第55話 仲間・1

文字数 2,788文字

「シンノ、慎重になれ。そんなことを気安く口にしてもいいのか?」

 オルガニストのフリードリヒが穏やかな目で僕を見る。

「そんなに大変な事なのかな……じゃ、彼の弟、と呼ぼうか」

 スプーンやフォーク、代用コーヒーの入ったカップ音が急に静かになった気がした。
 午後の陽に照らされた、教会の緑の中庭に面した喫茶部はとても美しい。
 太い幹のクスノキの葉擦れがさやさやと波の音のように聞こえてくる。

「そういえば、聖歌隊席に来てくれた時にちらりと言っていたね、君」

 そうだっけ。覚えていない。僕は自分が思うよりずっとお喋りなのかもしれない。
でもいったん覚えた「こちらを向いてくれた」という感じと嬉しさはそうは鎮まらない。

「『彼の弟』はチェロを弾くんですよ。結構上手かったです」

 ほうほう。
 フリードリヒとオルガン助手のヘルマンは頷いた。
 キムが思い出したように言う。

「そういえば昔から君は、バイオリンやピアノ、色んな楽器が弾けたね」
「器用貧乏なんでね」

 僕らは肩をすくめた。確かに学生時代は音楽の便利な何でも屋だった。
 キムが学生時代の話をしてくれたのは文句なしに嬉しく、僕の口は一層軽やかになった。

「同僚の記者に聞くと『彼』も楽器をよくするんだよ。僕と同じヴァイオリンを」

 へえ。音楽的な素養があるんだね。実に模範的なゲルマン民族だ。
 三人は顔を見合わせ口をゆがめた。
 ただし当世、高名なヴァイオリニストにはユダヤ人が多い。

「君もヴァイオリンが得意だったね。それでお近づきに?」
「たまたま通信社の仕事で、日本からの書類を彼の事務所に持って行っただけさ。それからかな……」
「それから、彼らと親しくなった?」

 キムがやや冷たい声で尋ねる。

「親しい、わけじゃない」

 これ以上話すのは危険だ。僕は何となく危機感を覚え、言葉尻を濁した。
 そして思い出した。ハインツ・ハイドリヒの無防備ともいえる笑顔、写真に向ける情熱、家族への愛情。
 彼は好きなものはまっすぐに好きになる男だ。間違いなく『兄』よりは。

「ただ、彼は『憎めない』」
「コーヒーのおかわりは?」

 僕の言葉を遮る形で、物静かな夫人が声をかけてきた。
 そろそろ片づけにかかるのでね、と。
 礼拝中に献金箱を持って信者席をまわっていた女性だ。
 きっと礼拝委員かその役職なのだろう。

「いえ結構です。ごちそうさまです」

 さて、そろそろ我々も帰るか。
 オルガニストのフリードリヒ、オルガン助手のヘルマン、そして教会歌手のキム。
 三人はさっと立ち上がった。

「君、シンノくん。この教会が気に入ったら、これからも礼拝に来給え。僕たちは神に引かれてやって来たヒツジは大歓迎するよ」

 フリードリヒがやや気取った調子で声をかけてきた。
 僕が挨拶をして帰ろうとすると、助手がキムに話しかけていた。

「ああキム君。これを今日来られなかった聖歌隊メンバーに届けてくれ。訂正は入れてあるから」
「わかりました」
「何だいそれ」

 覗きこんだ僕の顔を、キムは思い切り平手で払いのけた。ピシャリと打たれた頬が音を立て、みるみる赤く腫れる。
 痛い。僕は小さく叫んだが、キムの思いもかけぬ強い反撃の方が衝撃だった。
 しかも表情は切羽詰まっている。

「ごめんごめん。驚いてつい」

 すぐに学生時代のにこやかな顔に戻ると、おわびにと楽譜を広げて見せてくれた。
 昔ながらのドイツの飾り文字で書かれた文言の上に、黒い四角の音符らしい玉、そしてミミズののたくったようなねじれた線。

「これは……グレゴリオ聖歌?」
「違うよ。でもよくその名を知っているね」

 キム達が驚いた顔を見せた。
 ローマ教皇グレゴリウス1世がローマやガリアの諸地方で生まれた聖歌を採取し、記譜を統一して編纂したものだと、以前教会美術の好事家から教えてもらった事がある。
 言葉はラテン語で、西洋では坊さんが日ごと夜ごとの聖務日課で、細かく決められた聖歌を歌い、祈る。
 大勢が言葉と声を合わせるために、発展したのがその記譜法『ネウマ』だという。
カトリック世界では神の言葉たる『詩』を伴った人間の声が最高の音楽とされ、楽譜は羊皮紙に手書きされたものだった。
 修道士や聖職者はその読みにくく大きく重い楽譜を架け台に置いて広げ、みんなで取り囲んで歌ったのだという。
 もっとも大半の坊さんたちは数限りない歌の全て暗記していたというから大変なことだ。
 だが近代になり器楽の合奏が発展すると、そもそもが単声歌唱向きのネウマ譜は読める人が限られ、古いローマ典礼のミサや修道院内でしか歌われなくなった。
 プロテスタントの勃興とともに発展した器楽を駆使するバッハたち、偉大な近代教会音楽にその座を譲ったのだ。

「さっきの讃美歌とは違うね」
「きみ、この記譜が読めるのかい?」

 フリードリヒたちの顔がさっと警戒の色を帯びる。

「ここまで古い記譜法だと、完全には……」
 
 そうだよ。これは音楽史の財産なんだ。
 彼らはさっさと譜面を鞄にしまった。

「でも、さっきキムが歌っていたのはバッハだよね」
「そうだよ。何といってもバッハの音楽はドイツの教会の財産だし」
「でも、たまにはこうして古い教会音楽も勉強しているのさ。でないと理解できなくなってしまう」

 そうか。グレゴリオ聖歌はカトリックの音楽だから、ここの教会では正式な讃美歌とはしないのだろう。

「文化は、繋げていかないと簡単にもつれて糸が切れてしまうのさ」
「そう。そして正しく学んでいかないと、いつのまにかたちまち意味や読み取り方が替えられてしまう。その時々の権力者の意向でね」

 カルカント(ふいご手)と呼ばれるオルガン助手のヘルマンが意味ありげな微笑を浮かべた。
 宗教と権力というのは昔から結びつき、お互い持ちつ持たれつの関係を持ちつつ、また反発し裏切り合う。
 地域が違えばお互いの神を貶す。
 皆が見ている「神」は人や民族それぞれで違うのだろう。
 僕は、皆が見ている「違うもの」の奥に、ただひたすらに細く小さく流れている透明な何か、その何物にも代えがたい何かがあるような気がしている。
 音楽も美術も、民族は違ってもその「何か」にたどり着くための手段なのではないだろうか。

「君の考え方はかなり古風だね。中世カロリング朝的だ」

 オルガニストのフリードリヒが口をゆがめて僕を見返した。

「透明な『何か』はただそれだけのためにあるんだし、音楽や美術も何かの手段じゃない。まして道具じゃない。美はただその行為と結果だけで、素晴らしいものなんだ」
「ルネサンスですね」
「いいや違うよ。僕の言葉だ」

 そろそろ引き揚げるとするか。ご婦人方がいつまでも片づけられないでいるようだし。
 ヘルマンとフリードリヒが楽譜を受け渡して腰を上げた。

「君、こういう勉強に興味があるかい?」

 二人の目が強く光った。

「はい。とても……」

 僕は肯定せざるを得なかった。
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