第60話 されど我らが祖国・2

文字数 2,149文字

 僕らは安全のため教会の外でひっそりと集まった。

『日本の人たちに伝えたい、ベルリンで味わうドイツ各地の料理』という架空の連載特集記事の取材と称し、屋敷や通信社の仲間の家、職員の自宅などでメンバーが実際に料理を作る。
 その際にこっそりと打ち合わせをした。
 ユダヤ人をかくまい脱出させる活動をしているグループで、中立国の『保護証明書』(schuts-pass)や偽通過証を教会の手動印刷機で刷り、名前は手書き、承認スタンプは手彫りでそれらしく偽造し、幾人もの協力者を通して匿われている人たちに配っていた。
 僕らは場所を転々とし、時にキムのアパートに集まる時もあった。
 そんな時は少しでも怪しまれないように、ごく少数の最も信頼できるメンバーだけである。
 その日も僕らは、傾きかけたベルリンの秋の日差しをカーテンで遮り、外界から隠れつつ偽の通過証作りに励んでいた。

「本当は僕はこんなことはやりたくないんだ」

 ハンナと蒸し暑いアパートで作業に集中していると、突然キムが呟いた。
 厚い胸板と太い首筋に、シャツの上からもわかる汗がすじを作っている。

「意外だな。君は自分から進んでこの活動に参加したのかと思っていた」

 彼の目が冷たく僕を捉えた。何か不味い事を言ったのだろうか。昔から、彼は僕の言葉を聞くと、こうした目で観返す。そう、学生時代から。

「活動そのものは全く苦ではない。むしろ喜びだ。僕が言うのは……この署名のことだよ」

 彼の手元には、作りかけのスェーデン行きの偽の通過証がある。
 日本大使館の偽の判子に職員の署名。ドイツにおいて友好国が発行し、中立国へ渡る『強い』証明書だ。

「僕は日本人じゃない。本来ならここに『日本』の捺印をする役割なんかないんだ」
「どうしたんだ。君、日本人じゃないか。日本で教育を受けて、日本政府の発行した査証でここにいるんだろう?」

 いきなり何を言い出すのか。思いつめた顔をして。

「それはそうだが正直抵抗がある。嫌だと言ってもいい」

 彼は時々僕が理解できない事を言う。
 朝鮮半島で生まれ育ったというのは知っている。でもその朝鮮は何十年も前から日本と併合し保護下に置かれている。
 ベルリンオリンピックで男子マラソン金メダルをとった 孫基禎、銅メダルの 南昇竜、ロスアンジェルスオリンピックマラソン選手の 権泰夏、 金恩培、ボクシングの 黃乙秀。
 みな日本本土の大学に進学し、優れた教育を受け才能を伸ばした青年たちではないか。
 キム本人も「日本人」と言う扱いであればこそ、ドイツで安全に暮らしているのではないか。

「こんな時だ。君たち朝鮮族には歴史的に色々不満があるにせよ、今現在は日本政府が身柄を保護している。だから堂々と『日本人』として振る舞えばいいんじゃないのか?」

 蒸し暑い緊迫した作業部屋で、僕の言葉はずいぶんのんきに響いたかもしれない。
 君にはわからないよ。
 彼は切れ長の目を大きく見開いて、そう言いたげに僕を一瞥した。

「日本国民と名乗るも、朝鮮の民と名乗るも決めるのは自分でありたいんだ。政府や首長じゃない。ましてや天皇陛下でもない」

 吐き捨てる様な語調に、かれる深い怒りを感じたが、僕はなぜそんなに怒っているのかわからなかった。
 間違いなく、朝鮮半島に居続けるより良い待遇、教育、生活を送っているはずなのに。

「なんでそんなに憤慨しているのか、僕にはさっぱり」
「この件で議論するのはやめよう。そもそも議論にもならない。君と僕は永遠に相容れないな」

 そうだね。
 僕は渋々頷くしかなかった。
 彼を見下したことは一度もない。そんな言動をした覚えもない。なのに彼と僕は同じものを同じように見て、感じることはできないようだ。
 ハンナは不思議そうに僕たち二人を見回しながら、片時も手を休めない。

「ユダヤ人を観たまえ。ドイツ人として先の大戦で兵役に就き戦闘で負傷した者も、額に汗して一生懸命働いて多額の税金を納めている者もいる。
 取り立てるときはドイツ人扱いで、排除する時は『ユダヤ人』に戻されたんだ。何代この地に住んでいてもそうだ。
 異邦人としての扱い。そこから一歩も進んでいない。僕たちだってそうだ。せめて名乗る国籍くらい自分で決めさせてもらいたいよ」

 彼の怒りと憎しみを込めた低い声に、僕は反論できなかった。

 1941年5月末。
 ラジオから流れた重大な事件に、ドイツ国民は驚愕した。
 ベーメン・メーレン保護領の副総督ラインハルト・ハイドリヒが暗殺者に襲われ負傷したという。
 ハインツ・ハイドリヒの兄だ。
 万事大らかで威圧的だが悪い奴じゃない彼、ハインツはどうしているだろう。僕は連絡を取りたいと思ったが、とどまった。
 もうSSやSD、ゲシュタポとは敵対する側の人間なのだ。いくら音楽仲間(だと僕は思っている)といっても、自分から踏み出すべきではない。
 彼は軍の、党の人間で、なにより兄がボヘミアで「金髪の野獣」と称されるほど残忍な取り締まりや公開処刑を行っていると、当然知っているはずだ。

 当初ドイツ人医師によって手術を受け、病室で見舞いを受けられるほどに元気だと報じられたラインハルト・ハイドリヒの状態は、一転した。
 容態が急変し、6月4日に死亡したとの知らせが首都を駆け巡った。
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