第30話 菩提樹の下の夏休み

文字数 2,859文字

 1936年8月、夏の日差しにリンデンバウムの木陰の濃いベルリンでは、第11回オリンピック競技大会が開催された。
 世にいうベルリンオリンピック、ヒトラーのオリンピックである。
 第一次大戦中の1916年に開催が決まっていたベルリン大会は、戦争により中止、ドイツ敗戦後の1931年、パリでの開催地投票においてスペインのバルセロナを破り、開催が決まったものだった。

 1933年のドイツ国内総選挙で第一党の座を得て、ヒトラーが首相になると、ナチスは猛然とアーリア系以外のスポーツ選手を排斥し始めた。
 4月、既存のすべてのスポーツ施設はアーリア人以外の使用が出来なくなった。
 国際的な活躍をしていた選手、第一線にたち優勝も期待されている選手も例外ではなかった。
 ドイツ・ボクシング協会は、アマチュアトップ選手のエーリッヒ・ゼーリッヒをユダヤ系の故に追放し、彼はそのキャリアをアメリカで続けなければならなくなったし、
 走り高跳びの世界的アスリート、グレーテル・ベルクマンは1933年にドイツ中のクラブから締め出され、1936年には直前に迫ったオリンピックのチームからも追放された。
 ユダヤ系以外でも、シンティ・ロマのボクシング選手ヨハン・ルーケリ・トロールマンなど、多くのロマに出自を持つ選手たちが排斥された。
 ドイツ国内の幾つかのユダヤ人コミュニティは、寄付金を出し合い練習施設を建てたが、党や国家の全面的な後押しを受ける、行き届いたアーリア人専用の施設には及ばなかった。

 こうしたナチスの動きは、ドイツの拡張路線を警戒するヨーロッパやアメリカの国々に伝わり、各国でボイコット運動が起こった。
 なかでも、国力を見せつけるべく最大規模の選手団を送ろうとしていたアメリカで、その動きは一際大きかったが、1935年12月、米アマチュア体育連盟がベルリン大会参加を表明すると、国レベルでのボイコット運動は急速に衰退していった。
 勢いを失ってゆく反ナチ勢力が目を向けたのは、決勝投票で敗れたスペイン・バルセロナで、ベルリン大会と同時期開催予定のもう一つのオリンピック、「人民オリンピック大会」であった。
 その名の通り、どちらかと言うとリベラル寄りの知識人、アスリート達に支持され静かに準備が進んでいた。
 だが七月、フランコ将軍の叛乱を契機としてスペイン内乱が勃発すると、計画は霧散した。

 そうした外国の動きにナチスは敏感に反応した。
 ゲッベルスの宣伝省は新聞やラジオ・雑誌に命じ、それまで口を極めて罵ってきた民族、人種、主義への、攻撃的な論調を控えた。
 党員によるユダヤ人攻撃の看板や落書き、店や家への攻撃は禁じられ、ゲシュタポやナチ党員の態度も和らいだ。
 危険を察知して国外に出ていたユダヤ人たちの中には、ナチスが外国の圧力で方針を変えたと判断し、帰国する者もいた。
 しかし彼らも、オリンピックでドイツを訪れた外国人も知らなかった。
 暴力と不寛容の機関砲に平和の仮面をかぶせ、強制収容所や逮捕に関する法律を緩め、一部の政治犯の国外脱出(事実上の亡命)を許しさえしたナチスが、その同じ手で、ベルリンやその近郊に住む800人余のロマの人々を逮捕・拘束していたことを。
 そして彼らはそのまま、人目につかないベルリン郊外マルツァーンの特別収容所に送られたことを。

 短いベルリンの夏。
 海を渡ってきた黒人やユダヤ系を含むアメリカ人や、ヒトラーの著書『我が闘争』で悪しざまに罵られた日本人をはじめ、各国の選手団はドイツ国民の歓待を受け、立派で快適な選手村でのびのびと過ごすことが出来たし、練習も時間通りにできた。
 宿舎のレストランでは出身国の料理も供され、長旅で疲れた選手たちを喜ばせた。
 選手と共に来独したスタッフや取材陣だけでなく、全ての外国人訪問者は、ドイツの厳格な『反同性愛法』の対象外とされた。
 日本人の選手団は、ベルリンの大使館や在留邦人会の熱烈な歓迎を受け、女子選手たちは艶やかな着物姿で取材に応じた。
 夏のベルリンの街を背にした、若い日本女性達の振り袖姿の写真は、今日も見る事が出来る。
 駐ドイツ大使館付武官の大島浩少将は、はりきって彼らをもてなした。
 大使館主催で催されるパーティーで室内楽を奏で、少将の偏愛するオペレッタのアリアや歌曲を歌うメンバーの中に、キムとシンノの姿はなかった。

 大学で肩身の狭い思いをしているミリヤナに、イサーク・ヅィンマンから連絡が入ったのは8月初旬。
 オリンピックが始まり既に数日過ぎたあたりだった。
 ドアの隙間から挿しこまれた『ベルリン大聖堂の向かい。ウンターデンリンデンの聖火台の前』というメモを読み、イヴァンとゲアハルトと共に向かったミリヤナの傍にやって来たのは、痩せこけ変わり果てたイサーク・ヅィンマン先生だった。

「私は久々に来たのですが、ベルリンはすばらしく変わりましたね。道に迷ってしまいましたよ」

 先生は安っぽい夏物のスーツの内ポケットから、外国人用に配られたベルリンの観光案内地図を出し、学生たちに尋ねるふりをした。

「この地図は分かりにくい。君達道を教えてくれないかな」

 そして、あっけにとられる教え子たちに地図を押し付け、顔を寄せた。

「政策を緩めたと聞いて一時帰っているんだよ。銀行に預けたささやかな金や、出版した楽譜の権利の話など整理しておかなければならないからね」
「じゃ、当分ここにいらっしゃるんですか?」

 ウクライナの西、ガリツィアから留学しているイヴァンが小声で尋ねた。
 ポーランド領になったりウクライナ・ソビエト地域になったり彷徨う故郷。
 そこから来た自分も、ナチスの体制が変ったら本国に帰らなくてはならないかもしれない。
 だがそこはどこだ?
 セルビアから来ているミリヤナも、ポーランド回廊の北、東プロイセンのケーニヒスベルクから来たゲアハルトも、不安を抱えてこのベルリンに滞在している。

「用事が済んだらまた出て行くよ。ただし、今度は多少ゆっくりと余裕をもって出国したいがね」

 これを君達が大事に持っていてくれ。
 イツァーク先生が渡した観光案内の、ページの途中は、妙に膨らんでいた。

 8月16日。オリンピックスタジアムに集まったドイツ人の歓呼の声の中、オリンピックは幕を閉じた。
 二週間の、きらめくドイツの夏休みは終わった。
 そしてすぐに、迫害の嵐が吹き返した。
 閉会式からわずか2日後の8月18日、外国の選手団の歓待の責任者・オリンピック選手村の所長、ヴォルフガング・フルストナー国防軍大尉が解任される。
 彼の先祖にユダヤ人がいたというのが、その理由であった。
 翌19日、フルストナーは絶望のうちに自殺した。
 ナチスのユダヤ人迫害政策は、オリンピック終了と共に再開されたのだった。
 当局に目をつけられていたヅィンマン先生も例外ではなく、姿を消した。
 渡された観光案内に走り書きされた住所に駆けつけると、そこはゲシュタポに荒らされ、もぬけの空のアパートが在るだけだった。
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