分の精液の着いたマリーのペチコートに札を挟むと、急ぎ足で走って行った。
 靴を履き、コートのボタンとベルトを締め、マリーは歩き出した。
 ツォー駅前の下宿で自分を待っている、エミールのもとへ。

 小さな膣から溢れた血と精液が、しばらく、雪の上に点々と垂れていた。


 1月30日、アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任命された。
 国家社会主義ドイツ労働者党、ドイツ国家人民党等による連立内閣ーヒトラー内閣の樹立である。
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