第33話 クリスマスのプレゼント・2
文字数 2,431文字
「マリー、外に食事に行かないかい? 」
クリスマスの夜、室内をきちんと片付け、花瓶に花を飾りストーブの前にツリーを据え付けたマリーは、驚いた。
外食に誘われるなんて何カ月ぶりだろう。
彼がナチ党に入党し、SS内で地位を固めていくにつれ、彼女に渡す金は増えた。
一般の労働者には到底手に入らないような、上等の食料品店にも入る事が出来たし、どこかからの伝手で貴重なワインや塊のハム、高価な菓子類も時々ではあるが手に入れる事が出来た。
今日、彼のために用意したクリスマスディナーもそうやって準備したものだ。
大きめの調理用ストーブでは肉入りスープが湯気を立て、オーブンにはお腹に香草を詰めてしっとり焼き上げた、がちょうのロースト。
ジャガイモと干し青豆と甘い人参にバターをまとわせた温野菜が保温されていたし、リンゴとキイチゴの砂糖煮を添えたカスタードクリームのデザートもある。
でもそんな準備された食事より、久し振りに自分を気遣ってくれるエミールの態度がささくれた心に沁みる。マリーは一も二にもなく応じた。
スープは後日の夕飯に回せば問題ないし、がちょうの肉も薄く切って、カツレツやサンドイッチの具に使い回せる。
そうした食材の繰り回しもまた、模範的な家庭人たるゲルマン女性のたしなみだ。
「嬉しいわ。外で二人で食べるなんて久し振りでドキドキする」
「精一杯おめかしして出かけよう。正直、仕事から帰って、おどおどこちらを恐れている君を目にするのは、うんざりだからね」
「ごめんなさい……」
マリーのクローゼットを漁る手が止まった。
今の住まい……学生時代に住んでいた、動物園駅近くの吠え声の聞こえるアパートからは考えられない瀟洒なアパートは、他所の土地へ『疎開』した金持ちのユダヤ人一家が澄んでいたものだ。
家具も、食器も、リネン類も全て国家が『預かり』、党員やその家族に与えたものだ。
マリーは彼がどんな仕事についているのか知らない。
だが『一日中机に向かい、色んな予定を立てたり調整したり』する仕事なのだと聞き、ホッとしていた。
数年前のオペラ仲間が痛めつけられ逮捕されたような、暴力的な恐ろしい「ナチの奴ら」とは違う。
恋人は人に手を上げることなどない、紳士のナチ党員なのだ。
時々昔の私のことを思い出して、逆上して殴りつけたり、ベッドや床で痛い目に遭わせる事はあるけど。
「これなんかどうかしら」
夏のウンターデンリンデンに繁る葉と同じ、明るい緑色のスーツを取り出した。
生地はしっかりとしたウールとシルク。これも『前の住民』のユダヤ人妻が残していったものだ。
シルクのブラウスの上から着てみると、やや大きくてだぶつく。
「ちょっと体に合っていないね。随分痩せた。なんだかとてもしぼんできたぞ」
今のマリーは頬がこけ、小ぶりながら張りのあった胸も若干しぼんで見える。
「体のどこも悪いところはないのよ」
「もう体で稼ぐ必要もないしね。消耗して痩せてしまうほどには」
エミールは皮肉を忘れなかった。
「じゃ健康なドイツ夫人にふさわしい、血肉になるようなご馳走を食べよう。君がお腹がいっぱいだと言っても、僕が認めるまでご馳走さまはさせないぞ」
「マリー、掌を見せて」
口元をぬぐった白いナプキンを卓上に置き、エミールは手を差し出した。
ベルリンでも目抜き通りの格式の高いレストラン。ここで食べるクリスマスのご馳走は旨いが、やや重く腹にたまる。
卵黄のスープ、鯉のフライ、アヒルの照り焼きに各種果物のシロップ煮にケーキ。
付け合わせの野菜も山盛りで、パンも次から次へとサーブされる。
コーヒーまでたどり着くころには誇り高いSD隊員のエミールも食べ疲れしてしまう程だ。
痩せっぽちで小食のマリーに至っては、ごめんなさいと謝りながら半分以上残している。
「やっぱりお国のフランスの料理の方が味は上か?」
元から健啖な女ではないとわかっていても、ついつい意地悪な口調になってしまう。
クリスマスの夜くらい優しい関係でいられないものか。
昔みたいに。
数年前に演じたオペラ「ラ・ボエーム」の恋人同士、ロドルフォとミミのように。
おずおずと差し出されたマリーの手はごつごつと細く、骨ばっていた。
指の爪の際も荒れているし、肌にハリが無い。
老人の手のような恋人の指に、エミールは軽い衝撃を覚えた。
オペラのヒロイン役の歌手を探していた頃。
歌声に惹かれて窓から屋根を伝い部屋に跳び込んでいった頃。
彼女は優しく柔らかく、弾むような肌をしていた。
「これはクリスマスのプレゼントだよ」
上着のポケットから小さな箱を取り出すと、ふたを開け、金色のブローチを取り出した。
精緻な淡いブルーの花が彫られている。
「君の瞳の色にそっくりだろう」
エミールは椅子から立ち、驚きで口もきけずにいる恋人の傍に寄った。
緑のスーツに青いブローチは、色合い的に映えないが、衿元のやや下、美しい鎖骨を隠す位置に留めてあげた。
「ああエミール、こんなに素敵なものを。高価でしょうに…いいの? 私なんかに」
「いいんだよ。どうぞ貰って。僕もやっと、こういうのを手に入れられるようになったんだから」
エミールはどうやってそれを手に入れたか言わなかった。
上官の口利きで、ポーランドのゲットーに『疎開』させられたユダヤ人の富豪の夫人のものを入手できたのだ。
ユダヤ教の信者でもなく、何代も前にキリスト教に改宗した一族だったと言うが、それはこの国でのユダヤ人の身の安全に、いくばくかの担保にもならない。
涙を流し彼の胸にかじりつくマリーを抱きとめ、周りのテーブルから拍手を浴びながら、エミールは自分の役職と手際に満足していた。
男の瞳がサディスティックに輝くのを視止めた女は、急に呼吸が早くなった。
帰宅後ベッドでされることを予想したのだろう。
今夜は『素敵な夜』になりそうだ。
年が明けた1942年、エミールはチェコに旅立って行った。
クリスマスの夜、室内をきちんと片付け、花瓶に花を飾りストーブの前にツリーを据え付けたマリーは、驚いた。
外食に誘われるなんて何カ月ぶりだろう。
彼がナチ党に入党し、SS内で地位を固めていくにつれ、彼女に渡す金は増えた。
一般の労働者には到底手に入らないような、上等の食料品店にも入る事が出来たし、どこかからの伝手で貴重なワインや塊のハム、高価な菓子類も時々ではあるが手に入れる事が出来た。
今日、彼のために用意したクリスマスディナーもそうやって準備したものだ。
大きめの調理用ストーブでは肉入りスープが湯気を立て、オーブンにはお腹に香草を詰めてしっとり焼き上げた、がちょうのロースト。
ジャガイモと干し青豆と甘い人参にバターをまとわせた温野菜が保温されていたし、リンゴとキイチゴの砂糖煮を添えたカスタードクリームのデザートもある。
でもそんな準備された食事より、久し振りに自分を気遣ってくれるエミールの態度がささくれた心に沁みる。マリーは一も二にもなく応じた。
スープは後日の夕飯に回せば問題ないし、がちょうの肉も薄く切って、カツレツやサンドイッチの具に使い回せる。
そうした食材の繰り回しもまた、模範的な家庭人たるゲルマン女性のたしなみだ。
「嬉しいわ。外で二人で食べるなんて久し振りでドキドキする」
「精一杯おめかしして出かけよう。正直、仕事から帰って、おどおどこちらを恐れている君を目にするのは、うんざりだからね」
「ごめんなさい……」
マリーのクローゼットを漁る手が止まった。
今の住まい……学生時代に住んでいた、動物園駅近くの吠え声の聞こえるアパートからは考えられない瀟洒なアパートは、他所の土地へ『疎開』した金持ちのユダヤ人一家が澄んでいたものだ。
家具も、食器も、リネン類も全て国家が『預かり』、党員やその家族に与えたものだ。
マリーは彼がどんな仕事についているのか知らない。
だが『一日中机に向かい、色んな予定を立てたり調整したり』する仕事なのだと聞き、ホッとしていた。
数年前のオペラ仲間が痛めつけられ逮捕されたような、暴力的な恐ろしい「ナチの奴ら」とは違う。
恋人は人に手を上げることなどない、紳士のナチ党員なのだ。
時々昔の私のことを思い出して、逆上して殴りつけたり、ベッドや床で痛い目に遭わせる事はあるけど。
「これなんかどうかしら」
夏のウンターデンリンデンに繁る葉と同じ、明るい緑色のスーツを取り出した。
生地はしっかりとしたウールとシルク。これも『前の住民』のユダヤ人妻が残していったものだ。
シルクのブラウスの上から着てみると、やや大きくてだぶつく。
「ちょっと体に合っていないね。随分痩せた。なんだかとてもしぼんできたぞ」
今のマリーは頬がこけ、小ぶりながら張りのあった胸も若干しぼんで見える。
「体のどこも悪いところはないのよ」
「もう体で稼ぐ必要もないしね。消耗して痩せてしまうほどには」
エミールは皮肉を忘れなかった。
「じゃ健康なドイツ夫人にふさわしい、血肉になるようなご馳走を食べよう。君がお腹がいっぱいだと言っても、僕が認めるまでご馳走さまはさせないぞ」
「マリー、掌を見せて」
口元をぬぐった白いナプキンを卓上に置き、エミールは手を差し出した。
ベルリンでも目抜き通りの格式の高いレストラン。ここで食べるクリスマスのご馳走は旨いが、やや重く腹にたまる。
卵黄のスープ、鯉のフライ、アヒルの照り焼きに各種果物のシロップ煮にケーキ。
付け合わせの野菜も山盛りで、パンも次から次へとサーブされる。
コーヒーまでたどり着くころには誇り高いSD隊員のエミールも食べ疲れしてしまう程だ。
痩せっぽちで小食のマリーに至っては、ごめんなさいと謝りながら半分以上残している。
「やっぱりお国のフランスの料理の方が味は上か?」
元から健啖な女ではないとわかっていても、ついつい意地悪な口調になってしまう。
クリスマスの夜くらい優しい関係でいられないものか。
昔みたいに。
数年前に演じたオペラ「ラ・ボエーム」の恋人同士、ロドルフォとミミのように。
おずおずと差し出されたマリーの手はごつごつと細く、骨ばっていた。
指の爪の際も荒れているし、肌にハリが無い。
老人の手のような恋人の指に、エミールは軽い衝撃を覚えた。
オペラのヒロイン役の歌手を探していた頃。
歌声に惹かれて窓から屋根を伝い部屋に跳び込んでいった頃。
彼女は優しく柔らかく、弾むような肌をしていた。
「これはクリスマスのプレゼントだよ」
上着のポケットから小さな箱を取り出すと、ふたを開け、金色のブローチを取り出した。
精緻な淡いブルーの花が彫られている。
「君の瞳の色にそっくりだろう」
エミールは椅子から立ち、驚きで口もきけずにいる恋人の傍に寄った。
緑のスーツに青いブローチは、色合い的に映えないが、衿元のやや下、美しい鎖骨を隠す位置に留めてあげた。
「ああエミール、こんなに素敵なものを。高価でしょうに…いいの? 私なんかに」
「いいんだよ。どうぞ貰って。僕もやっと、こういうのを手に入れられるようになったんだから」
エミールはどうやってそれを手に入れたか言わなかった。
上官の口利きで、ポーランドのゲットーに『疎開』させられたユダヤ人の富豪の夫人のものを入手できたのだ。
ユダヤ教の信者でもなく、何代も前にキリスト教に改宗した一族だったと言うが、それはこの国でのユダヤ人の身の安全に、いくばくかの担保にもならない。
涙を流し彼の胸にかじりつくマリーを抱きとめ、周りのテーブルから拍手を浴びながら、エミールは自分の役職と手際に満足していた。
男の瞳がサディスティックに輝くのを視止めた女は、急に呼吸が早くなった。
帰宅後ベッドでされることを予想したのだろう。
今夜は『素敵な夜』になりそうだ。
年が明けた1942年、エミールはチェコに旅立って行った。