第90話 ウンターデンリンデンのベンチで

文字数 3,140文字

「おめでとう」
「デビューおめでとう。素晴らしかったわ」

 エミリアは控室で白い衣装を脱ぎ、顔と体の汗を拭いた。

 レクイエムの最後、「 In Paradisum」が終わり、ソプラノパートの和声が静かに消え、聖堂内の残響が消え、若い指揮者のタクトが静かに下ろされたとき、大海の波のような拍手が教会中に響き渡った。
 涼し気な美しい顔をした東洋人の青年指揮者が満面の笑みで握手を求め、父親のような年齢のバリトンソロは感極まって泣き出したエミリアの肩を抱き、背中を叩いてくれた。
 昨日までの一人の少年顔の女子大生にとって、人生最初の成功の瞬間だった。
 父親と母親のいないフランス娘。
 もと親衛隊員に育てられた私生児。
 そんな「模範的な」人々から受け続けた侮蔑のまなざしは、この瞬間だけ消えた。
 祭壇のステージから降りて支度部屋に向かう間も、合唱のご婦人たちが周りを取り囲み、口々に賛辞を投げかけてくれた。
 私には何もないと思っていたけど、これから何か見つけられるのか不安で、心の中で泣いてばかりいたけれど、今夜見つけた。
 私には音楽があった。
 それだけで、私は毅然と生きていける。
 エミリアのうるんだ眼は輝かしい未来と希望に濡れていた。

 こうしてはいられない。
 早く身支度をして、ハンス・エーベルトさんと合流しなくちゃ。
 支度部屋のカーテンの陰で、来た時のシャツとジーンズに着替え、身軽なスニーカーを履く。
 皆に撫でられてくしゃくしゃの金髪ショートヘアは、彼女をますます少年のように見せた。

「急いでどこへ行くの? 打ち上げの食事会には来るんでしょう?」

 同部屋になった楽団の女性奏者が声をかける。

「ええ。人と待ち合わせなんです。すぐに皆のお店に行きますよ」

 教会を出て、息きせって広い道路を渡ったエミリアは、舗道のベンチに腰かけた。
 ガストシュッテウンターデンリンデンの前。
 母の友人ハンス・エーベルトさんと待ち合わせの場所だ。
 演奏会参加者のみんなもこの店で打ち上げをする。
 おいおい集まって来るだろう。
 素晴らしい夜。神様に祝福された夜。世界はこんなにも素敵で、美しいものなのだ。
 胸に固く抱いているのは、ロビーの売店で買った『生きるに値する命のためのレクイエム』の資料と、作曲者イサーク・ヅィンマン氏の若い頃の論文集。
 エミリアは幸せなため息をついた。

 だが通りの様子は開演前とは一変していた。
 怒り猛った人々の数は増し、ビスマルク通りに恐ろしい勢いで膨れ上がっていた。
 怒声、喚声、地の底から湧き出るような男たちの掛け声。
 イランの独裁者と言われる王様パーレビに、彼が権力のままに振るう横暴な力に、まずは留学生やジャーナリスト志望の学生たちが怒りの声を上げ、それが狼煙のようにベルリン中の学生に広まっていったのだ。
 通りや広場、建物の前は後から後から合流し増えつつ急けるデモ隊に占拠されつつあった。
 ベンチにちょこんと坐っていられる状況ではない。
 エーベルトさんはまだ来ないのか。
 座った脚や肩、頭に人々の体やプレートがぶつかり、自分も渦に巻き込まれて流されてしまいそうだ。
 さすがに危ない。
 もう店に入ってしまおう。
 エーベルトさんは他の人たちと一緒に、きっと後から来る。この人波をやり過ごした後に。

 前方で、デモ隊と警官隊がぶつかった。
 怒号と人が殴られる音、警棒が風を切る音、ザーッと一斉に引き返す人々の、走る勢い。
 エミリアの目の前で、悲鳴と共に学生たちが右に左に走っていた。
 体の大きな青年たちがドンとぶつかる。
 頭を打って、目がまわりちかちかする。
 二人目、三人目と次々に逃げる若者たちにぶつけられ、胸に抱いた紙の束を地面に落としてしまった。
 大事なレクイエムの楽譜と資料。
 大勢の足が音楽を踏みにじって走ってゆく。
 エミリアは身体を投げ出し、地面に散った紙類を拾おうとかがんだ。

「エミリア ! 」

 突然大声で呼ばれた気がして顔を上げると、路肩に停めた黒いベンツの中から、小柄な男がとび出した。
 パアンという軽い音が響いた。
 銃声だ。
 小柄な男性は車の脇で崩れ落ちた。
 エミリアは凍り付いた。
 途端にわっと群衆が動き出した。
 恐怖のあまり、てんでバラバラの方向に逃げようとぶつかって転び、折り重なって倒れる。
 建物と道路の灯りだけの中、右往左往する悲鳴が上がる。
 その声がまたパニックを引き起こすのだ。
 怖い。エミリアは膝を抱え、ベンチの上に小さく丸まって目と耳とを塞いだ。

「なんてことだ、学生が殺されたぞ」
「警官が撃ちやがった」

 こんどは全く別の方向から怒声が揚がった。
 黒いベンツから四人の男たちが降り、ドアの下に転がった男をさっさと車内に押し込むと、猛スピードで走り去った。
 デモ隊は彼方の方に移動し、まだ怒りの声を上げている。
 エミリアはゆっくりと動き出した。
 固くこわばって指を一本一本はがし、その隙間からまわりを見ると、地面に先ほど落としたレクイエムの資料が散らばっている。
 大勢の足に踏みにじられ、破れてバラバラになってしまった。
 何という事だ。
 何という夜だ。
 先ほどまであんなに幸せだったのに、目の前で人が撃たれ、命を落としたらしい。
 これが自分の住む街で、目の前で起こった出来事なのが、信じられなかった。

「お嬢さん、手伝うわ」

 いつの間にか、中年の女性と髭に丸眼鏡の老人が、屈んで拾うのを手伝ってくれた。

「はいこれ。ひどいことになったわね。大事な楽譜なのでしょう?」
「ありがとうございます。さっき教会での本番を終えたばかりなんです。こんなことになるなんて……」
「なに、僕の音楽を大事にしてくれるお嬢さんを、お手伝いするのは当然さ」

 眼鏡の老人が柔かく笑いかける。もじゃもじゃの髪と人懐こい笑顔は、先ほどの資料で観た青年作曲家の面影があった。

「あの、もしかしてあなたがヅィンマン先生ですか」

 この一年全力でぶつかって来た音楽の作り手が、いま目の前にいる。
 エミリアは思わず涙ぐんだ。

「そうだよ。こんな年寄りでがっかりさせてしまったね」

 きりりと引き締まった黒豹のようなシャツとパンツスーツに、鋭い目をした中年女性が、老人と顔を見合わせて笑った。

「あなたはソプラノソロのエミリアさんね。私は舞台監督のミリヤナ・アシュバンよ」

 エミリアは信じられないとばかりに笑顔を震わせた。
 今日一日であまりにも多くの事があり過ぎる。

「この曲はね、むかし、僕が大学で音楽を教えていた頃、貴女みたいな若い人たちに囲まれる日々の中で作曲したものだ。『壁』の向こうの、ブランデンブルク門からアレクサンダー広場へと続く、ウンターデンリンデンのベンチに座って」

 なあミリヤナ君、と言葉を投げかけられた演出家は、遠くを見るような眼で振り返った。
 この通りの向こう、ティアガルデンと戦勝記念塔、ソビエト戦勝広場を過ぎて着いたところが『壁』なのだ。

「ええそうよ。戦争が始まった時、平和になったらまた一緒に歌おうと約束して、みんなそれぞれの故国にもどっていったの」
「その約束は、果たされたんですか?」

 エミリアの素直な疑問に、二人は黙って頭を振った。
 警察車両のサイレンと、興奮した人々の叫び声がまだ聞こえてくる。

「でも、僕たちが生きているうちに、あの門と『壁』を越えて行けるようになったら、ウンターデンリンデンの通りを歩いて、そこのベンチにゆっくり座って語らう事ができるようになったら……もう一度、演奏会を開くつもりだ。
今度はみんな、今回集まる事が出来なかった生徒たちや仲間、対立していた人たち……いろんな人も一緒にね」

 ウンターデンリンデンのベンチで。

 ヅィンマンはそっと目をつぶった。
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